信頼して語ることの力

ここのところインドでの気づきについてを語り続けて毎日が過ぎていく。


本当になぜか毎日そんな話ができる機会が続いていることが、とても不思議なことだけど、インドで気付いたものの結果は、まさに生きることはそんなもんなのだということを受け入れ始めているからこそ、そろそろ不思議でもなんでもなくなってきた。

このことをなんと表現すると気持ちがすなおに言葉に載っかるのかが、いまちょっと腑に落ちてないところがある。だからこそ、言葉にしていける機会があるということは大変ありがたい機会だと思っている。


今日は静岡の小商い塾の定例の勉強会にて、インドの話やら、五感の話やらを猛烈に言葉にしまくってきた。言葉にするという感覚というのは、頭の中にある言葉をどうするということではなく、直感で得た記憶を言葉に落としてみながら、それが正しい表現であるかを確かめるような作業である。

実際に文字にしてみたり、音にしてみると、意外とピンとこなかったりすることはあって、何回も何回も言葉にしながら本当に言いたかったことがフィットしてくるというもの。だからもう、正解を求めて言葉にするような、そんな100発100中を実現できると思っていないし、そんなことに意味もないので、とにかくひたすら降りてくるものをどんどん口にしていくだけ。


その中で、なんか口にひっかかって、頭に残って、なんども登場する不思議な生き残りこそが、本当の知識と知恵となって昇華していくように思うような感覚がある。だから恐れずに言葉にして、なんども違和感を感じながら、ふとついて出た言葉に自分自身が驚きながら、吐く言葉に感受性を解放して浸り続けることで、ずしっと芯を食う表現は生き残っていく。


信頼して語ることの意味は、その発展途上の言葉にこそ生きている自分の姿があることを示し、容認され続けていく自分の存在そのものであり、恐れない姿と表現とその変化やときに進化する言葉が生まれていくプロセスであり、それこそが勇気と愛であることを示す。


こうして言葉にするほどに確信していくのは、相手に伝わらないはずだとタカをくくっている、相手の理解力を信じられないとすれば相手に対する信頼を持っていないのは、よほど傷つきたくない自分のほうなのではないか。


いや、そうに決まっている。


その勇気を持つことを決めたのだということに気づく。変人だと思われてもなにが怖いのだろうか。もともと変人だと思われていなかったとでも言うのかと。これまでそんな変な生き方も格好もしないほうがいいとアドバイスをしてくれた人たちをことごとく無視してきたくせに?


このためらいをいまだに自分が持っていたという事実が笑える。
そして勇気をもたせてくれる関係性に愛をもって応えて生きていく。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。