第20話 ビクーニャが原のフェルナンド

ブブブ…と上空を飛ぶセスナのプロペラ音が聞こえる。ここはペルー中南部のナスカ。かの有名な地上絵を見るためのツアーセスナが空を旋回しているのだ。そして同時に乾燥した砂漠の上にちらほらと十字架が目立つようになってきた。これが誰のものかは明白で、どれもこれも墜落したセスナの人たちを祭ったものである。
「いくら何でも落ち過ぎだろう…」
ただでさえ乗り物に酔いやすいのだ、落ちなくても地獄、落ちても地獄の地上絵をわざわざ見る必要はないだろう。だいたい、僕は数年前に東京国立博物館で開催されたナスカ展でやっていたヴァーチャル飛行でさえ、酔って気持ち悪くなってしまったのだから…。
それよりも、である。
僕にはもっと大事な喫緊の問題があった。ナスカの次の目的地はクスコである。インカ帝国の古都を目指すことは、即ちアンデス山脈を越えることを意味していて、押さえている情報だけで約六五〇キロの道中に四〇〇〇メートル越えの峠が三本あるらしい。その間に街はたったの三つだけ。そう、だからこんなところで僕は酔う酔わない、死ぬ死なないをあれこれ悩んでいる余裕などないのだ。
ナスカには合計三泊をしたが、その間僕は自転車の整備と食料の準備、そして「食いだめ」ということでセントロの角にあるハツの串焼きレストランへ足繁く通い、エネルギー充填に努めた。
そしてナスカを出発すると早くも山道に突入した。岩肌がむき出しになったどす黒い山の向こうに白っぽい巨大な砂山がそびえている。この世界最大の砂山セロ・ブランコを横目に眺めながら、大量の食料と水を荷台に積んだ自転車をふらふら、のろのろと進めていった。
幸いにもペルーの道の傾斜は緩かったので、重くてペダルが回らないということはなかった。しかし砂漠地域の日差しは強烈で、ひりひりと僕の鼻や腕を焦がしつける。汗を一滴もかかない猛烈な乾燥地帯は確実に僕の体力を奪っていく。それでも一漕ぎ一漕ぎ、踏みしめるように少しずつ高度を上げてゆく。立ち止まって振り返る度にぐねぐねの九十九折りのうねりが増えていく。正直言って地上絵よりも、こんな土地に道を通してしまった現代のペルー人の方が僕には驚きである。
それにしてもなんという不毛の大地なのだ。低地の砂漠地帯は抜けたようだったが、僅かに生えているサボテンを除けば、生命のかけらを見出すことがほとんど出来ない。長い年月をかけて削られた裸の岩山が、不気味な風紋をまとって、見渡す限り幾重にもうねっている。風は絶えずバタバタと僕を叩く。ここに存在する音すらもそれだけだった。
「ふぅ、これは相当に大変な戦いになりそうだな」
僕は兜の緒を締めるように、サイクリンググローブのマジックテープを貼りなおした。
ところが、そこからさらに標高を上げていくと、大地は少しずつ息を吹き返し、点々とだが草木が見られるようになってきた。そして小さな集落も現れた。こんな場所に人が住んでいることには驚かされたが、仮にもここはリマとクスコを結ぶ幹線路だから、往来するトラックドライバー相手に食堂や商店を細々やっているらしかった。彼らに交じって僕もここで夕食を食べ、食堂の人の好意にも恵まれて室内にテントを張らせてもらった。早くも二五〇〇メートルまで上った初日であった。

翌日も延々と上りは続いた。信じられるだろうか、昨日からかれこれ八〇キロ以上平地も下りもないのである。標高三七〇〇メートルを越えたあたりで開けた高原地帯に出た。深々と青味を増した空とのコントラストが強烈である。「パンパガレーラス国立保護区」と書かれた緑色の標識が寂し気に立っている。上りは緩くだが依然として続いていた。
とその時、前方の道路に金色の動物が通りがかった。ビクーニャの群れだった。乱獲によって絶滅の危機に瀕しているはずのビクーニャだったが、目の前には一五匹以上いる。いや、もっとだ。この群れから少し離れたところにまた別な群れがいて、誰もが不思議そうに僕のことを見つめていた。
しかし、カメラを取り出そうとすると、彼らは踵を返すように反転し、長い首を低く前に突き出して駆けだした。褐色の草原を力強いストライドで、そして優雅に飛び回る身のこなしはとても美しく、見惚れるようだった。そして二〇〇メートルほど距離を離した後、再び不思議そうな顔で僕を見た。

四〇〇〇メートルの地点にこの保護区の管轄事務所があった。テントの標識がある。泊まれるのだろうか。建物の向かいに小さな商店が二軒あったので、確認ついでに立ち寄ってみた。
「オラ。向かいの建物って泊まれるのかな?」
中にはおばさんが二人と、水色の大きなハットをかぶった五歳ぐらいの少年がいた。
「ええ、泊まれるわよ。この子が案内してあげる。」
ハットのツバが大き過ぎて僕と正面から目を合わせることが出来ない少年は、顔を後ろにのけぞらして下目がちに僕を見てニコリと笑った。
「ほら、こっちだよ。ついて来て!」
フェルナンドという少年は僕の手を引いて事務所へと連れて行ってくれた。
そこには背の小さなおじさんがいて、「よく来たなぁ」と言わんばかりの穏やかな笑みを浮かべて迎えてくれた。屋根と平らな床さえあれば万々歳と思っていたにも関わらず、おじさんは、使われなくなって久しい宿舎の二段ベッドの一つをタダで与えてくれた。
「そういえば一昨日もメガネをかけた日本人が泊まっていったぞぉ。アルコールストーブでスパゲッティを作ってたけど、この寒さだから全然お湯が沸騰しなくってなぁ」
きっとモトミくんだ。先行しているとは聞いていたけれど、近くにいるのか。

部屋に自転車を運び入れている間もフェルナンドは僕のそばにいた。かまって欲しいのかうずうずとしている。
「ねぇ、遊ぼうよ」
「うん、分かった。でも洗濯物が終わってからね」
着ていたTシャツは汗が白く乾燥してパリパリになっている。外に備え付けてある蛇口をひねると恐ろしく冷たい水が出た。日中は日差しがあって暖かく感じるが、四〇〇〇メートルを越える高地だけに実際は相当に寒い土地なのだろう。ちょろちょろしか出ない蛇口の水を携帯バケツに溜めていると、フェルナンドがパシャとその冷水を手ですくってかけてきた。
「遊ぼ!」
「だから、これが終わってからって…」
パシャッ。
「冷たっ。…やったなぁ、この野郎―!」
「キャハハハハハー!」
それからはすっかりフェルナンドのペースに乗せられてしまった。何をするにもフェルナンドがちょっかいを出してきて、それを僕が追い回す。彼はぴょんぴょん飛び跳ねるようにして逃げる。
「こらぁー!」
「キャハハ。ヒィー!」
僕に捕まると地面に転がって笑い声をあげた。
徐々にいたずらがエスカレートし出したフェルナンドは、どこかから鎌を持ち出してきて、ぶんぶん振り回しだした。
「おいっ、フェル!それは…うぉっと。危ない…だろうが!」
「えー、どうして?」
怪我するし、痛いだろうと言い聞かしても、また「どうして?」と不思議そうに僕の顔を覗いてくる。
「どうしてって…いいから鎌は駄目だ」
僕は鎌を取り上げて、事務所のおじさんに渡しに行った。
「フェルがこれ振り回すから…」
ガラガラガラ…。
音に驚いて振り返ると、フェルナンドが塀のレンガの一部を外して塀を壊していた。そして彼は顔をのけ反らせると下目がちになってニィッと笑った。
「おいこらぁー!それも駄目だっつーの!」
「ワァーーー!!」

大きすぎるハットもフェルナンドにとっては表現の一つであったように、彼は全身を使って感情を表現する子供だった。飛び、転がり、走り、そして笑った。
おいおい、汚れるぞと言おうとしたその時、服の汚れも体の痛みも気にしない無邪気な彼にいつかの自分が重なった。遠い昔に手放してしまった昔の自分。
純真――――。そんな言葉が頭の中で反響して、もう二度と戻れないあの時が懐かしく、切なく蘇った。
これからこの子は何を考え生きていくのだろう。僕がそうだったように現実という名のもとに変わっていってしまうのだろうか。それとも外界とはかけ離れたこの環境が彼をこのままに押しとどめるのだろうか…。
目の前の水色ハットの少年はいつまでもからからと笑っていた。

翌朝はひどく冷えた。おじさんにお礼を言って出発する。
フェルナンドのところに立ち寄るとお店はまだ扉が閉まったままだった。「仕方ないかな」と走り出すと体が重い。かなり疲れが溜まっているようだ。でも、あと一〇キロほどで峠に出るはずだ。
重たい体を引きずるように自転車を漕いでいると、昨日と同じように僕の前をビクーニャが通りがかった。僕に気が付いたビクーニャが飛ぶような足捌きで近くにいた群れの元へと逃げたとき、強烈な既視感に襲われた。
ぴょんぴょんと駆けるその駆け方は、昨日出会った少年のそれとそっくりだったからである。群れに合流し、僕から距離を置いたビクーニャは、こちらに振り向いて不思議そうにこちらを見た。
「………」
高地の息苦しさも忘れて僕は彼としばらく呆然と見つめあっていた。僕の頭の中に再び純真という言葉が浮かんでいた。

その数日後、小さな街で休憩していたモトミくんに追い付いた。山中の再会の興奮で僕らはこれまでのアンデスの道のりについて熱く語り合ったのだが、一つおかしなことがあった。僕が立ち寄ったフェルナンドの住む商店にモトミくんも立ち寄っていたらしいのだが、そこは人が住んでいる気配もなくて、結局何も買えずに終わってしまったのだという。
僕が出会った少年は一体…。狐、ならぬビクーニャにつままれたような気分であった。

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