第5話 ロッキー山脈を越えて

 バンクーバーを出発して数日、カナディアンロッキーを貫く国道一号線を走っていた。いや、正確に言えば走っていたというよりも、自転車を押して歩いていたという方が正しいか。
「くそっ、こんなにアップダウンがあるなんて聞いてないぞ。ジョンの野郎。はぁはぁ…」
 上っては下り、下っては上りの終わりなきアップダウンに、僕はぶつぶつと悪態をついていた。
「はぁはぁ。こ、こんなことなら、バンクーバーを南に進んでアメリカ西海岸を進んだ方がよかったんじゃないか。はぁはぁ」
 自転車のメーターについている高度計を見ても標高は三〇〇メートルや四〇〇メートルの間を行ったり来たりしているだけだ。この先のロッキー山脈の峠は、一六四三メートルあると地図には書いてあったので、それを考えるとまだ低地をウロウロしているだけでくたばってしまいそうな自分に失望した。
「これから南米に行ったら三〇〇〇や四〇〇〇メートルの山だってゴロゴロしてるっていうのに、こんなんじゃあ到底やっていけないじゃないか」
 まだ体が自転車旅をする体になっていない、ということもあるだろう。けれど、もしこれから体が出来上がっていったとしても、僕が南米のアンデス山脈を越えるイメージも、このロッキー山脈を越えるイメージさえも全く浮かばなかった。
 ぽたぽたと滴る汗が、あごの先からこぼれて、自転車のフレームにたれている。手で汗を拭いたかったが、いま自転車を押しているこの手を放してしまうと、そのまま自転車もろとも谷底へ転げ戻ってしまうような気がして、汗を拭く余裕すらなかった。
 苦しむ僕の横を大型のキャンピングカーや、ハーレーに乗ったバイカーたちが軽やかに追い越していく。きっと彼らもカナディアンロッキーを目指しているのだろう。文明の力をまざまざと見せつけられた僕はどんどん気持ちが弱い方へと傾いていった。
「んぐぐっ。はぁはぁ。そうだ、誰かが乗ってく?って誘ってくれたら車に乗ってしまおう。僕から乗せてって言ったわけじゃないし、これも出会いなんだ。うん、僕は走り切るつもりだったけど、せっかくの出会いを反故にするわけにはいかないのだ」
 と誰に対しての言い訳か分からないが、車に乗る理由を作ろうとしていた。しかし、そんな時に限ってちょうどよくそんな車は現れなかった。
 それどころか、ある町のキャンプ場に着いたとき、どういうわけかそこにいたキャンパーたちは僕のことを知っていて、
「アルゼンチンまで自転車で行こうってしてるやつはお前か!すげぇな、応援してるぜ」
と言われてしまった。恐らく途中で出会ったサイクリストとした話が広がってしまったのだろう。あぁしまった、余計なことを言うんじゃなかった、これじゃ逃げ道がなくなってしまったじゃないか。
 すっかり弱気になっていた僕だったが、自分が口にした「アルゼンチンまで自転車で行く」という言葉によって、車に乗る選択肢をすっかり潰してしまったのだった。
「やっぱり自分の足で行くしかないのか…はぁぁ」
 相変わらず標高は上がっては下りを繰り返していた。「あの坂道の向こうにはいったい何があるのだろう?」出発前は夢と希望に溢れていたこの言葉も、現実は坂道の向こうも、また坂道である。あぁ、なんて世知辛い世の中。
 しかし、チリも積もればなんとやらで、「あの坂道」を六〇回程越えると、さすがにというか、ようやくというか、坂道の向こうに美しい景色が顔を覗かせるようになってきた。
 開けた草原や、たおやかな湖と大きな川が流れていた風景が少しずつ、森が深くなり、いかつい山々を縫うように道が延びるロッキー山脈の景色へと変わっていったのだ。道端では夏を迎えて溶けた雪が山肌から滝となって勢いよく滑り落ちている。そこに頭を突っ込んでみると、きーんと頭が冷やされて心地よい。滝はそのまま並走する川に注いでいて、僕はその川をさかのぼるように少しずつ少しずつ自転車を進めていった。

 出発して八日目。あれからいくつかの小さな峠を越え、いよいよカナディアンロッキーの本懐へとやってきた。今日はとうとう一番高い一六四三メートルの峠を越えることになる。
 川はいつの間にかミルキーグリーンに輝く色になっていた。数日前まではあんな泥だらけの川だったのに。このあたりまで上って来ると両サイドにダイナミックな山々がずらりと連なって、壮観な景色がひたすら続く。アップダウンもだいぶ落ち着いて、気持ちの良いサイクリングができる。
 間もなくバンクーバーのあったブリティッシュコロンビアから、カルガリーのあるアルバータ州へと入る標識にぶつかった。同時にここが道中最高点のキッキングホース峠のようだ。
 標識を越えると、道は緩い下り坂になっていた。重力に任せて道を下っていく。冷涼な山の風が体にぶつかって、気化熱は体温を奪って体を心地よく冷やしていく。
「気持ちいいな」
 下り出してすぐ、再び川と並走する道となった。
ブレーキレバーに手を駆けながら、ぼんやりとその川に目をやっていたのだが、「あっ!」と、ある事に気が付いて慌ててグイッとレバーを引いた。
「川の流れが変わっている!」
 これまでどんなアップダウンがあろうとも、隣を併走する川は常に僕の進行方向とは逆に流れていた。それが今は同じ方へと向かって流れていたのだ。
―――大陸分水嶺(コンチネンタルデヴァイド)―――。
 これまでの川の水は太平洋に注ぎ、これより先の川の水は大西洋に注ぐ。このアメリカ大陸を東西に分かつ場所を、たった今越えていたのだ。
 周りの壮大な景色は何も変わっていない。ただ峠を越えたら、川の流れが変わっただけだ。それなのに、僕にとってなんだかそれは、地球を走るという明確な手応えに感じたのだ。とたんにとてつもない興奮がこみ上げてきた。
 あぁ!これが自転車で地球を走るってことなのか!これが自転車旅の醍醐味なのかっ!!
「うぉぉ、チャリ旅って、面白れぇーーー!!」
 僕は興奮を隠し切れず腹の底から声をあげた。
 押したり、愚痴を言ったり、あんまり格好はよくなかったけど、ちゃんと自分の足でここまで来てよかったじゃないか。うん、全くもってそうだ。じゃなければ、この興奮はきっと味わうことができなかったもんな。

 坂を下りきると、アイスフィールドパークウェイという道に出た。カナディアンロッキーでも特に人気のあるジャスパー国立公園とバンフ国立公園を結ぶ道だ。そこから脇道に逸れて、僕はルイーズ湖へ向かった。
 ハイシーズン真っ只中ということで道は車でごった返している。その大渋滞をするすると自転車ですり抜けながら、僕はひとりニヤけていた。
 ここにいる誰よりもカナディアンロッキーの手応えを知っているよと思ったからである。

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