第2話 お飲み物はいかがですか?

「あぁ、ヤバいぃぃ!乗り遅れる!」
 退職してそれなりの時間はあったはずなのに、旅立ちの朝はやはりバタバタだった。あれはどこいったんだっけ?これは何の部品だったっけ?とやっているうちに出発の時間はどんどんと差し迫っていった。
 何とか電車に飛び乗って空港に到着してからも、事前に送っておいた自転車の受け取りや、機内預けにする荷物が重量オーバーで荷物の差し替えをしなければならず、駆け込むようなせわしなさで時間が過ぎていった。
 まずは当時住んでいた名古屋から成田への飛行機だったから、短い飛行時間の中では落ち着く暇もなく、成田でもすぐに次の飛行機へと乗り換えなければならなかった。
 そして機体が成田からいよいよ後戻り出来ない世界へ向けて飛び立った後も、息をする間もない激流の中にいるようで、なんだか僕はずっと浮ついたままだった。
 世界一周をするのだ、そんな風に大見得を切って出てきたはいいけれど、いったい僕はどこへ向かっているのだろう、どこかふわふわしている。そんな僕を、上昇を続ける機体から伝わる重力が何とか押さえつけていた。
 朝からのドタバタを経て、やっと落ち着くことができそうになったのは、パンッと音が鳴ってシートベルト着用義務のサインが消えた頃だ。周りを見渡してみると外人ばかりだった。
「ふぅぅ」
 色々な気持ちの混じり合った息を大きく吐き出すと、体の底からドッと疲労感が湧いてきた。そして間もなく、機内食の配膳が始まった。

 人一人がなんとか通れる狭い通路を、細長いコンテナに乗せられて機内食が運ばれてくる。
 機内食で自分の順番が来るまでのあの間というものはいつまでたっても慣れず、どうも緊張してしまう。どんなメニューがあるのだろうか、食事のメニューが僕の英語力で聞き取ることができなかったらどうしよう…。こういう些細なところで、小心者の僕が顔を覗かせてしまうのだ。あれこれと逡巡してるうちに僕の番が来た。

「ビーフととお魚どちらになさいますか?」
 ガクッ。日本語だった。
 それはそうだ成田発の便なのだから、日本語を話すキャビンアテンダントもいるに決まっているじゃないか。
 気を取り直して、ビーフのプレートを頼むと、続けて「お飲み物はいかがですか?」と尋ねられた。僕は迷うことなくビールを頼んだ。
 そう。初めの一杯はビールと決めていたのだ。

 五年前、あの初めての海外自転車旅に出かけたニューヨーク行きの飛行機でのことだ。僕の座る三列シートには白人二人組のバックパッカーが座っていた。当時の僕はバックパッカーという言葉も知らず、なんだか随分ラフな格好の兄ちゃん二人組の隣になっちゃったなぁと思いながら彼らの隣に座った。
「Would you something to drink?(お飲み物はいかがですか?)」
 離陸した機内でキャビンアテンダントに飲み物を尋ねられたとき、彼らはビールを頼んでいた。中国の航空会社だったから、出されていたものは緑のラベルが目印の青島ビールだった。
 僕はと言えば、初の海外一人旅ということでガチガチに緊張していて、酒を頼む気になどなれず、コーラを注文した。
 いや、実は「ビール」とカタカナ発音で注文したのだが、「Sorry?」と聞き返されて、慌てて「コ、コーラ」と言い直したという理由もある。
 ちびちびとコーラを飲む僕の隣で彼らは一缶を一気に飲み干すと、お代わりをした。そして食後も何度もお代わりを頼みながら、二人はずっとトランプゲームに興じていた。
 お代わりが四杯目になったとき、キャビンアテンダントに「これで最後ですよ」とたしなめられて彼らの晩酌は終了したのだが、その気負わず自由な感じを僕はどことなく羨ましく感じ、彼らのような人たちが旅の上級者なのかな、と思ったのだ。
 だから今回の機内食では僕もビールを頼む。
 あれから僕はアメリカを自転車で横断し、それなりに旅の経験を積んできた。きっとあの時よりもずっと彼らに近づいているはずだ。旅を知っている人間の飲み物と言えばビールなのだ。

 手渡された缶のプルタブをブシュっと引きあげて、中の液体を口に注ぎ込む。日本のそれとは違って軽いのどごしのアルコールが体の中に行き渡ってゆく。僕自身それほどお酒に強いわけではないから、あっという間にほろ酔い気分になった。
 間もなくこれまでの疲労感と食事の満腹感も手伝って眠気が湧いてきた。最後の一滴を飲み干すと、眠気のまどろみの中へ意識を任せた。
 機内食でビールを頼んで、酔っ払って寝る。
 言葉にして並べてみると至って代わり映えしないように思える。けれど、ちびちびコーラを飲んでいたあの時の自分を思い返すと、僕も少しは旅というものを分かってきたんじゃないか。誰かの目を気にするでもなく飲み、眠くなったら寝る。これからの僕は何にも縛られず自由に旅をするのだ、と、そんな風に思えたなかなかいい酒だった。
 空になったビールの銀色のパッケージには、とがった山の絵が描かれていた。ロッキー山脈だ。この山を伝うように走って、まずは南米を目指すのだ。

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