竜の下半身はウサギに似ている

わたしは竜が好きだ。

もちろん実際に見たことなんてない。
生まれてから今まで、ほとんど村から出たことすらないくらいだ。
幼い頃に一度だけ、父に連れられて街まで行ったことはあったけれど、
何時間も馬車に揺られてお尻が痛かった、くらいの記憶しかない。

この辺りの土地は、遥か昔から地霊さまの加護のもとにあるらしい。
小さい頃から大人たちに、一言一句覚えてしまうくらい何度も聞かされた話だった。
適度な雨と穏やかな気候で、作物もよく育ち、
それでいて危険な動物や凶暴な魔物も寄り付かない、不思議な土地だそうだ。
だから、ましてや竜なんて見たことはないし、
きっとこれからも目にすることはなく、
わたしは普通に結婚をして、普通に歳を取って、先祖と同じお墓に入るのだろう。
少し残念な気もするけれど、それはそれで別に構わないと思っている。

幸い、うちは曾祖父の代が趣味で魔術に関わる研究をやっていたらしく、
ついでに無類の蔵書家なのもあって、小さい頃から暇つぶしに読む本には事欠かなかった。
一生行くことなんてないであろう遠い国の栄枯盛衰や、
家畜や植物の育て方なんかの日常に役立つものまで、ほとんどの知識はここで集めることができる。
その中にはいわゆる「ドラゴンスレイヤーの英雄譚」もいくつかあった。

あるときは、国一番の勇猛果敢な騎士隊長が、
またあるときは、どこからともなく現れた勇者がお供を連れて、人々を苦しめる恐ろしい竜を倒しに行く。
力と知恵と勇気をもって試練に立ち向かい、
ものによっては複雑な心理描写や、ちょっとした恋愛模様なんかもあったりして、
どれも読んでいるだけでワクワクするような冒険の物語ばかりだ。
当然、ほとんどが作者の想像や脚色で、
みんなもそれは分かっていて読んでいるのだろうけれど、まあ英雄なんてそんなものだろう。

でも、わたしはどうしても、その手の物語を心から楽しむことができなかった。
もちろん物語を読むのは好きだし、九割方フィクションでも構いやしない、
結局のところ「楽しめた者勝ち」なのはいつの時代も変わらない。
だから、わたしが今ひとつ心が躍らない理由は、そこじゃない。
もっと根本的で単純なこと、
それらの作品にいつだって欠けている「ある視点」のせいだった。

胸の底が熱くなる展開を、あるいは苦難に満ちた時代を、
どんなに緻密に繊細にドラマチックに描いた物語であっても、
それは全て「人間」の目から見た世界だ。
物語のもう一人の主役、「竜」が何を見て、何を思い、何を考え、
やがてクライマックスで心臓に刃を突き立てられるとき、
最期にどんな気持ちで生涯を振り返ったのか、
それを描いた作品は一つとしてなかった。

もっとも、作者が人間である以上、
それを書けというのは無茶な注文なのかもしれない。
でも、それだったら英雄だって同じことじゃないか、
切り立った山々や、奈落の谷底に踏み込んでは、
自分より遥かに大きな相手に立ち向かうなんて、並の精神じゃない。
なんといっても竜を退治するくらいだ、
その力と勇気はとっくに「人間を超えた存在」であって、
ならばこそ何を考えているかなんて、同じ人間にわかるとは到底思えない。

つまるところ要するに何が言いたいかというと、
どうせ脚色やフィクションが混ざるのなら、
竜の側にだって同じくらいの重みがあったっていいじゃないかということだ。
わからないなら、わからないなりの書きようというものが…。


強い風が吹いて、わたしは思わず髪を押さえた。

少し考え事をしすぎたようだ。
辺りに立ち込める木々のさざめきが大きくなり、
森特有の湿った匂いが鼻腔をくすぐる。
吹き降ろしてくる風が、服の袖から先の皮膚を撫で、
その薄ら冷たさに、冬がすぐそこまで迫っていることを報される。

上着くらい持ってくるべきだったかな。

数時間前に家を出たときの自分の迂闊さをちょっとだけ呪いながら、
肩を抱くようにして、両手を二の腕を擦りつける。
そこでふと、辺りが薄暗くなってきていることに気づいた。

今日はいつもより早くに起きて朝食をとり、
畑仕事を進めつつ、いつもの時間にヤギの乳を搾って、昼過ぎには森に入ったはずだ。
なのに、もうこんなにも遅い時間になっている。
日が落ちるのが思ったより早い。

再び、風が吹いた。

葉のこすれあう音がそこかしこから響いてきて、
まるで森が「早く帰りなさい」と囁いているかのようだ。
目的は十分に果たしたことだし、言われなくても帰るつもりだった
足元の、真っ赤に熟れた木の実で一杯の籠を拾い上げ、村の方角へと歩き始める。

この赤い実は、秋から冬にかけての短い季節にしかとれない貴重なもので、
他のどの果物よりも甘くて瑞々しく、食べるだけで元気が出てくるほど美味しい。
もちろん、栽培もしてはいるが、森のものと比べると何故か妙に味気がないのだ。
わたしが生まれるずっと前の時代には、
どうにかして美味しく栽培できないかと、村人総出で躍起になっていたらしいが、
結局上手くいかなかったらしい。
ちなみに、名前は特に決まっていない。
村の人たちはみんな「赤い実」とだけ呼んでいて、
村で「赤い実」と言えば必ずこれを指すから、不自由をしたことはないのだ。
家にある図鑑のどのページを見ても載っていないことから、
あるいはこの地方だけに自生する珍しい植物かもしれない。

また、風が吹いた。

生暖かい…。

髪を揺らし、頬を撫でて通り過ぎていった風は、
さっきまでとは違うものだった。
秋の終わりを告げる冷たく乾いた風ではなく、
まるで初夏の夕立ちの前に吹く風のように湿っていて、
それに、仄かに甘い香りがする。

この匂いはどこかで嗅いだような…。

違和感のある風というのは、あまりいい予感がしない。
そこだけが「違う」ということは、つまりそこが「異常」であるということだ。

最初に思い至ったのは、火山の近くで時折発生する毒の霧のことだった。
熱を帯びていて、触れたものを溶かす気体が、突然地面から噴き出してきては付近の生物を殺すのだそうだ。
ただ、それは茹でた卵のようなキツイ匂いがするらしいし、
この辺りに火山帯があるなんて聞いたことがないから、たぶん違うなと思い直した。

次に思いついたのは、古い洞窟の奥に長い時間かけて溜まった「死んだ空気」のこと。
森の中の窪地にも稀に現れるらしい。
これも吸っただけで生物を死に至らしめる。
ただし、風通しの悪いところにしか存在しないため、こちらも考えにくい。

かつて、死んだ人間を間近で見たことがある。
村の一角の、あまり人が近寄らない辺りに、
死体をしばらく置いておく小屋のようなものがあって、
幼い頃のわたしは、好奇心の赴くままにそこへこっそり忍び込んだ。
少しだけ、後悔したと思う。
それは人間の形をしているのに、明らかに生きている人間とは別の何かだった。
普段見慣れた動物の死骸なんかとも違う、
誰に見られているわけでもないのに、言いようのない、ばつの悪さを感じた。

もう一度、生暖かい風が吹き付けてきた。

辺りの木々はざわめいていない、
揺れているのは自分の髪だけだ。
それで、わたしはその風が「森全体に吹いているものでないこと」に気づいた。

風の来た方角を向くとすぐに、それは見つかった。
ちょうど茂みの陰から突き出すような形で、岩の塊のようなものがあった。
表面はデコボコしていて、石を隙間なく敷き詰めて固めたら丁度こんな感じになるだろうか。
よく見ると、わたしの握りこぶしが余裕で入りそうな大きさの穴が二つ空いていて、
生暖かい風はそこから吹いてきていた。

岩は大きく、やや高いところに、赤くて透き通った石が二つ埋め込まれていた。
この色は見たことがある、物置小屋に置いてある杖の先の宝石だ。
でもあれよりずっと大きくて、ツルツルしていて、
透き通った水晶の奥に、薔薇のように赤い虹彩が散ってる。
真ん中には縦長の瞳孔のようなものが見えた。
それが「生き物の目」とそっくりであることに気づいた途端、
その中央にある黒い縦筋の瞳が絞られるように細くなり、ギョロリとこちらを向いた。

ドサリと籠が落ちる音がして、赤い実が地面に散らばる。

全身にイガ栗をぶつけられたようなピリピリとした感触が走り、
身体が全く動かない、足も曲がらない。

ここは村からだいぶ遠いが、もしかしたら同じように誰かがこの森に来ていて、
大声を出せば気づいてくれるかもしれない。
でも、声が出なかった、喉の奥で何かがつかえたように、
かはっ、かはっ、と息が漏れる。

本当に驚いたときってこんな風になるんだな。

そんなことを考えていたような気がする。
たぶん、今のわたしは、ものすごく間の抜けた顔で口をカクカク震わせていることだろう。

わたしがさっきまで岩だと思っていたのはたぶん、「すごく大きな何者かの顔」だったのだ。
ここで「たぶん」というのは、つまるところ要するにまだ実感が湧かないということ。
「大きい」ってこうゆうことなんだな、と思う。
全部ひと繋がりで「顔」であるはずなのに、目も鼻もまるで別のものとしてそこに存在しているように感じる。

光沢を放つキチン質の鱗に覆われた皮膚、
節くれ立っていながらも太く逞しい四肢、
大蛇三匹分より長いように感じる尻尾、
「大きい」というよりむしろ「広い」双翼、
鬱蒼と生い茂る森の中、まるでドームのように広くなった空間で、
木々に抱かれるように、丸くなって横たわるその生き物は、
紛れもなく、夢にまで見た「竜」そのものだった。

真っ暗な二つのほら穴から吹くこの暖かい風は、
炎を吐く器官からくるものだろうか、
わたしは、以前うっかり焼きすぎてしまったウサギの丸焼きを思い浮かべた。
黒くて、カチコチで、とてもまずい。

射すくめられたように動けないまま、何秒くらい経っただろうか。
身体が動かない分、頭はものすごい速さで回っていた。
本当に色んなことを考えたような気がする。

生まれてからこれまで、何をしてきただろうとか、
そして、今後もしかしたらできたかもしれないこととか、
別に人生を後悔するほどの理由はないけれども、
ちょっと唐突すぎるなあとも思ったりした。

「炎の熱」か「牙の痛み」か、あるいは「踏み潰される重さ」か、
次の瞬間来るであろう災難に対し、感覚が否応なしに研ぎ澄まされる。
でも、覚悟なんてできるわけがない。
なにしろ、そんなものを受けた経験などないのだ。
今までで一番痛かったのは、納屋の屋根から転げ落ちて腕の骨を折った時くらいのもので、
それ以上の苦痛なんて想像できない。

でも、そんなわたしの覚悟とも諦めともつかない心境をよそに、
最初に降りかかってきたのは、熱覚でも痛覚でもなく、
もっとずっと身近でありふれた「聴覚」に訴えかけるものだった。

「なるほど、なるほどな」

しゃべった!!!

聞き間違いでなければ、目の前の巨大なものから発せられたその声は、
「納得」の意味を伝える明瞭な言葉として紡がれた。

低く、深く、だがハッキリとしていて良く通るバリトンボイス。
老人のような落ち着きと、壮年の力強さをもつ、
それでいて、大きすぎることも小さすぎることもない、どこか耳心地の良い声だった。
どうゆう仕組みなのか、口は微動だにしていない。
でも、声だけはハッキリ聞こえたのだ。

昔読んだ本に「相手の頭の中に声を送る魔法」について書いてあったことを思い出した。
大勢の信徒を相手に話をする高位の司教様なんかは、そういった修行もするそうだが、
実際に聞いたことはもちろんない。

「人間もその実の味がわかるのか、いやはや、これは面白い発見をしたものだ」

今度こそ間違いない、幻聴でも、聞き違えたわけでもない。
たぶん魔法でもないだろう、明らかに空気を震わせて声を出している。

そんなことより何より重要なのは、
目の前の巨大な生物が、
すぐに自分に対して「致命的な何か」をする雰囲気ではなさそうなことだった。
それを理解した途端、急速に身体の力が抜けていく。
よほど身を固くしていたらしく、全身が軽く凝ったように痛い。
小さい頃から「周りが慌てふためくような時こそ冷静でいなければいけない」と教わってきたけれど、
周りに誰も居ないときはどうしたらいいのだろう。

「あなたは、竜なのかい?」

「ウム」

当たり前の質問をしてしまった、もっと聞きたいことは山ほどあるのに。

とりあえず仕切りなおしだ。
深呼吸をして、息を整えて、ついでにウンと咳払いをして、
とりあえず、最初に一番言いたいことを話そう。
そう思って口に出したのは、我ながら呆れるほど率直な感想だった。

「竜が喋るなんて知らなかったよ…しかも、人間の言葉だ、すごい」

地面に鼻先をつけたままだった竜が、少しだけ首を持ち上げてこちらを見下ろす。

「ああ、そなたたちの言葉はこうした方が発音しやすいのだ。
まあ、真似できんことはないが…どうだ、この口、ちゃんと出来ているか?」

竜はそう言うと、まるで人間がそうするかのように、唇と舌を動かして言葉を紡いだ。
しかも言葉の終わりには、眉毛を上下させて小粋さをアピール。
その仕草はあまりに器用で、むしろ人間よりも人間らしいくらいで、
わたしはついつい噴き出してしまった。

「むう、これも久々ゆえ、ちと滑稽であったかもしれぬ」

どうやら笑われたのを誤解したらしく、
ばつが悪そうに眉を顰めて、明後日のほうを向いた。
慌てて訂正する。

「いや、あはは、違うんだ、すごく上手だよ、人間よりイカしてる。
ただ、単に竜に会うのって初めてで、思っていたのと全然違ってて、それがおかしくってさ」

それを聞いて、彼はとても上機嫌な様子を見せた。
目を細めて、口の端を吊り上げて、本当に表情が豊かだ。
その皮膚は、さっき触れたとき石のように硬かったはずだけれど、
もうそういうものなんだと自分を納得させた。

「HAHAHA! ワシは器用だろう! 他の竜ならこうはいかぬぞ」

得意げに話すその口ぶりからすると、
彼は竜の中でも特殊な部類に入るということになる。
それは一体何を意味するのか。

「それはその、つまり、あんた以外の竜は人間に悪さをするってことかい?
御伽噺の物語みたいに…」

なんとなく、当たり障りのない聞き方がわからなくて、ついつい声が尻すぼみになってしまった。
眉根を寄せて、彼が顔を近づけてくるのがわかる。
たぶん聞き取りづらかったんだと思う。
でも、少しの間考えて、彼はゆっくりとした口調で言葉を紡ぎ始めた。

「んー、妙なことを尋ねてくるのだなあ。
それではまるで、人間の中には『人間に悪さをする者』が居ないような口ぶりではないか」

わたしは脳内で、その言葉を何度か反芻した。
てっきり「自分は安全だが、他の竜には気をつけろ」という肯定か、
あるいは逆に「それは全部誤解だ」という否定が返ってくるとばかり思っていたからだ。
考えあぐねていると、彼はわたしに、噛んで含めるように、もう一度ゆっくりと問いかけてきた。

「人間とは『他の者を傷つけたり殺したりする個体』が、誰一人としておらぬ種族なのか?」

「ああ! そっか」

わたしは、ぽんと手を打った。
ようやく彼の言わんとしていることがわかったのだ。

「ワシらの中にも悪さをする者は居るし、
それとて『必要に駆られて仕方なくする者』『破壊を好んでする者』など、色々おるわい。
ワシよりもユーモアのセンスがある者はそうそう居らんがな!」

馬鹿な質問をしたと同時に、聞いてよかったとも思う。
人間だから良いとか、竜だから悪いとか、そんな話はあるわけがない。
考えてみれば当たり前のことだった。
それでも、当たり前のことが当たり前だとわかることは大きな収穫だ。

「ただ、そうよな、仮にもし『食えそうなものに片っ端から齧り付くようなヤツ』ならば、
おそらく、角の生えた岩にでも同じことをするだろうがな」

そう言うとまた、「HAHAHA!」と声を上げて笑った。
それが彼なりのジョークのつもりだったことに気づいたのは、
こちらが何の反応もしなかったことに対して、彼がさも不思議そうに首を傾げてからだった。

とにかく彼は竜だ、どこからどう見ても、
本の挿絵で見たどの竜よりもずっと竜らしく、
想像していたよりもずっと身体が大きくて、
想像すらしていなかったほどに話好きだった。
人間を食べたり、城を焼き払ったり、そんな悪いことはしなさそうに見える。

でも、もしかしたらお姫様を攫ったりはするんだろうか、ちょっと想像できない。

「そういえばさっき、赤い実のことを言っていたね、これ好きなのかい?」

赤い実は足元に散らばったままだ。
さっきはそれどころじゃなかったけれど、後で拾わなくてはいけないだろう。

「おお、そうとも、その果実にはこの地特有の栄養素が含まれておってな。
だがそんなことは関係なく、何より旨いではないか。果肉の歯ごたえと濃厚な果汁の絶妙な割合がたまらぬ」

竜にも味覚ってあるんだ、しかも結構グルメっぽい。

「よかったらいくつか食べるかい? たぶん、また明日も採りに来るしね」

「よいのか? ワシは変な遠慮とかせぬぞ、貰えるものは貰うぞ」

「どーぞ、お近づきのしるしだよ」

言ってはみたものの、どうやって食べさせればいいんだろう、
口の中に手を直接入れるのはちょっとだけ抵抗がある。
拾った赤い実を服の裾で軽く拭いながら、そんなことを考えていた。

そんな心配を知ってか知らずか、
彼はその大きなアギトを少しだけ開いて、舌だけを目の前に伸ばしてくる。
しかもどうやってるんだか舌先の一部分を窪ませているせいで、とても置きやすい。
置いたそばから、舌先で上手に転がして、口の中に運んでいく。
自分で器用とは言っていたけれど、ちょっと器用すぎやしないだろうか。
考えてみれば、赤い実は彼の口に対してあまりに小さすぎるのだけれど、
それもどうやら上手いこと咀嚼しているようだった。

さっき生暖かい風(つまり鼻息だ)からした甘い香りは、この実の香りだったんだな、
と、今更になって気づく。
彼はたぶん、普段からこの森の実を食べているのだろう。
そういえば先ほど、栄養素がどうとか言っていたので、そのことについて尋ねてみた。

「なんだ、やはり知らなんだのか」

彼は、しばらく味わっていたそれをゴクリを飲み干して、
わたしの疑問に答えてくれた。

「この実に含まれる栄養素は、ある種の生物にとって極めて強い毒となるものでな。
おそらくはこの地面の下にあるもののせいだろうが…。
HAHAHA、よかったではないか! もし人間にも効くようであれば、ここら一帯全滅ぞ」

いよいよ、赤い実がこの地の固有種である可能性が高くなってきた。
もしも彼の言う通り、それが人間にとって有害なものであったなら、
全滅どころか、そもそも昔から人間がこの地に息づくことはなかっただろう。
もっと別の、たまたま毒を逃れた幸運な生き物にとっての楽園になったに違いない。

わたしは赤い実を拾い集めながら、今日一日で分かったことを頭の中で整理していた。
森の奥に竜が居て、彼が決して御伽噺の中のような危険な存在ではないということ。
それどころか、人間の言葉を理解し、とても流暢に喋ること。
ユーモアのセンスがちょっぴりだけズレていること。
赤い実はこの一帯と深い結びつきがあること。

もっとこの竜と話していたい。
彼はきっと、その透き通ったルビー色の瞳に、
わたしが生まれてからこれまでで身に着けたすべての知識よりも、遥かに多くのものを映してきたのだろう。

散らばった赤い実を粗方籠に戻し終えたところで、
わたしは辺りが完全に暗くなっていることに気づいた。

「ああ、そなたは村の者だったな
人間は夜に蠢くものを嫌う、家路を急ぐべきではないか?」

確かに、そろそろ帰った方がいいかもしれないと頷く。
わたしも本で読まなければ知らなかったことだけれど、
「暗くなってから外を出歩くこと」は、他所の地域ではかなり危険を伴う行為らしい。

でも本当に、この近くには凶暴な生物がいないのだ。一匹も。

「また明日も来るよ、あんたはずっと同じ場所に居るのかい?」

何故だか「居て欲しい」と頼むのは照れくさい気がして、それとなく尋ねてみた。

「そうだな、あまり長居をする気はないが…」

考えながら、横目でこちらをチラリと見やる。
長居はしないのか、それはとても残念に感じる。
せっかく友達になれたのに。
でも、彼はニマリと笑って、こう付け加えた。

「なに、ほんの100年くらいといったところだな!」

そう言って彼は大きく空を見上げ、HAHAHAと笑う。
歯の隙間に赤い果肉が挟まっているのが見えた。
明日来るときは、何か磨くものを持ってきてやろうと思う。
竜も虫歯になるのかどうかは知らないけれども。

暗いからといって、帰り道に迷うことはなかった。
小さい頃から何度も通った道だから、目を瞑っててもたぶん歩けるだろう。
ましてや、今夜は満月だった。

道すがら、彼が終わりに言った言葉を思い出す。
わたしは彼に、酷いことを言ってしまったかもしれない。

「ほんの100年かあ…」

わたしが帰ったとき、村では思いのほかちょっとした騒ぎになりかけていて、
言い訳にはちょっぴりだけ苦労した。

夜遊びって意外と叱られるんだなあとか、
こんなこと何年ぶりだろうとか、
そんな風なことを思いながら、
それでも頭の中では、ずっと一つのことが離れなかった。

そう、彼にとってはほんの100年なのだ。
彼が「長居をしない」と言ったとき、
わたしは確かに「明日明後日のうちに彼が居なくなるのではないか」と考え、それを寂しく思った。
でも、もしかして彼もまた、わたしと同じことを考えていたのではないか。
おそらく、これまで何度も同じことを…。
彼にとって100年がどれほど短い時間であったとしても、
少なくともそれより長く生きる人間はいないだろう。
彼らが人間と関わること、それはなんだかとても残酷なことのように思える。

自室のベッドに寝転んで窓の外を見ると、ちょうど月がよく見える高さに出ていた。
今頃あの竜もきっと、同じものを見ているのだろうか。
明日はもっと早く起きよう。
そう決心するや否や、わたしはあっという間に眠りについた。


王国暦784年 21の月 星霜の季

この日の出会いこそが、わたしの運命を変え、
もしかすると今後、竜という種の運命をも変えることになるのかもしれません。
少なくとも、皆さんが手に取っているこの本が、
こうして存在することはなかったのではないかと思います。

今やっていることが落ち着き次第、
わたしが、彼ことラーガサファリース氏と共に旅に出た経緯や、
「竜という存在の正しい姿」について広めるべく筆を執った理由などを、
少しずつ書いていくことにしようと思います。
それまで暫しの間、どうか忘れずにお待ち頂ければ幸いです。

ミリアム・ファニーエンド

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