詩の話

詩について、なぜ詩が好きかということや、バンドと詩の話などをします。

詩を好きになったきっかけ
自分が詩というものに興味を持つきっかけになったのは、大学で戦後詩についての講義を受けたことです。戦後~現代の主要な詩人とその作品を広く浅く読んでいくような講義で、いくつも賞を受賞されている詩人の方が教壇に立たれていました。その時は理解していませんでしたが、そういう方から詩についての講義を受けられるというのは本当にありがたい環境でした。思い返してみると、その講義中に、「この詩にはこんな意味がある」とか、「この詩のこの部分がこう素晴らしい」とか、一方的に何かを教えられるような状況はほとんどなかった気がします。そしてそのことは今思えば、すごくいいことでした。

「ん~...」でも「なんかいいなあ」でもいい
一回の講義の中で大体十数編の詩が紹介されていました。詩人の略歴などが簡単に説明された後、その詩人の主要な数編を先生がゆっくりと朗読してくれます。読み終えると先生は必ず、「ん~…」と余韻を噛み締めるような、悩んで困っているような、何とも言えない声を出していました。それからちょっと間をおいて「ここの表現について...私はこう感じる…かな」(こんな言い方はしてなかったと思いますが)という程度の、感想と解説の間にあるようなものを学生に伝えていました。自分を含む学生は淡々と色んな詩に触れて、いいなと思ったりよくわからないと思ったりしていたはずです。先生は、あえてそれぞれの詩について深くは言葉を尽くさなかったのだと思います。

先にも述べたように、こういう雰囲気の中で詩に触れられたことはとてもいいことでした。全く別の講義の中である批評家の方が、「なんかよくわからないけど、なんかいいなあと思うのが詩なんだよね」というようなことを言っていて、まあ少々極端な言い方かもしれませんが、この「なんかいいなあ」というところが、さきほどの「ん~…」にあたるのだと思います。そしてこの「ん~…」とか「なんかいいなあ」という入り口から詩に入っていけたことが、僕にとっては大事でした。それは言い換えれば、この詩の何がどういいと思うのか別に言語化できなくてもいい、いいとまでは言わないにしても許されてはいるという、前提のようなもので、もしそういう前提がなければ、「この詩のこれってどういう意味?」「この詩の何がどういいの?」というところから詩に入っていたならば、自分にとって詩はただの難しくて曖昧な言葉の羅列のままだったと思います。もちろん、詩を読んでいくうえで、「なんかいいなあ」よりも具体的な感想が出てくるだろうし、詩には意味や意義や技法などが織り込まれてはいるのは確かです。ただ、「なんかいいなあ」くらいの温度で広く浅く詩に触れられたおかげで、自分と詩との向き合い方は大きく変わったと思います。

荒川洋治の詩
同じ先生の講義を二学期に渡って受けたのですが、その中でも決定的に自分が詩を好きになるきっかけになったのは、荒川洋治の『坑夫トッチルは電気をつけた』に収録されている「美代子、石を投げなさい」という詩です。以下後半部分を抜粋します。


宮沢賢治よ
知っているか
石ひとつ投げられない
偽善の牙の人々が
きみのことを
書いている
読んでいる
窓の光を締めだし 相談さえしている
きみに石ひとつ投げられない人々が
きれいな顔をして きみを語るのだ
詩人よ、
きみの没後はたしかか
横浜は寿町の焚火に いまなら濡れているきみが
いま世田谷の住宅街のすべりようもないソファーで
何も知らない母と子の眉のあいだで
いちょうのようにひらひらと軽い夢文字の涙で読まれているのを
完全な読者の豪気よ
石を投げられない人の石の星座よ

詩人を語るならネクタイをはずせ 美学をはずせ 椅子から落ちよ
燃えるペチカと曲がるペットをはらえ
詩を語るには詩を現実の自分の手で 示すしかない
そのてきびしい照合にしか詩の鬼面は現れないのだ
かの詩人には
この世の夜空はるかに遠く
満天の星がかがやく水薬のように美しく
だがそこにいま
あるはずの
石がない
「美代子、あれは詩人だ。
石を投げなさい。」
            
荒川洋治「美代子、石を投げなさい」より
坑夫トッチルは電気をつけた』収録


バンドのインタビューやZINEの中などでも度々触れているのですが、この詩に出会った時のことを今でも鮮烈に覚えています。例によって作者の紹介の後この詩が朗読されたのですが(手元にプリントあり)、この詩が持つ、これまで感じたことのないほどの気概のようなものに強く胸を打たれました。これは言うなれば「なんかよくわからないけど」ではあるものの「なんかいいなあ」ではなく「なんだこれは!」という感じでした。もっと素直に言えば、「こんな詩ありなんだ!」と思いました。荒川洋治は「実用書としての詩」(確か)というような言い方をしますが、まさに実用的という形容がしっくりくるような詩です。そうでありながら身を粉にしているような雰囲気というか、大げさかもしれませんが命がけとも言えるような覚悟を感じて、その日はしばらく興奮しっぱなしでした。興味のある方はアマゾンなどで購入されるか、全文が引用されているブログなどで読んでみてください(自分の感覚では、詩は画面上で読むよりも本で読む方が格段に良く感じ、複数の詩集がまとまった文庫や全集よりも単行本の方がさらに格段よく感じます)。

いずれにしても「美代子、石を投げなさい」に出会ってから詩というものの魅力にグッと惹かれて、古本屋などで時々詩集を買うようになりました。ほとんどが戦後詩です。荒川洋治の各詩集を集めながら、彼が発掘(?)したという井坂洋子や、当時自分が好きだった小説家高橋源一郎が愛読していたという鈴木志郎康、その他講義の中で印象に残っていた富岡多恵子、石原吉郎など、特に脈絡なく色々な(とはいえ詩の世界では著名な)人の詩に触れていきました。それらの詩集のほとんどを昨年売り払ったため現在手元にはありませんが…(涙)。自分が詩を好きになった経緯は大体こんな感じです。

バンドと詩 
話は変わりますが、僕はTaiko Super Kicksというバンドをやっており、作詞も担当しています。その意味では自分も詩のようなものは書いているということになります。こう振り返ってみると、自分の歌詞の中にもいま挙げたような詩人へのあこがれというか影響みたいなものが伺えるなと思います。例えば『Many Shapes』というアルバムの「メニイシェイプス」という曲には「鍋の中の~」という部分がありますが、これは堀川正美の「新鮮で苦しみ多い日々」という例の講義の中で知った詩から来ていると思うし、「釘が抜けたなら」という曲は井坂洋子の『マーマレード・デイズ』という詩集のどれか(忘れた)に影響されていると思います。それから『Fragment』というアルバムは、今考えれば全体を通して荒川洋治の『あたらしいぞわたしは』(装丁がとてもいい)という詩集に影響されているなと思います。「影響されている」というとよく分かりませんが、その詩集で使われている言葉が、自分の詩の中で言いたいことと似ている、同じだと感じたら、その言葉を自分なりに使ってみる、というようなことです。それって影響なのかオマージュなのか引用なのかパクリなのか、そういう話はあるとは思いますが...。話がそれましたが、バンドの歌詞の中にも、少なからず自分が好きな詩から得たものが生きているなとは思います。それは悪いことではないし、これからも色々な詩に触れたいし、もっと言えば、自分が好きな詩人が書くようないい詩を書きたい、と強く思っています。

歌詞と詩の違い
そうした時に、歌詞と詩の違いって何だろう、と考えたり、自分の歌詞は詩になっているのか?と思ったりします。歌詞と詩の違いとしては、例えば構成や語数の制限というものがあります。先に曲があってそこに歌を載せていくのならば、歌に載せられる言葉にも限りがあるでしょうし、サビの部分は繰り返すか似た語感の言葉にするなど、構成上の制限もでてきます。でも反対に完全に詩先で、例えば自分が好きな詩人の好きな詩に曲をつけてみたらうまくいくのかとか、詩の構成ありきで、音楽的なスムーズさは度外視した曲は作れないものかとか、想像は色々膨らみます。また、歌詞にはおよそ向かない言葉というものもあると思います。例えば最近、「肉迫」という言葉は歌に乗らないと感じたことがありました。乗らない、と言ってそう歌ってしまえばそれまでなのですが、少なくとも歌に向いていることばとそうでない言葉はあるような気はしています。

自分の理想は、音楽がない状態でも一編の詩として成立していて、音楽が乗っていてもいい曲であるという状態です。たとえば谷川俊太郎の合唱曲とかはそういう状態なのでしょうが…。バンドとしてそういうものは、多くはないのではないかと思います。だから最近は、なるべく詩として詩を書いて、それをどうにかそのまま歌にするようなこと試みています。そういえばこのあいだ出た柴田聡子さんのニューアルバムのうち2曲は、曲として発表される前にユリイカなどで詩として発表されていたそうで、なんという理想形…と思いました。話がまたそれましたが、バンドと詩との関係については、今のところこんな風に考えています。

最後に
詩について自分なりに書いてみました。詩。同じ人の話ばかりで恐縮ですが、荒川洋治が何かの本で「詩は読まれないもの。詩を読む人なんてほとんどいない。詩を書く人はもっと少ない。」というようなことを言っていました。それでも書いてしまうのが詩というものなのでしょうか。何年か前にユリイカに詩を投稿していた時期(ずっと選外)、当時の選者が「詩人になろうとして詩を書くのはやめなさい。下手でもいいから書かずにはいられなかった詩を書きなさい」というようなことを言っていました。これは結構食らいました。歌詞を書くうえではもちろん、ひいてはバンドをやること自体を考えるうえでも、です。書かずにはいられない詩。誰が読むかもわからない詩。そういうことも全部引き受けているのが、詩人という存在なのかもしれないと思いました。


またいつか......。




あなたのサポートを静かに待っています...。