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「文章を書く」ということ

昔から音楽と本が好きだった。

音楽を聴く、本を読む、どちらも簡単にできる。何かコンテンツを受け取って楽しむことに、特別な才能や努力はまずいらない。もちろん金銭的な面で制限がかかることはあるけど、基本的には「好き」の気持ちだけで楽しむことができる。

一方でそのコンテンツを提供する側、つまり音楽をつくって演奏したり、文章を書いたりするとなると、事情が変わってくる。上手になるためには練習が必要だし、スタート地点や飲み込みの早さ、センスといった意味において才能が要らないとは言えない。

ただ、受動的に楽しむことに慣れてくると、それを生み出す側に憧れるのは自然な流れで、僕も楽器を演奏したり文章を書いたりすることに憧れた。

ただ、幸いなことにというべきか、音楽に限っていえば、自分が受け手側にいた方が断然楽しめるということに早々に気づいた。自分に才能があったかどうかはさておき、上手くなりたいとか、良いものを産み出したいとか、そういう欲求よりも、良いものに出会いたいという欲求の方が明らかに強くて、夢見がちな若いバンドマンが挫折するようなストーリーは生まれることなく消えた。

厄介なのが、文章の方。

中学生の頃、しかるべく中二病をこじらせ、そのレールを逸れることなく自作のポエムやら小説やらをしたためたばかりに、その魅力の一端を知ってしまった。

中途半端に読書の習慣があったことが災いし、少なくとも当時の自分だけは「悪くないな」と思えてしまう出来のものが産み出されてしまったりした。

「自分には文章を書く才能があるのかもしれない」

そんなことを中学生の頃ふと思ってから、中二病の合併症状として自意識過剰もこじらせていた僕は、むしろ人の目に触れるようなところで文章を書くことが怖くなった。

批判とか、中傷とか、そういうものも当然のように怖かったけど、それ以上に「自分に才能がないかもしれない」ことに向き合うのが怖かった。

いつしか文章を書くのが好きとも言わなくなった。

やってもないことを好きだなんて言えなくなっただけではあるのだけど。

具体的な目標も持たずに無限の可能性だけを信じて入学した文系私大を、怠惰の愛し方だけ身につけて卒業した僕は、特別な文章力なんていらないようなところに無難に就職した。あるかどうかもわからない才能を磨くような機会を、とうとう自分に与えることなく、大人と呼ばれる年齢になってしまったのだ。

それから数年。文才とか、そんなものがなくてもたいして困らないなっていう人生の方向に何マスか進みはじめてようやく。

去年、何かを諦めるようにブログをはじめた。

内容はずっと好きだった音楽の話が中心で、更新も毎週欠かさずするというわけでもなく、たまに思い付いたことを脈絡なく書きなぐる程度の、ほんとにただの趣味ブログ。

これが、すごく楽しかった。なんでもっと早くやらなかったんだろうってほんの少し後悔したくらい。

やっぱりというかなんというか、感性がきらりと光る名文が生まれることもなかったし、書けば書くほど、自分に文才なんてものはなかったって思い知らされた。産み出したものに、評価や批判どころか、リアクションだってぜんぜんこない。それが逆にふっ切れるきっかけになったのかもしれない。

いったい僕は、何をそんなに期待して、何をそんなに怖がってたんだろう。

そうやって、開きなおったように、半年ほど、思いつくままマイペースにブログをつづけていたら、なんとなくだけど文章を書くのが上達してきたなってふと思った。あくまで過去の自分との相対評価でしかないけれど、なんだか嬉しかった。まったく知らない人に感想をもらったりすることもあって、たった一言のコメントを、舞い上がって何度も読み返してみたりもした。

ああ、結局才能なんてものに固執して意地をはってただけで、好きなことをして、だんだん上達して、楽しくなってくっていう贅沢な娯楽から距離を置いちゃってたんだなって、もったいない気持ちになった。

だから、音楽のことだけじゃなくて、もっといろいろなことについて書いてみることにした。何をはじめるにしたって遅すぎるなんてことはないとはよく言うけれど、そんな綺麗事に乗っかってみてもいいかなって少しだけ思えるようになったから。

そんな、ふんわりとした、でも前向きなモチベーションで、noteをはじめてみました。

よろしくお願いします。

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