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【今月のトークテーマ】ゲームで《怖い》とはどういう感情なのだろう?【伊藤誠之介】

(※サムネイル画像は『Alan Wake』Steam Storeページより引用)

 今回のテーマは「ホラーゲーム」ですが、このテーマが決まるずっと前から、個人的に考えていたことがあって。特にゲームにおいて《怖い》という感情がどういうものなのか、オレにはよく分からなくなってきているんです。

 たとえば『バイオ ハザード』で、ゾンビ犬が窓をガシャーン! と突き破って飛び出してきたら、ビックリして「ウオッ!」とか声を上げたりするんですけど。でもそれは《ビックリする》であって、《怖い》とは微妙に違うんじゃないかと。

 同様に、惨殺された死体やなんかのグロい場面が出てくると「ウェーッ、気持ち悪い~」と思うんだけど、それもやっぱり《気持ち悪い》であって、《怖い》とはまた異なる感情ではないのかと。そんな面倒くさいことを、けっこう前からグルグルと考え続けているのです。

ホラーゲーム自体は、むしろ好きなのですが……

 じつはオレは、小学生の頃はかなりの怖がりで、TVでホラー映画が放送されても、ぜんぜん見ることができなかったのです。ところが「怖いもの見たさ」とはよく言ったもので、中学生ぐらいからホラー映画が急に平気になって、スティーブン・キングクライブ・バーカーといったホラー小説も、一時期はかなりハマって読破していました。

 なのでホラーゲームに関しても、それなりの数をプレイしているのですが、それらをプレイする時には《怖い》という感情よりも、むしろ《楽しい》気持ちのほうが強い気がするんです。

 たとえばオレは、Xbox 360の『Alan Wake』が大好きなのですが、それはゲーム内で見つかる動画や小説をも駆使した複雑な語り口と、なにより夜更けの森の中を散歩するワクワク感が楽しいからであって(ときどきヘンな影がブォーッと出てきますが)。なので正直、《怖い》という感情とはまったく無縁だったりします。


▲各章ごとにエンディング主題歌が流れた後に、「ここまでのアラン・ウェイク」と前回のまとめが入る、海外ドラマをおもいっきり意識したチャプター構成が楽しい作品。ゲーム中のTVで流れている『トワイライトゾーン』みたいなドラマと物語が連動したり、収集アイテムが主人公の書いた小説だったりと、有り余るメタ展開も大好物です。続きをずっと待ってます。

 あとは『サイレントヒル』の1作目も、プレイヤーが探索を行うマップの雰囲気が、すごく作り込まれていて好きでした。ただ『サイレントヒル』の1作目に関しては、アクション・アドベンチャーゲームとしての面白さもさることながら、霧に覆われた町(『霧』=映画『ミスト』の原作)や、現実の写し絵となる裏世界(『タリスマン』)といった、スティーブン・キング作品のメガミックス的な要素が、オレにとってはなによりグッときたので。だから《怖い》という感情でプレイしていたかというと、それもまた違う気がするのです。

 というか『Alan Wake』も、『ダークハーフ』や『ミザリー』といったスティーブン・キングの小説の影響下にある作品だし(ゲーム内でのロックミュージックの扱いとか、いかにもキング的ですよね)、ひょっとしてオレのホラーの基準がスティーブン・キングに偏ってるだけなのかも(汗)。

具体的な形を持たない恐怖こそが《怖い》のでは

 それはともかく。《怖い》という感情を自分なりに分解していって、《ビックリ》や《グロい》を取り除いていくと、最終的に残るのは、なんだかよく分からない漠然とした不安感みたいなものだと思うのです。

 先に書いたように、オレは小学生の頃は怖がりで、ホラー映画をマトモに見ることができなかったのですが、それは自分の中で、タイトルやスチール写真といった断片から映画に対する妄想が勝手に膨らんで、その妄想に対して怯えていた気がするのです。だから後にそれらの映画を観た時に「あれ? 意外と大したことないじゃん」とか、「こんなバカ映画に怯えてたの!?」と思うことが多々あって。

 つまり《怖い》という感情は、何か具体的な形を伴うと、それは《怖い》ではなくなるんじゃないかと。恐怖が形を持った瞬間に、それは《ビックリ》だの《グロい》だの《意外と笑える》だの、何か別の感情に置き換わってしまって、《怖い》というピュアな感情とはまた別なものになってしまう気がするのです。ジェイソンやレザーフェイスといった、ホラー映画の恐怖そのものであるはずの存在が、いつの間にかキャラクター化しているのも、そういった変化のひとつですよね。

 そう考えるとホラーゲームは、映画や小説よりもさらに分が悪いと思うのです。プレイヤーキャラの前に立ちはだかる恐怖の存在が、エンディングに向かうための障害物として攻略の対象になった瞬間に、それはホラー映画のキャラクターと同じで、《怖い》とはまた別の存在になってしまうわけですから。

 ただ、そうしたキャラクター化自体は別に悪いことではないと思っていて。たとえばスティーブン・キングをはじめとする「モダンホラー」と呼ばれる作品は、漠然とした恐怖が徐々に怪物なり殺人鬼なりの具体的な形を取っていき、それによって主人公が恐怖を克服する対象となって、最終的に打ち勝つカタルシスを得られる構造になっています(たまに恐怖が勝ったまま終わる、後味の悪いパターンもありますが)。こうしたカタルシスを得られるからこそ、「モダンホラー」は小説だけでなく映画でもゲームでも、現代のエンタメとして高い人気を誇っているわけで。

 これが100年前のホラー小説みたいに、名状しがたきものを目撃した主人公が「あれは!? あれは!?」とか叫びながら発狂して終わられると、たしかに漠然とした恐怖は描かれているんでしょうけど、現代のエンタメとしては正直シンドイのでねぇ……。

ゲームには、漠然とした恐怖は存在しないの? 

 でもじゃあ、上で言うような漠然とした恐怖を、ゲームで表現しようとした作品はまったくないのか? というと、ちゃんとあるわけで。たとえば『ホットラインマイアミ』は、ゲーム自体は2Dのアクションシューティングですが、幕間のデモ部分でなんとも言えない異常な空気を醸し出していて、意図的にチープさを狙ったゲーム部分とのギャップで、漠然とした不安感が表現されています。

 そう考えるとゲームでは、ゲームプレイそのものよりも雰囲気や空気感で、そうした漠然とした恐怖を醸し出すことができるわけで。雰囲気や空気感の表現だと、VRはかなりの強みが発揮できるメディアです。カプコンの『バイオハザード7』をVRでプレイすると、例の『悪魔のいけにえ』リスペクトな晩餐シーンをはじめ、そうした空気感による恐怖が濃密に迫ってきます。

 ただ『バイオハザード7』も敵を倒すといったパートになると、上で言ったキャラクター化みたいなものがどうしても感じられるんですよね。その意味では、ノン・インタラクティブのVRデモである『KITCHEN』のほうが、個人的な印象では《怖さ》が上だと思います。もちろん攻略要素が入ること自体は先に言ったように、エンタメとしてはアリなのですが。


 同様に、テキストを読み進めるタイプのアドベンチャーゲームも、プレイヤーのイマジネーションに直接訴えかけてくるぶん、曖昧模糊とした恐怖を描くのに向いているジャンルでしょう。

 たとえばオレは『レイジングループ』の中でも、黄泉ルートのラストがすごく好きなんです。『レイジングループ』自体は、漠然とした恐怖を徹底的に論理で解き明かしていくカタルシスが得られる作品なのですが、黄泉ルートのラストは最初の一区切りということもあってか、とりわけ不条理でインパクトが強いんですよね。


 ……と、ここまで思いを巡らせてきたところで、じゃあ自分がゲームをプレイしたなかで、ここまでに定義してきた《怖い》にいちばん近い体験をしたのは何だろう? と考えてみると、ひとつ思い当たるものがありました。それは……ということで、この続きは有料部分で。

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