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小説屋④ 野中リユ


 以下の小説は、「小説屋④ 野中リユ」というタイトルで、郵便小説として販売していたものである。発売元は、ネット書店のめがね書林。
 シーリング・ワックスで封をされた封書に入って小説が届く。

 これは、小説屋シリーズの第4回目。

 私はかつて「私はDJ、じゃない。」という小説を書いて発表した。それは、めがね書林で売っているが、その小説を書き直して、「神様がいたダンスフロアの終わり a Love story 1996(全)」というタイトルで、noteで、発表し、販売した。

 この小説には、リユという高校生と、フーガというDJが登場する。
 さまざまなテーマが絡み合って、ストーリーはすすむのだが、シンプルなストーリーラインをいえば、テクノ音楽好きの女子高校生が、レコード屋の店員兼DJのフーガに恋をして、別れるまで、となる。
 女子高校生、野中リユの一人称で、ストーリーは語られる。

 これは、その小説の続編というか、もう一つの話の後日談である。

 この短い小説は、フーガの一人称で語られる。

 「私は、DJ、じゃない。」「神様がいたダンスフロアの終わり a Love story 1996(全)」から20数年が過ぎている。フーガは44歳になっている。
 レコード屋兼DJのフーガは、小さなIT会社のSEをやっている。

 「誰ともつながらない。つながらなかった。
 おれが、そういう生き方をしてきたからである。」

 とフーガは告白する。

 この小説には、タイトルにもなった野中リユは、直接、登場しない。
 だが、最初から最後まで、野中リユは存在している。フーガの心の中に。

 私たちは、知っている。
 あっという間に時間が過ぎ去ることを。

 この小説は、次のように始まる。

 魔法のように時間はあっという間に過ぎ去る。

 おれはかつてDJだった。過去のことだ。いまは小さなIT会社で、SEをやっている。おれがDJをやめたのは、いつのことだったか、いまではもうすっかり忘れてしまったが、理由は覚えている。食えなかったからである。

             *

 この春、小説屋をオープンした。小説屋とは、アイデアがあって、小説を書きたいが、さまざまな事情から書けないでいるひとからアイデアを譲り受け、その話をベースに小説を書く商売である。
 商売なので、料金が発生する。私の著作権は、放棄する。ただし、これはあくまで私的な使用に限り、もし商業雑誌等に発表する場合は、別途、取りきめをしたい。
 原稿用紙の枚数は、アイデアの大きさや数によるが、目安は10枚だと考えている。それくらいの長さが、ちょうどよいのではないか。それ以上の枚数になると、さらさらとは書けないからである。発注から納期の期間にもよるが、お客さんをそれほど待たせないで、完成する。それが10枚、と私はみている。
 お客さんがその小説を気に入らなかった場合は、どうするか。その小説のアイデアはお客さんのものである。だが、書いたのは、私だ。そのときはそのとき、考えたい。と思う。
 そんな商売が成り立つかどうかは、未定である。とりあえず、やるだけはやってみようと考えている。
 以下の小説は、以上のプロセスにのっとり、書かれたものだが、お客さんからノーの返事をもらったものである。いいわけめくが、作品のできばえそのものではなく、個人的な嫌悪感ということだった。どこに嫌悪を覚えたのかはわからない。それこそ個人的な経験に根差したものなのだろう。
 料金はもらっていない。アイデアを提供したお客さんから好きにつかっていいと言われたので、ここに発表することにする。

      *

 魔法のように時間はあっという間に過ぎ去る。

 おれはかつてDJだった。過去のことだ。いまは小さなIT会社で、SEをやっている。おれがDJをやめたのは、いつのことだったか、いまではもうすっかり忘れてしまったが、理由は覚えている。食えなかったからである。おれがDJを始めたのは、高校を中退してからだ。家でぶらぶらしていた。両親に邪魔者扱いされたので、アルバイトを始めた。なるべく家にいないようにして、クラブに出入りするようになった。きれいなお姉さんがいて、楽しく酒を飲む店ではない。真っ暗闇のなか、爆音で音楽がかかり、客が踊る店である。クラブを選んだのは、音楽が好きだったからだ。高一のとき、バンドを組んでいた。だが、あっという間に解散した。バンド内コミュニケーションがうまく機能しなかったからだ。おれには集団行動は無理だと悟った。向いていない。クラブは夜の十時から始まり、朝の五時まで営業している。毎日のように来店するので、店の人間と顔見知りになり、親しくなって、店員として働かないか、と声をかけられた。おれにとっては願ってもないことだった。
 思い出そう。そう、たしか、1994年だった。店員として働くうちに、その店でかかる音楽に興味を惹かれた。それまでおれは、そんな音楽を聴いたことがなかった。ラジオでは絶対にかからない。ブラックミュージックの派生形なのだろうが、そもそもメロディや歌詞がないのだ。踊るための音楽、踊ることに特化した音楽だった。
 そのレコードをかけているDJになんという音楽なんですか? とおれは聞いた。
「テクノだ」
「テクノポップ?」
 YMOなら知っている。P・モデルも知っている。プラスティックスも知っている。クラフトワークも。おれは音楽通を自任していたが(いまとなっては恥ずかしい話だ)、それはおれの範疇外にある音楽だった。
「ちがう。テクノだ」
 それがおれとテクノ・ミュージックとの最初の出会いだった。おれは渋谷のレコード屋に行き、そのDJにすすめられるままにレコードを買った。12インチシングルである。もらった給料すべてをレコードにつぎ込んだ。一週間に百枚、買ったこともある。そして聴きまくった。
 そのうちに、聴いているだけではあきたらなくなり、無理矢理頼み込んで、クラブのオープン直後のDJをさせてもらうようになった。早い時間にはダンスフロアーに客などいない。でも、練習にはもってこいだった。

 一般的には、1993年が日本のテクノ元年といわれている。それならば、おれがDJを始めたのは、その一年後ということになる。テクノシーンが急速に広がっていった時期だ。おれは運がよかったのだろうと思う。シーンが成長していくそのさまを、狭いながらも、現場にいて、真近で見ることができたのだから。

 やがて、ちょくちょく声をかけてもらえるようになった。DJのブッキングである。クラブの店員を辞め、レコード屋に勤めるようになった。ちょうど空が出たのだ。運がよかった。レコードのリリース情報がより早く入手できる場所だ。バイトだが、それでもかまわない。おれはDJなのだから。

 音楽はもともと好きだったが、これほどはまった音楽はない。全身の血がざわざわと騒ぎ出すような感じだった。
 当時おれは、将来のことなどまったく考えていなかった。未来はない。いらない。どうでもいい。シド・ヴィシャスのように。というか、おれはシドだと。そう思っていた。その意味では、パンクだった。おれは音楽的にはテクノだったが、マインドはパンクだった。

 DJを始めると、女に不自由しなくなった。不思議なものだ。それまでは、非モテだったのに、嘘のようにとたんにモテるようになった。女とやるのは、簡単だ。DJというだけで、客の女は大喜びするのだ。すぐにやれる。おれは、美醜を問わなかった。好き嫌いはいわなかった。これは、恋愛ではないのだ。やれる女とは、誰とでもやった。バンドをやる理由として、女にモテるためという男がよくいるが、おれはそうではない。人間は、やすやすと手に入るものには価値を置かない。すでに手のなかにあるものに、大きな価値はない。
 おれには音楽のほうが大事であり、より重要だった。女よりも。それは、人間としては間違っていたかもしれないが、おれは、自分を変える気はなかった。
 テクノシーンにおいて優秀なDJは、優れたクリエーターでもあった。素晴らしいトラックを制作して、リリースしていた。おれもかっこいいトラックが作りたかった。雑誌を読んだり、先輩DJに聞いたりして、自宅にそれなりに高価な機材を揃えた。だが、トラックをついに一曲も完成させることができなかった。
 才能がなかったのだ。
 かっこいいレコードを聴き分ける耳は持っている。セレクトすることもできる。二枚、三枚のレコードをスムーズにつなげることもできる。だが、それだけだ。
 かっこ悪いレコードをかっこよくかけることができ、二枚のレコードを同時にかけて、第三のレコードとでもいうべき音楽を生み出せる。自分だけしか出せない独特のグルーヴに客を乗せて踊らせることができる。それが、本物のDJだと思うのだ。おれの基準ではそうだ。おれには、残念ながら、そこまでのスキルはなかった。
 レコードをたくさん買い、練習を重ねれば、誰でもサマにはなる。かたちだけのDJはできる。
 以上でも以下でもないDJ。
 おれは並のDJだったのだ。

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