飢餓の村で考えたこと 41.42

植民地とは?

私たちの住まいから200m位の近くにイギリス植民地時代の徴税請負人(ベンガル語でザミンダールという)の家がある。村の建物としては異様に見える煉瓦造りの大きく強固な建物だ。そして私たちの住まいの前には道幅4m位の農道があった。この農道は約2㎞先にあるイギリス人の住まい跡と徴税請負人の家をつないでいた。植民地時代はイギリス人が馬でこの道を通って徴税請負人の所へ行っていたとのことだ。

私は時々イギリス人が馬に乗って徴税請負人の所へ行く様子を想像しながら、その農道を見ていた。イギリスの植民地時代は徴税請負人を入札で決めるところもあったようだ。

植民地政策の経験を積んだイギリスはずる賢い。その地域でできるだけ少数派の宗教の人を徴税請負人としていたという本もある。ポイラ村はイスラム教の人が多かったからかその徴税請負人はヒンドゥー教の人だった。

村人が納税した税金の大部分はイギリス人に収められ、その税金はおそらく村人のためにすべては使われなかった。しかし多くの村人の徴税への憎しみは徴税請負人とその少数派宗教に向けられた。

このため村人の憎しみはイギリス人までには向かわない。イギリスはこのようなずる賢い仕組みの植民地政策をしていた。このような植民地政策の統治方法によって、本来敵対していなかった宗教も対立させられた側面があると思う。

詳しくないがアフリカなどでもこれに似た植民地政策が行われていたのではないかと想像した。そしてその影響が現在のいろいろな対立を招いているケースもあるのではないだろうかと想像する。

被植民地の人々には植民地時代の後遺症が長い間続いていると思うからである。現在の植民地では例外もあるかも知れないが、植民地とは外部から来て統治し搾取する制度だと思うので、被植民地の人々に大きな傷を残してしまう。

ダッカモスリンの絶滅

バングラにはイギリスの植民地時代の前に夢の繊維ダッカモスリンがあった。ダッカモスリンは今でいう世界のブランド品になれるような布の素材だった。ダッカモスリンは現在では博物館にしか残っていない。

インドやバングラデシュの女性の伝統的な着物はサリーだ。サリーとは縦1m横10m位の1枚の布だ。日本で言う襦袢のようなペチコートという丈の長いスカート型の白い下着にサリー布を入れていって着付けを行う。

このサリー布の最高峰としてあったのがダッカモスリンだった。そのサリー布はこの大きさで指輪を通りぬけるくらい繊細に作られていてサリーを折りたたんだらマッチ箱に入ったと言われる位コンパクトになったと言われる。

イギリスが植民地にしたころ、イギリスは産業革命の時代だった。イギリスの大工場で作られた布を植民地で使わせたいという思惑がイギリスにはあった。そこでイギリスはこのダッカモスリンを絶滅させることにした。

ダッカモスリンの原料はダッカ周辺にある木からとれる綿花が使われていた。そこでイギリスはこの綿花の木をすべて伐採した。ダッカモスリンづくりの職人は手を切断されたり、虐殺があったとも言われる。そして世界に誇るダッカモスリンは絶滅したのだった。

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