吉川いと花
おもったときに
だれかの糧になりますように
短いおはなし
きのう、ひとりで暮らす家に初めてだいすきな親友を招いた。この家にひとを招くのは、家族と業者以外だと彼女がはじめてだった。古い記憶だと、小学生のころ、実家に友だちや幼馴染たちを招いて誕生日パーティをした写真が残っているのでうっすら憶えている程度。それくらいに、ひとを家に招くという経験が薄い。 招くにあたって、なにをすればいいのかまずわからなかった。掃除や片づけはもちろんのこと、ほかになにをすればいい? おもてなしとは? インターネットで調べてもおもてなし料理の話しか出てこ
年末から実家に帰って、母とふたりだらだらりと過ごしてぼんやり年明けを迎えた。ふたりして「あけましておめでとう」「ことしもよろしく」と言い合った後にやっぱり「年明けの実感がないよなぁ」と言った。きっと1年後にも同じことを言いながら年明けを迎えるのだろう。 お昼ごろに祖父母の家に行き、祖母のお雑煮を1年ぶりに食べた。これを食べると、すこしだけお正月の気分になる。祖父母の家に行くとお正月は毎回天ぷらとお雑煮を食べることになっているから。実家でいろいろ食べ過ぎて、あまりお腹が空
年末。仕事納めをした日、お決まりの「よいお年を」という挨拶を口にしたけれど、さっぱり実感のわかない、からっぽな響きだなとおもった。これは数年前にもおなじことを感じたような気がする。それくらい、年末感がない。わたしの2023年はさいきん動き出したようなものだし、むしろ年明けだ。 大掃除はことしもあまりしなかった。気になったところだけちょこちょこと小掃除をした程度。こんな家には来年もきっと福は来ないだろう。でもじぶんしかどうせいないのだから、じぶんが気にならなければ究極なん
実家のクローゼットから、高校時代に着ていた学校指定のコートが出てきた。紺色のロングコート。袖を通してみるとずっしり重たい。これを着て、重たい鞄を提げて登校していたのかとおもうと、おつかれさま、という気持ちになる。シンプルなデザイン、かつ、ブランド物というのもあってまだまだくたびれていない。ということで持ち帰ってきてしまったけれど、いまカーテンレールに吊り下げられたコートを見ながら、果たして着る機会があるのだろうか……と冷静になってしまった。高校生時代からそれほど体型が変化し
以前気になった展示にきのう行ってきた。 美術のことは正直よくわからない。すきな画家がいるわけでもないし、美術展に行くこと自体がなかった。でもこのテート美術館展はどこか惹かれるものを感じて、とうとう足を運ぶまでに至った。 当日、うまく眠れなくてそのせいで頭がぼんやりしたまま展示を観ることになってしまって、かなりもったいない体験をしてしまったなぁと反省。絵を見てもすなおな感想が「絵うまぁ……」ばかり。 それでも唯一印象に残ったのは、これまでアトリエにこもって絵を仕上
甘いものが食べたくて、だけど家になにもなかったから近くの自販機で甘い飲み物を買うことにした。 夜、家を出るときに感じる非日常な感覚。シンとしたマンションの廊下を灯すオレンジの光。夜に玄関の扉を開くたび、なぜかホテルに泊まっているような気持ちになる。ホテルの廊下を満たしている静けさに似ているのだとおもう。エレベーターの駆動音が昼間よりも響く。 自販機で温かいカフェオレを買った。カフェオレが飲みたい気分になったから軽率にそれを選んだけれど、そのせいか、眠れない。 深夜帯
きのう散歩の一環で美術館に立ち寄った。同行してくれた親友が見たいと思っていた展覧会が会期中だという。 立ち寄ったときにその展覧会には入らなかったのだけど、帰りのショップでどうしても気になったポストカードを一枚購入した。ポストカードの裏には「William Turner」と記されている。 美術館のショップにはほかにもたくさんのポストカードや本や鞄やランプやポストカードたてや用途不明のものがあって、ショップを見ているだけでもおもしろい。もちろん展示を見たほうがその楽しさは
人生これでいいのかちがうだろ生きろよという気持ちともう終わりにしたいなにもかもという気持ちがいつも闘っている
ノートパソコンを支給され、その使い心地について20,000文字で説明する文章を配信しながら制限時間内に仕上げるという地獄のような企画に参加する夢をみた。そのノートパソコンはキーの打鍵しやすさも要素のひとつとして謳っており、わたしはそれについてとにかく文字を打った。よくわからない文章も打った。文字数をとにかく稼ぐためだ。なぜか隣ではバラエティ番組が大きなモニターで流れていて、そのせいで気が散る。大御所芸人さんのでかい笑い声が鼓膜に強烈なストレートをぶちかます。どうしようもない
忘れていた夏の暑さをじわじわ思い出させる湿度と気温がまとわりついていることに気づきはじめた夜、我が家のエアコンが突然息を引き取った。もともと部屋に備え付けてあったエアコンだった。調べてみたら2004年製と書かれていた。大往生である。 実はことしの春に給湯器も壊れた。これも2000年代製造のものだった気がする。おそらくマンションが建ったころにつけられたものと思われる。このまま備え付けのあらゆるものが次々に壊れていくいちねんになりそう。 ちなみにスマホのカメラも壊れた。
さみしさは永遠に続く空腹
ひとの声がそばにいてほしくて、You Tubeのライブ配信を1日中流している。ひとからひとへ。いろいろなひとのライブ配信やアーカイブが部屋の隙間を埋めている。 実家にいた頃はひとりのときにテレビをつけないことのほうが多かった。周囲が騒がしくて生活音だけで満たされたし、夜になれば母がいたから充分だった。いまは1日家にいて、声をひとつも発さない日のほうが多い。周囲の環境音も静かだから、空間には静けさばかりが満ちている。 なにもできない時間が多くて、さいきん才能について考え
わたしのことばがだれにも響かなくてもわたしにだけ残ってくれたらそれでいい
自信がないとき、背中を押してほしいとき、ちゃんと正しいか確認したいとき、決断が揺らぎそうなとき、母に連絡をする。きょう家に寄ってもいいですか。いいよ、とだけ母はいつも返事をくれる。そうしてきょうも電車に乗って数駅、実家へと帰る。 前職を勢いよく辞めたあとに就いたいまの仕事は、けっしてわるいところではないのだけれどじぶんにはなにもかもが合わなくて、働いて1週間とすこしが経って急に限界がやってきた。それから出社できていない。ほんとうにわるいところではない、とおもう。よいひと
仕事納めと職場の大掃除に紛れて退職した。当日まで数名にしか明かさず慌ただしさのどさくさに紛れて消えるつもりでいたけれど、やはり人の口に戸は立てられぬというか、バレるひとにはバレていていろいろ手紙や贈り物をいただいてしまった。 みんな口にするのは〝ありがとう〟ということば。 わたしに贈られることばなのに、わたしにはそんな価値がないという気持ちがつよくてうまく受け取りきれなかった。ごめんなさい、申し訳ない、もっとがんばれたらよかったのに、まだここにいられたらよかったのに。も
出口が見つからなくなってひとりではもうどうにも立て直しができないとおもっていたときに、犬の夢を見た。 金曜日。仕事に行けなくなってベッドにも上がれず床で横になっていたら寄り添うようにそばに来て眠ろうとしてくれた。そうだどうせ休んだし散歩につれていってあげよう、とおもって彼の身体に触れたら思いのほか熱くてすぐに「熱がある!」と起き上がった。家のなかを探し回って犬用に使っていた体温計を取り出し熱をはかったら37.2℃でまったくないどころかむしろ低くて「熱がない! どうしよう!