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塩田千春展:魂がふるえる

 入ってすぐのところにある、最初の展示。手と針金の作品を見た瞬間から「あ、これはだめだ」と直感した。これは気持ちごと引っ張られるやつだと直感した。
(以下、展示内容を含むのでご注意ください)

 
 美術館に行く習慣はもともとなかった。ただ、別件で東京へ行くことがあり、その直前にこの展示があることを知り、なんとなく軽い気持ちで(時間を潰す程度の軽い気持ちで)足を運んだ。なんて軽率、浅はかだったんだろうとおもう。それから、そんな軽率かつ浅はかな気持ちでもここに足を運ぼうとおもったじぶんを両手でわしゃわしゃと撫でまわしてほめてやりたいともおもう。犬のように。
 
 塩田千春さんという方をわたしは知らない。
 どんなひとなのかも、どういう経歴のひとなのかも。でもそれはあまり必要のない情報で、だいじなのはいまここのある作品をどう見るか、どう受け取るかということ。

 美術館って、もっとひとが少なくて静かなところだとおもっていたのだけど、写真撮影を許可しているためか(撮影禁止エリアもある)、いろんな年代・国籍のひとがそれぞれ感想を口にしながら、あちらこちらでスマートフォンのシャッター音を鳴らしていた(芸術作品への触れ方はいろいろだから、規則に違反せずひとに迷惑をかけない限りは自由に楽しんでいいものだとおもう)。
 ポスタービジュアルにもなっている、広い空間を思い切り使った赤い糸の作品。あの場にもしもひとがいなくて、いたとしてもすごく静かで、シャッター音も鳴らなかったとしたら、わたしはずっとそこから動けなかった。ゆっくり歩きまわりながら赤い糸の絡まり広がり張り巡らされている様を見て、涙がぼとぼと溢れた。
 赤い糸はひととのつながり、あるいは命を表現したものだという。
 いま、だれかに、もうれつに会いたい、とおもった。
 隣にいてほしいとおもった。
 でも、いまここにわたしを知るひとがだれもいないことにほっとしているじぶんもいるから、わたしのなかはぐちゃぐちゃの殴りあい状態だった。

 展示は膨大な量だった。塩田千春さんがどこでどんな風になにを感じながら製作したのか、なにを表現したかったのか、解説つきで展示されている。生と死、命に絡む作品たち。
 表現の方法とは、こんなにも自由な形を持っている。
 お上品な作法やルール、規則性、そういうものもたしかに必要かもしれないけれど、芸術とはそもそも自由だった。じぶんのなかにある「なにか」を表現するにはどうすればいいだろう、ということにもっと意識を向けておかなければいけなかった。

 展示の最後には、子どもたちの映像がある。国籍の異なる子どもたちが自由にじぶんがおもう「魂について」を語り合う。
 魂には色があるのかないのか。魂は入れ替わるものなのかずっとおなじものなのか。肉体が死んだあと、その魂はどこにいくのか。まだ幼い子どもたちが懸命に、だれかを否定するわけではなくじぶんたちがおもう魂の存在について言葉にしていく。短く区切った映像がよっつ、モニターに延々と流れている。それを見てまた涙が溢れた。
 夢のなかで会いに来る犬のことを思い浮かべた。
 それから、直近に起こった凄惨な事件のことも。
 魂は肉体が死んだあと、どうなっていくのか。たいせつなだれかの元へ還って寄り添い続けるのか。次の肉体の生を待つのか。死を理解できないまま、その場に居続けるのか。
 真実はだれも知らない。答えもない。こんな途方もないことを考え続ける意味はあるのか。
 だけどたぶん、答えがなく正しい形もないからこそ、生も死も魂も自由でいられる。考えも表現の方法も自由でいられる。
 この自由は何人たりとも、奪うことはできない。奪ってはいけない。奪わないで。

 展示を見終わったあと、すごくつかれた。つかれたけれど、どこか雲の切れ間のような光を見た気持ちでもあった。
 いまわたしに必要なものだったんじゃないかとおもう。