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『スカラムーシュ』英国オリジナル版第Ⅰ部第ⅰ章 共和主義者 冒頭

はじめに

ラファエル・サバチニの代表作『スカラムーシュ』は英国で刊行されたオリジナル版とアメリカで刊行された短縮版の2バージョンが存在したのですが、流通量的には圧倒的に米国版が多く、現在では英国内で新たに刊行される際は米国版を底本としている模様。

海外で翻訳される場合の底本もほとんどが米国版で、日本で現在手に入る大久保康雄 訳と、加島祥造 訳はどちらも米国版が元になっており、恐らくこれまで英国オリジナル版が翻訳された事はないのではと思われます。

五年ほど前にこの件を知り、続編の『キングメイカー』と合わせて英国版の新訳を作成して私家翻訳版を頒布しようと資料集めなどに取り掛かったのですが、思うところあって断念(詳細は以下の記事で)。

この時に半端に作成した翻訳が無駄になるのも勿体ないので、第Ⅰ部第ⅰ章の冒頭だけですが公開します。あんまりみっちり校正してないのでミスがあるかもしれませんが、その点は御理解の上で興味のある方だけどうぞ。


第Ⅰ部 法衣 第ⅰ章 共和主義者

 彼は笑いの才能と、この世は狂っているという観念を持って生まれてきた。そしてそれが彼の受け継いだ世襲財産のすべてであった。実の父親が何者なのかはぼかされていたものの、ガブリニャックの村ではその真相を包む謎などとうの昔に払いのけられていた。単純素朴なブルターニュ人とはいえ、創意を凝らして体裁を整えようとすらしない関係について欺かれるほど単純ではなかった。ある貴族が、さしたる理由もなく、どこの馬の骨とも知れない子供の教父になったなどと公表し、それからその子供の養育や教育について面倒を見たりしたとあっては、並みはずれて純朴な田舎者ですら事情は完全に理解しよう。よって、ガブリニャックの善男善女はアンドレ=ルイ・モロー――その子供が与えられた名前である――と、その高みからふもとの集落を睥睨する大きな灰色の邸宅に住むガブリニャック領主カンタン・ド・ケルカドゥの真実の関係について誤魔化されたりはしなかったのである。

 アンドレ=ルイ・モローは村の学校で読み書きを学び、その間は会計監督という立場でムッシュー・ド・ケルカドゥに事務を任されている弁護士、ラブイレ翁の許にやっかいになっていた。十五歳になると、法学を学ぶためにパリのリセ・ルイ=ル=グランに送り込まれ、現在は故郷に戻ってラブイエの許で学問を実践に生かしている。これらにかかった費用はすべて教父であるムッシュー・ド・ケルカドゥが支払っており、ふたたび青年をラブイエの監督下に置いた処から判断して、これはケルカドゥ氏がアンドレ=ルイの将来のために備えてやったと見て間違いあるまい。

 アンドレ=ルイの方も、与えられた機会は最大限に活用した。二十四歳の彼は、常人の頭ならば知的消化不良を起こすに充分なだけの知識を詰め込んでいた。トゥキディデスからエンサイクロペディスト、セネカからルソーまで及ぶ熱心な人間研究により、彼は人生の初期段階に漠然と知覚した認識、己が属する種が持つ普遍的な狂気について強固な確信を得た。その後の波乱万丈な人生において彼がその持論を揺るがされた形跡は、筆者には発見できなかった。

 外見については、身長は中背よりやや高い程度、藁のようにひょろりとした男であり、鼻と頬骨が目立つやせた鋭い顔で、長く柔らかい黒髪は肩にかかりそうな長さだった。その口は大きく唇が薄く、諧謔味があった。常に何かを追い求めるような光を放つ瞳の美しさのせいで、辛うじて醜男にならずに済んでいた。その精神の奇矯な性質と、持って生まれた豊かな表現力は――残念ながら極めて少ないが――彼の著作と、とりわけその告白録が充分な証拠となるだろう。己の弁舌の才に関しては未だほとんど自覚はなかったが、しかし既にレンヌの文学倶楽部――この当時にいたるところにあった、社会生活に浸透しつつある新たな哲学について研究し議論する為にフランスの知的な青年たちが集うクラブのひとつ――ではある種の評判を獲得していた。とはいえ、彼がそこで得た評判というのは、羨むべきものとはほど遠かった。彼は茶目っ気が過ぎ、毒舌が過ぎ、人類の再生を目指した彼らの崇高な理論を――倶楽部の仲間たちの見解では――愚弄し過ぎたのである。当人は単に真実の鏡をかざして見せただけであり、そこに映った彼等の姿が愚かしく見えたとしても、それは自分のせいではないと抗弁した。

 このような言動により彼が得たのは、御想像通り、憤慨だけであった。それは彼の文学倶楽部からの除名が真剣に検討されるまで深刻化し、彼がガブリニャック領主からブルターニュの地方三部会における議員代理に任命されたという事実により、除名は避けられぬであろうと思われた。ほぼ全ての会員が、社会改革を目的とする集まりには、貴族の正式な代理人であり、反動主義者であると自ら認めたも同然の輩を許容する余地などないと考えていた。

 今はなあなあで済ませてよい時ではないのだ。ムッシュー・ネッケルがようやく全国三部会――二百年近く開かれていなかった――を開催するように王を説得した時に地平線に輝きを見せた希望の光は、この三部会は自分達の特権が保護されるように構成されねばならぬと決意して譲らぬ貴族や聖職者たちの傲慢によって近頃は曇らされていた。

 富裕で経済活動の活発な海辺の都市、ナント――口火を切ったのはこの都市だが、それは今や国中で急速に広まりつつある意見であった――が1788年11月1日に発したのは、この都市が国王に訴えざるを得ぬよう迫られた声明であった。それは、ブルターニュの地方三部会がレンヌでやろうとしているような、これまで同様に第三身分が自らの意見を発する声を持たず、命ぜらるるままに助成金の投票をする以外にはなんの力も持たぬ、貴族や聖職者の単なる道具とされる状態を肯定するつもりはない、というものだった。税を払わぬ者達の手にすべての権力がゆだねられているという、この苦い異常状態を終わらせる為にナントの声明が要求していたのは、第三身分は住民一万人ごとに一名を議員とすべきであるという事、この第三身分議員は厳密にその者が代表する階級から選出されるべきであり、貴族階級の者、もしくは貴族のセネシャル(代官)、貴族に委任された代理人やアントンドン(行政官)などであってはならぬ事、第三身分の代表者は、他の二つの階級の代表者の合計と同数でなければならず、全ての議題について代表者の頭数ごとに一票で決されねばならず、これまでのように各身分ごとに一票ではならぬ事、というものであった。

 いくつかの更なる二次的な要求を含むこの声明は、ベルサイユのエイユ・ド・べフ(卵型窓)の向こうにいる優雅なのらくら者たちに、ムッシュー・ネッケルが懸命にドアを開けて見せようとしていた不安を誘う光景を垣間見せた。彼らの意志が優勢であったならば、その声明に対する回答は想像に難くないもののはずだった。しかしムッシュー・ネッケルは、沈みゆく国家という船を港に避難させんと苦慮する水先案内人であった。彼の忠告を受けて、国王陛下は特権階級――貴族と聖職者――が民衆の要請に抵抗する場合は王が仲裁を行うという重大な保証を付けた上で、この問題を解決するようにとブルターニュの地方三部会に差し戻した。そして、盲目的に滅びへの道をひた走る特権階級は、当然ながら抵抗し、そこで王は地方三部会を休会させた。

 だが呆れたことに、特権階級は休会を拒絶し、国王の権威に屈することを拒絶した。休会を命じられたにもかかわらず、彼らは議場を占拠し、王命を無視し、自分たちのやり方で選挙を進めるつもりであり、それはすなわち、彼らの特権を守り、収奪を続けるように計らうという事に他ならないのであった。

 十一月のある朝、このニュースをたずさえてガブリニャックを訪れた、レンヌ神学校の学生であり、文学倶楽部の中心人物でもあるフィリップ・ド・ヴィルモランは、この眠たげなブルターニュの村落において、既に抱いていた強烈な憤慨を加速するような事件に遭遇した。マベイという名のガブリニャックの農民が、その日の朝、川向こうのムーポンの森で、マルキ・ド・ラ・トゥール・ダジルの狩猟番に射殺された。この不運な男は罠にかかったキジを盗もうとしていた現場を取り押さえられ、狩猟番は己の主人から下された明白な命令のもとに行動したのである。

解説

 創元文庫版のP12、5行目までは同じですが、オリジナル版ではその後に、全国三部会の開催に持ち込むネッケルの悪戦苦闘ぶりや、それまで継続されていたブルターニュの地方三部会で真の発言権を奪われてきた第三身分の怒り、パリの国王の権威を無視する貴族たち、という時代背景の描写が続いた上で、貴族の私有する森でキジを盗もうとして殺された農夫の事件(創元文庫版のP12、9行目から)が起こる訳です。

 キャラクタードラマを楽しむだけならば削ってもいい背景描写ではありますが、この説明があった方が、平民でありながら領主ケルカドゥの代理人として貴族の利益を図る役目を負って地方議会に参加するアンドレ=ルイの蝙蝠的な立場や、それに対して反動主義者めと憤る地元の知識階級の青年たちという物語の出発点がわかりやすくなるんですがね。


第Ⅲ部 第ⅳ章  INTERLUDE(幕間狂言)の全訳はこちら↓


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