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海賊ブラッド外伝~枢機卿の身代金(4)

 キャプテン・ブラッドの所業である、新スペインの大司教枢機卿に対する言語道断かつ罰当たりな狼藉についてのドン・ヒエロニモの報告によって、キャプテン・ジェネラル(司令官)ドン・ルイスは驚きと狼狽、そして恐れによる憤慨で一杯になったが、しかしその話の結びである己に対する召喚とその理由に駆り立てられて、今や閣下はほとんど超人的な活動に追われる事となった。彼がその召喚に応じるまでには四時間を要したのであるが、ようやくドン・ルイスがやって来た時には、既に普通のスペイン人が普通の状況で行ったならば数日を要するであろう準備を完了した上での事であった。

 属官からの報告によってマルコス伯爵ドン・ルイス・ペレラ・デ・バルドロ・イ・ペニャスコンの良心は不安に震えていた。大司教枢機卿の不信を晴らす効果を考えれば、猊下に対する奉仕には一切の手抜かりは許されない。彼の心に浮かんだのは、枢機卿の歓心を買うには並の尽力程度では到底足りず、猊下を捕虜として抑留した忌まわしい海賊からの即時開放者として乗り込む以上に自分が点数を稼げる可能性はないであろうという事だった。

 そのような次第により、首尾良くアラベラ号船内におわす大司教枢機卿の許を訪れる為に、ドン・ルイスはこれまでの人生において前例のない勤勉さを発揮する事でキャプテン・ブラッドが囚人の解放に応じると思われる全ての条件を整えたのであった。これ程の大きな功があれば、大司教も驚きと感謝に満たされて些細な事など不問にされるはずだ。

 従って、アルカルデ(代官)がアラベラ号を後にしてから約四時間後に、船幅の広い二本マストの横帆式ブリガンチン船に曳航されたバージ(艦載艇)に乗った司令官が海賊船の左舷船尾側から一尋(約18メートル)の位置までやって来れたのは、驚異的という表現を用いてもよい事態であった。梯子を登ったのは代官に従われたドン・ルイスだけでなく、それぞれが重そうな木製の貴重品箱を担いだ二名のアルグアシル(士官)が後に続いた。

 キャプテン・ブラッドは裏切りに対する用心をしていた。アラベラ号の左舷側ガンポート(砲門)は既に開かれて、二十門の威嚇的な砲口が突き出ていた。閣下が中部甲板に降り立った時、その軽蔑的な目はブルワーク(舷檣)に並んだ男達に向けられた。半裸の者達、きちんと服を着た者達、鎧兜を身に着けた者達。だが全ての者がマスケット銃を構え、火のついたマッチを携えていた。

 面長で大きな鼻をした長身の紳士であるドン・ルイスは儀礼に則った衣装を身に着けていた。金のレースで飾った豪華な黒い衣装。胸の上には聖ジェームズの十字架、脇には金柄の剣。片手には長い杖、もう片方には金の縁どりがあるハンカチーフを持っていた。

 キャプテン・ブラッドが彼を迎えて一礼するのを見た時、小さな黒い八字髭の下にある司令官の細い唇は軽蔑で歪んでいた。黄ばんだ色合いを深めた顔は邪悪な気性を物語るようであり、彼はその上に高慢な軽蔑の仮面を保つべく努めていた。

 彼は前置きなしで要件を切り出した。「貴様の厚かましい要求条件は整えたぞ、サー・パイレート(海賊)。要求通りの船もある、そしてここに、この箱の中には金が――二万枚の銀貨が入っている。この交渉における貴様の取り分を持って行くがいい、そしてこれで貴様の犯した神をも畏れぬ破廉恥行為の終わりとするのだ」

 それには答えぬまま振り向いたキャプテン・ブラッドは、ドン・ルイスを睨み付けながら背後に控えていた小柄な北国の船長に合図した。

「聞いたかい、キャプテン・ウォーカー」彼はアルグアシル(士官)がハッチコーミング(倉口縁材)の上に置いた貴重品箱を指し示した。「あれは、閣下の言によれば君の金という事だ。中を確認して受け取ってから、部下達をあのブリガンチン船に呼んで、私がここで君達の安全な出発を確保している間にハバナを離れたまえ」

 このような気前の良さに対する仰天と感激によって、ちびの奴隷商人は絶句した。そして次の瞬間、驚きと感謝で泣き出さんばかりの言葉の数々が噴出し、ブラッドは慌ててそれを押し止めた。

「言わずもがなの事で時間を浪費するのはやめておきたまえ、我が友よ。私が偉大にして高潔な人間である事も、私が君の船の鼻先に一発打ち込んだあの日が君にとってラッキー・デイであった事も先刻承知だ。さあ、もう行きたまえ。そしてイングランドに着いたら、せいぜいピーター・ブラッドの良い評判を広めてくれたまえよ」

「けどこの金はどうする」ウォーカーは尚も反駁した。「アンタらは少なくともコイツの半分はとるだろ?」

「おっと!そんなはした金なんてどうでもいいじゃないか?私がこの件でどう帳尻を合わせるかについては自分で承知しているのだから、君は心配しなくてもいい。部下達に集合をかけて出帆したまえ、幸運を祈る、我が友よ」

 言葉にできぬ全ての感情を込めて、ブラッドの指が折れんばかりに硬く握った奴隷商人の手をようやくこじ開けると、キャプテン・ブラッドは離れた位置で代官と共に目と口許に軽蔑を浮かべて立っているドン・ルイスに視線を向けた。

「私の後ろに続いてくだされば、猊下の許までご案内しましょう」

 彼が先頭に立ち、ピットとウォルヴァーストンも彼等に同行した。

 そのワードルーム(士官室)で、みすぼらしい修道士達を背景にして緋色が一際輝く威厳ある姿を目にしたドン・ルイスは、不明瞭な叫び声と共にその足元に跪かんと転がるようにして駆け出した。

「ベネディクトゥス・シス(祝福あれ)」と大司教がささやき、接吻の為に指輪をはめた手を彼にゆだねた。

「おお!猊下!この、人に化生した悪魔めが、尊き御身にこのような侮慢甚だしき待遇を強いるとは!」

「それは重要な事ではありません、息子よ」と穏やかで音楽的な声が伝えた。「私とこちらの我が信仰の兄弟達は、恵みの御座への捧げ物としてこの受難を感謝と共に受け入れています。重要な事、私が深い関心を抱いている事は、ここで今朝告げられた事態の口実とされたものについてです。私の聞かされた話とはこのようなものです、伯爵。国法によって売買を禁じられているはずの品がイングランドの船乗りに売られたと、そしてその船乗りが既に支払った商品の対価は没収され、彼は異端審問所による取調べの脅しに屈して空荷のままに出帆したと、かくのごとき強奪行為に遭ったばかりでは済まず、既に海上に出ていた彼の船は貴方のグアルダ・コスタ(海岸警備船)の一隻によって追われ、沈められたのだと。

「私はこのように聞きました、息子よ。しかしアルカルデ(代官)がこれを否定しなかったとはいえ、私はスペインの紳士でありカトリック王の代理人としてこの地域を任された者が、このような行為について罪あるなどと易々と信じる訳にはゆきません」

 ドン・ルイスは立ち上がった。彼の馬面は更に血色が悪くなっていた。しかし彼は寛いだ声音と堂々とした態度を装った。やや尊大な態度をとる事で問題を片付けようとしたのである。

「それは全て過去の事であります、猊下。仮にそのような過ちがあったとして、それは先ほど気前の良い利子をつけた上で正されました、それについてはこのバッカニア(海賊)・キャプテンが証言するはずです。私は猊下を陸まで警護し、ハバナがこの数週間を準備に費やしてきた猊下のご到着を祝す盛大なる歓迎会にご案内するという名誉ある役目を務める為にこちらに参上いたしました」

 しかし彼のへつらうような微笑に大司教の高峻なる尊顔が応える事はなかった。それは依然として憂鬱なまま、悲しげに厳粛であった。「ああ!つまり貴方は、過ちがあった事を認めるのですね。しかしそれについての説明はせぬと」

 生来短気であり、かつ命令を下す立場に慣れているがゆえに傲慢なキャプテン・ジェネラル(司令官)は、己が今、事実上新世界の教皇であり、国王に次ぐ力の持ち主であり、特定の問題に関しては王ですら頭を垂れねばならぬ人物の面前に立っている事を危うく忘れそうになった。すんでの所でそれを思い出したものの、彼の返答はわずかに辛辣さを帯びていた。

「説明は、猊下にとっては酷く退屈なものになるのが確実であり、また恐らくは複雑に過ぎるものと思われます。何分、これは法律に関する我が執務の問題でありますゆえに。猊下の偉大にして高名なる御教導には法学の問題までは含まれぬはず」

 猊下の端正な顔には非常に静かな微笑が浮かんでいた。「貴方の無頓着な情報の取り扱いには不安を覚えますね、ドン・ルイス。私がカスティリャ異端審問所の長官を務めていた事を知らされていないのか、あるいは――そこから当然に推測できるはずの――私が神学のみならず、民法の博士でもあるという考えに及ばないのか。私がこの件に関する貴方の法律上の説明についてゆけぬと案ずる必要はありません、更に単調な点についても同様です。私の務めの大半は単調なものなのです、息子よ。されど、それらは軽んじて良いものではありません」

 その冷静かつ容赦ない主張に対し、司令官は屈服せざるを得ぬ事を悟った。彼は苛立ちを飲み込み心を落ち着かせると、己の虚言を否認しないであろう、身の程をわきまえたスケープゴートを使う事にした。

「手短に申せば、猊下、一連の取引はアルカルデ(代官)によって私の与り知らぬ間に行われた事であります」背後に立つドン・ヒエロニモから聞こえたあえぎには閣下を阻止する力はなかった。彼は更に言葉を重ねた。「私がその件を知った時、全ての外国人がカトリック王の領地で商取引する事を禁止する法を遵守させるのが我が義務である以上は、私にはその取引を中止させる以外の選択肢はありませんでした」

「その点について議論の余地はありません。しかし私は、そのイングランドの船乗りが既に商品に対して対価を支払っていたと理解しています」

「彼は既に奴隷を取引済みでありました、猊下」

「何であれ、彼は既に取引をしていました。その取引が貴方によって解消された時、彼の奴隷は彼の元に戻されたのですか?」

「その取引を禁じた法律は同様に、その商品の没収を定めておりました」

「通常ならば、そうであるかもしれません。しかし本件は、私の理解が正確であるならば、通常の事態ではありません。私は、彼がアルカルデ(代官)によって奴隷の取引を強く勧められたと聞いています」

「丁度私が」とブラッドが口をはさんだ。「今朝、彼から私の奴隷を売るようにと熱心に勧められたのと同じに」そして彼は手をひと振りして大司教枢機卿と付き添いの修道士達を示した。

「彼は己の過ちから学習していないようですね、貴方の属官であるアルカルデ(代官)殿は。ひょっとして、彼が過ちを繰り返す方が貴方にとっては都合がよろしいのかも知れませんが」

 露骨にそれを無視したドン・ルイスはブラッドに背を向けた。「猊下も、部下の不法行為によって私自身が罪を問われるなどとはおっしゃいますまい」それから薄ら笑いを浮かべると、彼はキャプテン・ウォーカー相手に用いた詭弁をつけ加えた。「仮に殺人を行った者がいるとして、他の誰かによる是認があったからと主張して当人がその罪を免れる事はできますまい」

「それは微妙な問題ですね、そう思いませんか?この点については、よく検討しなければなりません、ドン・ルイス。これは後で再度議論しましょう」

 ドン・ルイスは唇を噛み締めて深く一礼した。「猊下の御心のままに」彼は言った。「ところで、猊下を陸にお送りする為に我が艦載艇が待機中なのですが」

 堂々たる長身に法服をまとった枢機卿は緋い外套の裾を引いて立ち上がった。フードを被り彫像のように立っていたドミニコ会士達は、たちまち生命を吹き込まれたかのように身動きした。猊下は彼等の方に体を向けた。

「心に留めなさい、我が子等よ、この安全な救出に対する感謝を。では行きましょう」

 そして彼は歩み出したが、その直後にキャプテン・ブラッドに呼び止められた。「今しばらくご辛抱ください、猊下。まだ全てが終わっておりません」

 枢機卿は眉をしかめ険悪な表情を彼に向けた。「どうしたのです?何か遺漏がありましたか?」

 ブラッドの返答は高位聖職者に対してというよりも、険悪な表情の司令官に向けられたものだった。「ここまでは損失の埋め合わせが完了したに過ぎない。次はいよいよ報酬の問題に入ろうじゃないか」

「報酬!」首座大司教は叫び、この時ばかりは彼の見事な平静も乱された。厳しい調子で彼は問いを付け加えた。

「何だというのです?貴方は誓いを破るつもりなのですか?」

「私は偽誓者と謗られた事だけはない。私は誓いを破らない。それどころか、私は几帳面な人間だ。私がアルカルデ(代官)に話したのは、返済が完了した時には我々は猊下の上陸に関する問題を議論するであろう、という事だ。我々がそれについて論じるであろうという事。それ以上でも以下でもない」

 ドン・ルイスは激怒と悪意を込め白い歯をむいた笑顔を見せた。「巧妙だな。なるほど。で、次はなんだ、このブリガンド(盗賊)め?」

「私としては、新スペインの大司教であらせられる猊下の身代金として、十万ダカット以下の金額をつけるような無礼はできない」

 ドン・ルイスは思わず息を飲んだ。彼は激怒した。彼の顎は外れんばかりだった。「十万ダカットだと!」

「今日の値段だ。明日の私は今日の私ほど謙虚ではないかもしれないよ」

 司令官は激怒にまかせた乱暴な身ごなしで枢機卿の方に向き直った。「猊下、お聞きになりましたか?この盗賊めが、たった今、何を要求しおったかを?」

 しかし枢機卿は既に俗気のない落ち着きをとりもどしており、再びそれが揺らぐ事はないようであった。「忍耐するのです、息子よ。忍耐を!我々は『憤怒』という罪源に囚われぬよう心せねばなりません。ハバナで私を待っている使徒としての務めに向かう為の開放が、怒りによって早まる事はないでしょう」

 この時ドン・ルイスを支配していたのが激しい怒りだけであったなら、彼に己を曲げさせるには更に大きな圧力を必要としていた事だろうが、しかし復讐を熱狂的に求める心が取るべき道を示した。押し殺した怒りでわずかに震えながらも、それでも彼は命令に従うかのようにお辞儀をするだけの自制を発揮し、そして比較的礼儀正しい言葉遣いで、猊下の救出を一秒でも早く成し遂げる為に即刻指定された金額を調達すると約束したのであった。

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