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海賊ブラッド (18)ミラグロッサ

 マラカイボの事件はキャプテン・ブラッドのバッカニア(海賊)活動における白眉と見なしてもよいだろう。彼の数多い活動の中では、海戦に関する天賦の才を示す例――そのような活躍はジェレミー・ピットによって格別詳細に記録されたものがある――としては不適当であろうが、しかしながらドン・ミゲル・デ・エスピノーサが彼を閉じ込めた罠から逆転勝利した、この二つの戦闘より輝かしい勝利も他にはそうあるまい。

 これ以前に彼が得ていた名声は既に大きなものであったが、この一件以降の名声に比べれば、取るに足らぬささやかなものに感じられる。それは、これほどの名声を得たバッカニアは――かのモーガンを含めて――これまでも、これからも存在し得ぬであろう巨大なものだった。

 トルトゥーガ島では、彼を撃破せんと向かってきた艦隊から拿捕した三隻の船を修理する為に数ヶ月を費やしたのだが、その間に、気づけばブラッドは荒くれた浜辺の同胞達から半ば崇拝対象のごとくに見られるようになっており、皆が彼の配下に入る名誉を声高に求めてきた。そのお陰で選り好みが許される恵まれた立場となった彼は、規模が拡大した船団に加える乗組員については入念な選考を行った。次に海に出た時、彼は千名強の男達を乗せた堂々たる五隻の船で編成された船団を率いていた。かようにして彼は、単に有名なだけでなく、真に畏怖すべき存在となったのである。拿捕した三隻のスペイン船は一種の学究的なユーモアからクロト、ラケシス、アトロポス[註1]と改名され、これより後(のち)に海上で遭遇する全てのスペイン船にとって、この三隻は運命を裁断する女神となるであろうという含意が恐ろしい冗談の形で世に示された。

 ヨーロッパでは、スペイン海軍提督のマラカイボにおける敗北に続くこの船団に関する報は、ちょっとしたセンセーションを巻き起こした。スペインとイングランドにおいては種々様々で不快な懸念が生じた。この件に関して交わされた外交文書を目にした者は、それが少なからぬ量であり、かつ常に友好的な文章とは言い難い事に気づくだろう。

 そして同時期のカリブ海において、スペインのドン・ミゲル・デ・エスピノーサ提督は――彼の時代にはまだ存在しなかった言葉を用いれば――アモック(精神錯乱)[註2]、という表現がふさわしい状態にあった。キャプテン・ブラッドにより被った大惨事の結果としての不名誉が、提督をほとんど発狂寸前まで追い詰めていたのである。偏りのない目で見れば、誰もがドン・ミゲルに対してある種の同情を覚えずにはいられないだろう。今や憎悪はこの不運な男の日々の糧であり、復讐への希求は彼の脳内で強迫観念と化していた。ひとりの狂人として、彼は己の宿敵を探し求めてカリブ海のありとあらゆる海域を猛烈に航走し、そしてその間、貪欲な執念のオードブル代わりに、水平線上に姿を見せたイングランドやフランスの船に手当たり次第に襲いかかった。

 事実上、このカスティリャの高名な船将にして偉大なる紳士は、既に理性を失い一介のパイレート(海賊)に成り下がったと言わざるを得ない。コンセホ(枢機会議)は遠からず彼の行動について罪を問うかもしれない。だがしかし、既に破滅の淵まで追いやられた者にとって、刑罰に何の意味があろうか?むしろ、ふてぶてしくも忌々しいブラッドめに足枷をはめる為に死力を尽くせば、スペインが彼の現在の不正行為とそれ以前の失態について寛大な見方をする可能性は低くないはずなのだ。

 かくして、今やキャプテン・ブラッドが圧倒的な戦力を持つに至っているという現実にもかまわず、かのスペイン人はブラッドを探してしるべなき大海を彷徨っていた。彼を探し続けて丸一年の時がむなしく過ぎた。そして遂に彼等が遭遇した状況は、まことに数奇なものであった。

 小説や戯曲の中での偶然の使用を馬鹿にする浅薄な人々に対して、人間存在の現実についての知的観察は、人生とはそれ自体が偶然の連なり以上の何ものでもないという啓示を与えるだろう。過去の歴史をひもとけば、どのページにも偶然の配剤なくしては有り得なかった数々の出来事が見いだせるはずだ。まさしく偶然とは、フェイト(運命の女神)の手によって人間と国家の運命を形づくる為に使われた道具そのものと定義できるかもしれない。

 キャプテン・ブラッドの、そして他の幾人かの人々の身に起こった事件にそれがどのように働いたかについては、これから記す物語で確かめて欲しい。

 1688年――イングランドの年代記の中でも忘れ難い年――の9月15日、三隻の船がカリブ海上に浮かんでいたが、彼等がそこにやってきたのは、数名の人々の利害が絡み合った結果だった。

 まず一隻目は、小アンティル諸島沖からハリケーンによってバッカニア船団から離れて流されてきたキャプテン・ブラッドの旗艦アラベラ号。北緯17度74分近辺を航海していた。はぐれた船の集合場所と定められているトルトゥーガ島に帰還すべく、息の詰まるような季節の断続的な南東の微風を受けて、アラベラ号はウィンドワード海峡を目指して急いでいた。

 次の船は、イスパニョーラ島南西の角から突き出す長い半島カイミートの北に潜んでいた巨大なスペインのガレオン船ミラグロッサ号であり、より小さなフリゲート艦ヒダルガ号を伴っていた。ミラグロッサ号は復讐に燃えるドン・ミゲルを乗せて航海していた。

 三隻目の、そして目下の関心の対象である最後の船はイングランドのマン・オブ・ウォー(武装帆船)であり、先に記した日には、イスパニョーラ島北西海岸に位置するフランス領のサン・ニコラで錨を下ろしていた。その船はプリマスからジャマイカに向かう途中であり、親族の長者である国務大臣サンダーランド伯の命を受けて、イングランド―スペイン間の煩わしい交渉から生じた重大かつ慎重を要する任務を帯びてやってきた賓客、ジュリアン・ウェイド卿を乗せていた。

 フランス政府もまた英国と同じく、バッカニア(海賊)の略奪行為には大いに悩まされ、スペインとの終わりない緊張関係を強いられており、海外植民地の総督達に最大級の厳格な対処を要求する事で海賊行為を鎮めようとするむなしい試みがなされた。しかし総督達は――トルトゥーガ島総督のように――フィリバスター(不法戦士)達との半ば公然とした協力によって共存共栄するか、あるいは――イスパニョーラ島フランス領総督のように――スペインの威勢と貪欲に対する牽制として海賊達を利用するべきであり、さもなければスペイン領以外にも被害が及ぶであろうと考えていた。実際の処、彼等は強硬な処置をとった場合、多くの海賊達を南海における新たな猟場を探すように追い込むに違いないと懸念していた。

 スペインとの緊張緩和を求めるジェームズ王の御意に従い、スペイン大使の絶え間ない悲痛な訴えに応える為に、国務大臣サンダーランド伯は既に強力な人材をジャマイカの総督代理職に任命していた。その実力者とはビショップ大佐、近年、バルバドスで最も影響力を持つプランテーション経営者であった。

 ビショップ大佐がその職を拝命し、莫大な財産を蓄えたプランテーションを後にしたのは、ピーター・ブラッドに対する個人的な恨みを晴らさんとする欲求に根差した意気込みの為であった。

 ジャマイカに派遣されて以来、ビショップ大佐は海賊どもに対して威を振るってきた。しかし大佐にとって特別な獲物である一人の海賊――かつては彼の奴隷であったピーター・ブラッド――は巧みに身をかわし、海上陸上を問わずスペインを執拗に悩ませる大勢力であり続け、ヨーロッパの平和が危うい均衡にあったこの時期においては、恒常的な緊張状態にあるイングランドとスペインが近年結んだ友好関係の維持にとっては、特に脅威となっていた。

 彼自身のつのる恨みだけでなく、ロンドンから届いた彼の失策を責める書状にも焚きつけられて、ビショップ大佐は自らの手で獲物を狩り出し、あの島で保護されている海賊どもを一掃する為に、トルトゥーガ島への遠征を検討した。彼にとって幸いな事に、かの地の自然の要害に阻まれたのみならず、少なくとも名目上はフランス植民地である以上、襲撃はフランスに対する深刻な敵対行為と見なされ非難されるであろうという意見にも阻まれて、あまりに無謀で馬鹿げた企ては断念せざるを得なかった。このような方策に手をつけようとした事からもビショップ大佐の困窮は容易にうかがえる。国務大臣サンダーランド伯爵に送った書状の中で、彼はその窮境について更に多くを吐露していた。

 この書状と現在判明している情勢により、サンダーランド伯は通常の手段を用いてこの煩わしい問題を解決する事を断念した。彼は特別処置を視野に入れ、チャールズⅡ世の御世に往年の大海賊モーガンを国家に奉仕するようにさせた処遇について考慮した。同様の処遇がキャプテン・ブラッドに対して有効かもしれない、との考えが彼の頭に浮かんだ。伯爵は、ブラッドの現状である無法状態が、本意ではなく止むを得ぬ状況に強いられたものである可能性が高いという点を考慮に入れるのも忘れなかった。彼は流刑囚という境遇により現在の立場に追い込まれたのであり、そこから抜け出す機会を与えられれば歓迎するのではないか。

 この結論に基づいて行動を起こしたサンダーランド伯は、親族のジュリアン・ウェイド卿にいくつかの箇所が空欄とされた委任状を与えた上で送り出した。それは国務大臣サンダーランド伯の思惑を実現する為の指令でありながら、その為の手法については自由裁量を許す内容であった。複雑怪奇な陰謀の迷宮の主である奸智に長けたサンダーランドは、ブラッドが手に負えぬとわかった場合、もしくは他の理由によって彼が王の下に迎えるにふさわしくないと判断した場合についてもジュリアン卿に助言していた。その場合は勧誘の対象を配下のオフィサー(士官)達に変更し、彼等を引き抜く事によって、ビショップ大佐の艦隊の餌食となるまでブラッドを弱体化させるべしと。

 ロイヤル・メアリー号――才に恵まれて、なかなかに博雅な、そして少々自堕落で完璧に優雅なサンダーランド伯の公使を運ぶ船――は、目的地ジャマイカの一つ手前の寄港地であるサン・ニコラまで快適な航海を行った。ジュリアン卿は、まず下準備としてポートロイヤルで総督代理に面会し、そこから必要に応じてトルトゥーガ島に向かう事になるであろうと考えていた。その時たまたまサン・ニコラには、この季節のジャマイカの耐え難い猛暑から逃れて親族宅を訪問していた総督代理の姪が、数ヶ月前から滞在していた。帰宅が間近に迫った彼女の為にロイヤル・メアリー号への同乗が希望され、そして彼女の叔父の階級と地位から即座にそれは許可された。

 ジュリアン卿は喜んで彼女の到来を歓迎した。それは既に興趣に富むものであった航海を、更に完璧な体験にする為のスパイスであった。卿はいわゆる伊達男であり、婦人達の華やぎなくしては、多かれ少なかれ人生の精彩を欠く存在なのである。ミス・アラベラ・ビショップ――どちらかといえば少年めいた声で、少年のような溌剌とした仕草の痩せた小娘――は、イングランドで卿の眼識にかなった類の貴婦人とは異なっていた。彼の非常に洗練された入念な教養に基づく嗜好は、ふくよかで憂いを秘めた、たおやかな女らしい婦人達に向かっていた。ビショップ嬢の魅力は否定できぬものであった。しかしそれを正当に評価できるのは、相当に繊細な感性が必要な類の魅力であり、ジュリアン卿は粗野とは程遠いものの、それに必要とされるだけの鋭い感性は持ちあわせていなかった。筆者としては、この一事を彼に関する何らかの示唆とするつもりはないのであるが。

 とはいえ、ビショップ嬢は若い女性であり淑女であり、そしてジュリアン卿の好みの範囲からは外れるとしても、注目に値するだけの非凡な人物であった。そのジュリアン卿にしても、称号と地位、身についた優雅さや宮廷人としての魅力によって、彼が帰属している高貴な世界の雰囲気をまとっていた――それはアンティル諸島で人生の大部分を過ごしてきた彼女にとって、実際には触れる機会などないはずの世界であった。ロイヤル・メアリー号が舫(もや)い綱を外してサン・ニコラから出港するより前に、両者が引き付けられたのも不思議ではない。互いが相手の切望していた情報の多くを与える事が可能であった。ジュリアン卿にはセント・ジェームズ宮殿の話題――その多くで彼は自分自身を主人公に、あるいは少なくとも重要な役に割り当てて話した――で彼女の想像力に豊富な材料を提供する事ができ、ビショップ嬢は彼がやってきたこの新世界に関する情報によって、彼の知性を充実させる事ができたのである。

 サン・ニコラが視界から消え去るのを待たずして、彼等は既に良き友人同士となっており、そして卿はビショップ嬢に対する第一印象を修正し、全ての男性を兄弟のように扱う率直で屈託のない彼女との交友に魅力を感じ始めていた。課せられた任務によって彼の心が如何に悩まされていたかを考慮すれば、ジュリアン卿が彼女との会話でキャプテン・ブラッドについて触れたのも無理はないだろう。実際、直接的な関連性も存在したのである。

「ひょっとして」と、彼等が船尾を散歩していた際にジュリアン卿は言った。「貴女はそのブラッドという輩を見かけた事があるかもしれませんね、かつてはビショップ大佐のプランテーション奴隷であったのですから」

 ビショップ嬢は立ち止まった。彼女はタフレール(船尾手摺)にもたれて遠ざかりつつある陸地の方向を見つめたが、それは彼女がしっかりと落ち着いた声で答える前の、ほんの一瞬の事だった。

「私はよく彼を見かけましたわ。彼の事はよく知っておりました」

「なんですって!」卿は慎重に培ってきた平静な態度をいささか崩した。彼は二八歳かそこらの若者であり、中背よりやや大きい程度だが、痩せ型である為に実際よりも長身に見えた。彼は金色の鬘(かつら)のカールに囲まれた、青白く、どちらかといえば人好きのする痩せて尖った顔に繊細な口、その容貌に微睡むような、あるいはむしろ憂愁を帯びた印象を加味しているペールブルーの瞳をしていた。それは油断なく観察力の鋭い瞳であったが、しかしこの時、彼の質問がもたらしたビショップ嬢の頬色のわずかな変化、あるいは彼女の返答の際の不自然なまでの過度の落ち着きはとらえ損ねていた。

「なんですって!」そう繰り返すと、卿は彼女の隣で手摺にもたれた。「それで、貴女から見て、彼はどのような人物でしたか?」

「あの頃、私は彼を不運な紳士として尊敬しておりました」

「貴女は彼の経歴を聞いたのですか?」

「彼は私にそれを話しました。私が彼を尊敬したのはその為です――彼の不運を支えた冷静な不屈の精神の為に。それから後の行いを考えると、彼が自分について話したのが本当の事だったのかどうか疑うようになりましたけれど」

「モンマス公に加担した叛逆者を裁いた巡回裁判によって、彼が不当な罰を負わされた件ならば、それが真実であろう事に疑いの余地はありません。彼がモンマス軍と行動を共にした事実はありませんでした。それは確かです。彼が用件を引き受けた時点では叛逆罪が適用されるとは知らなかったと思われる、法律の細目に基づいて有罪とされたのです。とはいえ間違いなく、既に彼は復讐を遂げました。曲がりなりにもね」

「それは」と彼女は小声で言った。「許される事ではありませんわ。それは彼を損ないました――その行い相応に」

「彼を損なったですって?」卿はわずかに笑った。「そんな風に考える者はいないでしょう。彼は裕福になったと聞いています。話によると、彼はスペインから奪った戦利品をフランスの金(きん)に換えて、フランス領に蓄えているそうです。彼の未来の義父、ムッシュー・ドジェロンの取り計らいでね」

「未来の義父?」そう言って彼女は、唇を開いたまま目を丸くして彼を凝視した。それから付け加えた。「ムッシュー・ドジェロン?トルトゥーガ総督の?」

「その人ですよ。あの輩は総督に手厚く保護されているのです。私がサン・ニコラで集めた情報の一部です。それが歓迎すべき事実なのかどうか、私には確信が持てません。私の親族であり、私をこちらに派遣したサンダーランド伯から託された任務を容易にするものなのかどうか、確信が持てないのです。とはいえ、そういう事情なのですよ。御存知なかったのですか?」

 彼女は無言で首を振った。ビショップ嬢は顔をそむけており、穏やかに波打つ水をじっと見下ろしていた。わずかに間を置いてから再び口を開いた時、彼女の声は落ち着いて、完全に抑制がきいていた。

「でも、もしそれが本当なら、彼はとうに海賊を辞めているのではないかしら。もしも彼が……もしも彼が愛する女性と婚約して、今おっしゃったように充分な財産があるのなら、無鉄砲な生き方をやめて、そして……」

「ああ、それは私も疑問に思っていました」そう言って卿は話をさえぎった。「事情を説明されるまでですが。ドジェロンは自分自身の為にも我が子の為にも強欲なのです。そしてその娘ですが、随分とふしだらな女のようですよ、ブラッドのような男にお似合いの。呆れた事に、結婚もしていないのに、彼はその娘を連れ回してあちこちに航海しているのですよ。彼女にとってはそれも目新しい経験ではないのでしょう。それにしてもブラッドの堪え性のなさにも驚いたものです。彼はその娘を我がものにする為に人を殺したのですからね」

「その女性の為に人を殺した、ですって?」ビショップ嬢の声には恐怖があった。

「ええ――ルバスールという名前のフランス海賊を。彼はその娘の恋人で、稼業の上ではブラッドのパートナーでした。ブラッドがその娘を欲しがって、彼女を勝ち取る為にルバスールを殺したのです。いやぁ!なんとも嘆かわしい顛末です、私からすればね。しかしこの辺りでは、人々は我々の社会とは異なった道徳律に従って生きているのですね……」

 ビショップ嬢は既に彼と向き合う為に振り返っていた。ブラッドの行動に対する彼の弁護に割って入った時、彼女の唇は青白く、そのハシバミ色の瞳は燃え上がっていた。

「そうなのでしょうね、他の同盟者達が、その事件の後も彼を生かしておいたというのなら」

「おお、それについては決闘で決着がついたと聞いていますよ」

「どなたからお聞きになったの?」

「彼等と共に航海をした男、私がサン・ニコラの水辺居酒屋で見つけたカユザックというフランス人です。彼はルバスールの副長で、その島にもいたのだそうです。その事件が起きた場所に、そしてルバスールが殺された時に」

「その娘さんも?その人は、その娘さんがその場にいたと話したのですか?」

「ええ。彼女は決闘の目撃者でした。兄弟分の海賊を片付けてから、ブラッドは彼女を連れ去りました」

「それで、死んだ男の部下達はそれを許したのですか?」彼は彼女の声に不信の響きを聞き取ったが、その中に入りまじっていた憂虞の響きには気づかなかった。「ああ、そんなお話は信じられません。とても信じられないわ!」

「貴女は尊敬に値しますよ、ビショップ嬢。私などは、カユザックから詳しく説明されるまでは、人間とはこれほどまでに冷血になれるものなのかと、無理やり自分を納得させていましたからね」

「どういう事ですの?」アラベラ嬢は問いただした。それは説明のつかぬ無気力状態にある彼女をたかぶらせた猜疑であった。手摺をしっかりと握り、顔をめぐらせて正面から卿を見ると、彼女はその質問を投げた。後になって思い返した彼は、この時には見過ごした彼女の振る舞いをいささか奇異に感じるのだが。

「ブラッドは彼等の承諾と、その娘を連れ去る権利を買ったのです。彼は銀貨二万以上の価値がある真珠で支払ったのだそうです」卿はわずかに軽蔑を込めて再び笑った。「大層な値段だ!まったく、連中は皆――単なる盗賊、金銭ずくの極道者です。いや、実の処、これでも御婦人の耳に入れられる程度に和らげた話なのですよ」

 再び卿から目をそらした彼女は、自分の視界がぼやけているのに気づいた。しばしあってから彼女が尋ねた声は、先程までに比べてやや落ち着きを欠いていた。

「そのフランス人は、何故、貴方にそんな話をしたのかしら?その人はキャプテン・ブラッドに恨みでもあるのかしら?」

「他意があってという訳ではありませんよ」ゆっくりと卿は言った。「彼がそれを話したのは……ああ、単にありふれた話、海賊稼業の流儀の例として出したまでの事です」

「ありふれた話!」彼女は言った。「ああ神様!ありふれた話だなんて!」

「あえて言いますが、文明が我々の為に仕立てた外套の下では、我々は誰しも皆、野蛮人なのですよ」卿は言った。「とはいえ、このブラッドというのは、カユザックが語った処によれば結構な才覚のある男だそうです。元は医学士だったとか」

「私の知る限りでは、それは事実です」

「そして彼は多くの国の海軍と陸軍に仕官しました。カユザックが言うには――これについては俄かに信用しかねるのですが――デ・ロイテルの下で戦った事もあるのだとか」

「それも本当です」彼女は言った。そして苦しげに溜息をついた。「カユザックという人が話した事は、充分に正確だったようですわね。ああ!」

「大丈夫ですか?」

 ビショップ嬢は彼を見た。彼女がひどく蒼ざめている事に彼は気づいた。

「かつて尊敬していた人の死を悼むような気持ちです。かつて私は、不運ではあるけれど、立派な紳士として彼を見ていました。それが今は……」

 彼女は言葉を切り、そしてわずかに引きつった微笑を浮かべた。「そんな人の事は忘れてしまうのが一番ね」

 そう言って彼女はすぐに話題を変えた。誰とでも親しくなれるのが彼女の素晴らしい資質であり、旅の最後にあたる短い期間に、二人の間で友情は着実に成長していた。卿にとって、この船旅における最も楽しい段階となっていたはずものを台無しにする事件が起こるまでは。

 それに水を差したのは、ゴナイーヴ湾を横断する船旅の二日目に遭遇したスペインの狂犬提督だった。ロイヤル・メアリー号のキャプテンは、ドン・ミゲルが発砲してきた時ですら動じる事はなかった。水上に高々とそびえる山のごときスペイン外洋船を眺め、その華々しく誇示された旗を視認して、英国人キャプテンは蔑みの念を抱いた。カスティリャ旗をひるがえしたドンが戦いを望むならば、このロイヤル・メアリー号はお望み通り受けて立つだけだと。彼には己の武勇を恃むに充分な力があり、その日をもってドン・ミゲル・デ・エスピノーサの暴虐を終わらせていた可能性もあったが、しかしそれはミラグロッサ号からの砲弾が不運にもロイヤル・メアリー号のフォアキャッスル(船首楼)に置かれていたわずかな火薬に命中し、戦闘が始まるか始まらないかの段階で彼の船の半分が吹き飛んでいなければの話である。火薬が何故そのような処に置かれていたのかは不明であり、そして落命した勇敢なキャプテンにはそれを知る術は既になかった。

 ロイヤル・メアリー号の乗組員達が狼狽から我に返る前にキャプテンと船員の三分の一が死亡し、損傷した船は針路を反れて無力に漂うという状態の時、スペイン兵達が板を渡して乗り込んできた。

 ビショップ嬢が避難していた船尾後甲板下にあるキャプテンの船室で、彼女を慰め励まそうとしたジュリアン卿が、全ては上手く運ぶでしょうと言葉をかけたのと、ドン・ミゲルがこの船に乗り込んできたのとほぼ同時であった。ジュリアン卿自身は完全に平静とは言い難く、その顔は一目でそれと判るほど青ざめていた。彼が臆病者であったと言うつもりはない。しかし板子一枚下に千尋の海が待ち構える場に閉じ込められているという未経験の要素がある戦いは、陸上にあっては充分に勇敢な人物をも不安にさせていた。幸いにもビショップ嬢は、彼の慰めを必要とするような深刻な状態には見えなかった。確かに彼女も同じく青ざめており、ハシバミ色の目は常より多少は大きく見えたかもしれない。しかし彼女は巧みに自制を保っていた。半ば腰を下ろし、半ばキャプテンのテーブルに寄りかかりながら、彼女は恐怖のあまり足元に這いつくばる混血の侍女をなだめようと努めるだけの勇気を保っていた。

 そして船室の扉が勢いよく開くと、長身で日に焼けた、鷲のような顔のドン・ミゲルその人が大股で入ってきた。ジュリアン卿は彼に対面する為に体ごと振り返り、剣を抜こうとした。

 そのスペイン人はきびきびと、そして単刀直入に言った。

「愚かな振舞いはやめたまえ」彼は直々に「さもなくば貴君は愚か者として命を終えるだろう。この船は沈みつつある」と告げた。

 ドン・ミゲルの背後には三、四名の兵士が控えており、ジュリアン卿は己の置かれた立場を理解した。彼は柄から手を放し、2フィート近い刃は音もなく鞘に戻された。しかしドン・ミゲルは白い歯を見せて白髪まじりの顎鬚の後ろで微笑むと、手を伸ばした。

「よろしければ」彼は言った。

 ジュリアン卿はためらった。彼の視線はビショップ嬢の方に向けられた。「そうなさった方がよろしいわ」と、その落ち着いた若いレディは言い、それを受けて卿は肩をすくめると要求通りの降伏をした。

「では――お二人共――我が艦に参られよ」ドン・ミゲルは彼等を招待すると、大股で歩み去った。

 彼等は当然ながら招きに従った。第一に、スペイン人達は彼等にそれを強制する武力を持っていた。もう一つの理由は、ドン・ミゲルが沈みつつあると告げた船に残る理由は既になかったからである。彼等はビショップ嬢が必要なだけの着替えをまとめ、卿が旅行鞄を持ってくる以上の長居はしなかった。

 おぞましい屠殺場と化したロイヤル・メアリー号の生存者達はスペイン人によって放逐され、その運命を彼等自身の才覚に任された。彼等にはボートが与えられ、乗り切れない者達は泳ぐか溺死するしかなかった。ジュリアン卿とビショップ嬢の命が保障されたのは、ドン・ミゲルが彼等に明白な価値を認めたが故であった。彼は麗々しく自分の船室に彼等を迎え入れた。礼儀正しく、彼は二人に御芳名を伺えましょうやと尋ねた。

 先刻目撃したばかりのおぞましい光景に胸がむかついていたジュリアン卿は、どうにか自制して己の名を告げた。それから彼は傲慢な調子で侵略者に向い、今度は貴君が名乗りたまえと要求した。彼の精神状態は最悪だった。運命が彼を押しやったこの異常かつ困難な立場において、明らかに不名誉な行動をとってはいないものの、名誉となるような行動もしておらぬのは確かであると自覚していた。これは瑣末な事かもしれないが、しかし彼の凡庸な舞台の観客はレディなのである。可能ならば、これからは一層上手く振舞おうと彼は心に決めた。

「私はドン・ミゲル・デ・エスピノーサ」相手は問いに答えた。「カトリック王の海軍の提督である」

 ジュリアン卿は息を呑んだ。スペインがこの騒動を起こした理由がキャプテン・ブラッドのような流浪の冒険者による略奪行為への報復にとするならば、イングランドとしては、ここで応酬せずに済ませられるだろうか?

「ではお答えいただきたい。貴方は何故、忌まわしいパイレート(海賊)のように振舞っておられるのだろうか?」彼は尋ねた。そして更に言い添えた。「貴方は理解しておられるはずだ、これが如何なる結果に至るか、そして今日の行動によって御自身が厳しく責任を問われるであろう事も。貴方が残忍にも流した血によって、そしてこちらのレディと私に対して行使した暴力によって」

「私はお二方に対して暴力を行使してなどおらん」生殺与奪の権を握る者だけが可能な微笑を浮かべ、提督は言った。「それどころか、私はお二方の生命を救ったのだ……」

「我々の生命を救っただと!」あまりの厚顔な台詞にジュリアン卿は一瞬、絶句した。「ならば貴方が無意味な虐殺によって奪った生命はどうなのだ?主の御名において、この途方もなく大きな犠牲の対価が貴方に支払えるのか」

 ドン・ミゲルの微笑は揺るがなかった。「可能だとも。凡(すべ)ての事をなし得るなり[註3]。差し当たり、貴君の命の対価は貴君自身で支払う事になる訳だが。ビショップ大佐は金満家だ。そして貴君は、ミロード(閣下)、疑いなく同様に富者だ。貴君の値打ちに吊りあうだけの身代金の額を考えねばな」

「ならば貴様は、単なる忌まわしい殺人者のパイレート(海賊)に過ぎぬという訳か」卿は激昂した。「それでも貴様は厚顔にも、己をカトリック王の海軍提督と称するつもりか?カトリック王はそれを聞いてなんと言うかな」

 提督は微笑むのをやめた。彼は己の脳を浸食する激怒の一端を明らかにした。「貴様、わかっておらんようだな」彼は言った。「貴様のようなイングランドの異端者の犬に対する扱いはな、単に貴様のようなイングランドの異端者の犬どもめがこの海上でスペイン人を扱ったやり口に倣っているだけだ――地獄から這い出てきた強盗や盗賊の輩め!私には己の名においてそれを行うだけの誠実さがあるぞ――しかし貴様等のような背信の獣めは、貴様等のキャプテン・ブラッドを、貴様等のハグソープを、貴様等のモーガンを送り込んで我々にけしかけておきながら、奴等の行いに対する責任は認めない。ピラト[註4]のように己の手を洗いおる」彼は凄烈に笑った。「スペインにもピラト役を演じさせようではないか。エスコリアルのコンセホ(枢機会議)に英国大使がドン・ミゲル・デ・エスピノーサによる海賊行為について泣き言を並べ立てに行った際に、スペインが私に関する責任を否認してもかまわんだろう」

「キャプテン・ブラッドや貴様が名を挙げた者達は、イングランドの提督ではない!」ジュリアン卿は叫んだ。

「違うと言うのか?それが事実であると、私には如何にしてわかる?スペインには如何にしてわかる?貴様が虚言者ではないと如何にしてわかるのだ、イングランドの異端者よ?」

「提督!」ジュリアン卿の声は苛立ちでかすれ、その目は光った。彼は反射的に、常ならば剣が下げられている筈の場所に手をやった。それから肩をすくめて冷笑した。「なるほど」彼は言った。「常々聞かされていた誉れ高きスペインの流儀について、貴様が実例を示してくれたという訳だ。丸腰の虜囚を侮辱するとは、なんとも勇ましい事だな」

 提督の顔は緋に染まった。彼は殴りつけようと手を半ば上げた。そして恐らくは、侮辱を秘めたその切り返しの言葉そのものによって自制を強いられ、彼は突然に踵(きびす)を返し無言で船室を後にした。



[註1]:ギリシア神話のモイライ(運命の三女神)。

[註2]:原文run amok。マレーシアの文化依存症候群アモックが語源であり、この物語の時代から約100年後の1770年にキャプテン・クックの手記に記録されたのが英語圏での初出。強い屈辱を受けた男性が極度の暴力衝動にとらわれる症例。

[註3]:マタイによる福音書19章、もしくはマルコによる福音書10章より。「人には能(あた)はねど、神は凡(すべ)ての事をなし得るなり。」

[註4]:ローマ帝国のユダヤ総督ピラトが圧力に屈してキリストの処刑許可を出した際に、自分に責任がない事を主張するパフォーマンスとして群衆の前で手を洗って見せたという故事。

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Captain Blood本編の全訳に加え、時代背景の解説、ラファエル・サバチニ原作映画の紹介、短編集The Chronicles of Captain Blood より番外編「The lovestory of Jeremy Pitt ジェレミー・ピットの恋」を収録

1685年イングランド。アイルランド人医師ピーター・ブラッドは、叛乱に参加し負傷した患者を治療した責めを負い、自らも謀反の罪でバルバドス島…

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