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ラファエル・サバチニ 戯曲『The Tyrant』脚本序文


序文

  小説であれ演劇の脚本であれ、フィクションを執筆する者にはリアリティのある描写というものが要求される。それが掛け値なしの事実そのものである必要はないが、しかし少なくとも尤もらしさは必須であり、そのような説得力が欠けていれば興ざめになってしまうのだ。歴史研究者に関しては、このような制約は課せられていないように見受けられる。「フィクション」として差し出せばあまりにもご都合主義が過ぎるといわれ、軽蔑と共に拒絶されるものが、「実話」であるといえば、到底ありえない矛盾だらけの逸話であっても信頼の置ける話として受け取られる。そしてこれは、無知ゆえに容易に「歴史」というレッテルに欺かれるような人々だけでなく、物事を易々と鵜呑みにしない訓練を積んでいるはずの、一定以上のリテラシーの持ち主にすら見られる傾向なのである。

 そうでもなければ、本作がロンドンで初めて上演された際に、一部でチェーザレ・ボルジアの「ホワイトウォッシュ(体裁良い美化)」だの、作劇上の都合で史実を歪めただの、あるいは――商業主義の為か、恐らくは無知ゆえに――歴史上のヴァレンティーノ公爵とは似ても似つかないヴァレンティーノ公爵を登場させた、などと評されたりはしなかったろう。

 このような一部の批評家にとって、どうやら史実のヴァレンティーノ公爵というのは、殺人と近親相姦、それらと五十歩百歩の慰みごとにふけるのみの人生を送った紳士であり、尋常でない数の毒殺、暗殺を日課とし、十五世紀当時の支配者ならば当然行っていたはずの活動に割くような時間のなかった君主らしい。早い話、創作物中のヴァレンティーノ公爵は、彼が史実において愚かで不快な人物であったのと同じように、愚かで不快な人物でなければならぬという訳だ。

 何が言いたいかというと、要するに、このような「ホワイトウォッシュ」論は以下の三段論法に基づいているのではなかろうか。

大前提:我々はチェーザレ・ボルジアがその活動の過程で夥しい数の人間を殺害し、あるいは死に追いやり、様々なおぞましい所業に手を染めたと教えられた。
小前提:この演劇におけるチェーザレ・ボルジアは、劇中で描写される出来事の間、誰も殺していなければ暗殺を命じてもおらず、また、おぞましい悪行にふける堕落した姿も描かれていない。
結論:よって、このチェーザレ・ボルジアは史実のチェーザレ・ボルジアではない。

 このような問題は、本来ならば言及する価値すらないはずなのだが、頭から無視する訳にもいかない事情というのもある。この種の見解を採用する人々には、歴史学者全般ではないものの、少なくともある特定学派によって書かれた典拠があるのだ。グイチャルディーニ、ジョヴィオ、マタラッツォ等、約四世紀にわたってグロテスクでセンセーショナルなボルジア家の悪徳物語を何度も何度も拡大再生産することに血道を上げてきた者たちの著作である。

 この学派は――複数の同時代人が証言している人物像をすべて無視して――チェーザレ・ボルジアを悪徳の権化、人の姿をした悪魔、下劣な快楽主義者、ひとつとして長所を持たぬ非人間的な悪党として描いている。彼は(信ずるに値する証拠や、告発されるに足る事実関係も動機もないまま)実弟ガンディア公ホアン殺害事件の真犯人として名指されている。曰く、彼は義理の弟にあたるアルフォンソ・ダラゴーナを殺害した。曰く、彼は義理の弟にあたるペーザロの君主ジョヴァンニ・スフォルツァの殺害を企て、従兄弟にして友人であるジョヴァンニ・ボルジア枢機卿を毒殺し、彼の怒りから逃れるべく教皇に保護を求めた不運な侍従ペドロ・カルデスは教皇の腕の中で刺し殺された。そして彼は他にも夥しい人々の死に関して責任があるとされている。彼の犯罪と主張されているのはこれだけではない。同様に安易かつ無責任なやり口で、何ら裏付けとなる証拠もないまま、反論となりうべき豊富な資料を冷笑的に無視して、彼と他のボルジア家の面々は近親相姦やその他の忌まわしい所業を行ったとして一方的に罪を問われているのだ。

 彼の悪行についての詳細な描写から我々が見て取れるのは、かような人格と性質なのであるが、仮にこのようなチェーザレ・ボルジア像が、歴史家を称する者の著作ではなく物語作家による創造物として世に出されていたならば、恐らくその作家は大衆の嘲笑によって抹殺されていたに違いない。完全にリアリティの欠落した着想であり、センセーショナルなメロドラマの域を超えて、もはや精神病院が扱うべきしろものであると。

 この件については、拙著『Life of Cesare Borgia チェーザレ・ボルジアの生涯』の中で仔細に論考済みである。概要のみを手短に記すが、私はイタリア史におけるこの不可解な一時期を批判的かつ詳細に取り扱い、一連の噂の出所を吟味し、物証と証言の信頼性についても精査した。それを一々ここに記すのは場違いであるし、この稿の論旨に必要とも思えないので割愛させていただく。

 とりあえずは目下の議論を進めるために、ヴァレンティーノ公爵が犯したとされている途方もない悪行のすべて、途方もなく忌まわしい行為のすべてが事実であるという前提を受け入れてみよう。

 チェーザレ・ボルジアの死から四半世紀後に、アルチェトリの別荘で隠遁中のグイチャルディーニが記した著作からは、そのような悪行にふけっていない時に公爵が何をしていたかについては全くといってよいほど読みとれない。これは興味深いことだ――これ自体が、セバスティアーノ・マッキのような同時代人から既に指摘されているように、悪意に基づいて筆を曲げた証拠である。このフィレンツェの歴史家グイチャルディーニが物語るチェーザレ・ボルジアに歴史的重要性は無きに等しく、誠実な歴史家の職分として記録してしかるべき、チェーザレがイタリアの政治に非常に広く持続的な影響を与えた行為や業績についてはほぼ完全に省かれているのだ。

 見事に成し遂げられたロマーニャの征服と改革の詳細について、そして偉大な軍事技術指導者、才知に長けた戦略家にして賢明なる統治者としてのヴァレンティーノ公爵について詳しく知りたければ、別の文献を探さなければならない。暴虐な僭主たちの下で苦しみにうめいていたロマーニャを奪い取った彼は、前任者よりもはるかに称賛に値する支配者に見える。彼は唾棄すべき混乱状態から秩序を回復し、適切な法の施行のために裁判所を設立した。その結果、人事財産ともに何世代も法の保護とは無縁でいた人々が、司法機関を頼ることが可能になったのだ。

 地位を追われた僭主たちはイタリア各地で荒れ狂い、彼を猛烈に非難し、アンチキリストと呼んでありとあらゆる口にするもおぞましい罪業で告発し、そして成長を続けるチェーザレの力と限りない野心が既にヴェネチア、ナポリ、ミラノ、フィレンツェのような有力国家に呼び起こしていた敵意を煽り立て、彼を破滅させる為に力を注ぐよう働きかけたのである。しかし彼が戦いを仕掛けた僭主たちに支配されていた民は、そのアンチキリストを自分たちの救い主として称賛し、率先して忠実な奉仕を提供し、結果的には武力による征服よりも無血開城に終わるケースも多かった。

 このような事実は――彼個人の品行問題と異なり――今日において、もはや議論の余地がない域に達している。これらはボルジア家に対して最も批判的な人々にすら受け入れられている。 反教皇の史家の中で最も手厳しく容赦ないグレゴロビウス[註6]さえもが、好意的な言及などせぬのが当然であろう人物に対して以下のような敬意を払う必要があると判断したのだ。

  彼の施政が活気に満ちた優秀なものであったことは否定できない。ロマーニャは初めて平和を享受し、搾取者たちを一掃したのである。 チェーザレの名において、チェゼーナのロータ法院長官であり、広く人望を集めていたアントニオ・デル・モンテ・サンソヴィーノによって法は執行されていた。

 今に伝わっている多くの人物評の中には、チェーザレ・ボルジアとフィレンツェ共和国の関係が友好的ではなかった時期に書かれた、フィレンツェ大使ソデリーニ司教が自国政府に宛てた以下の手紙がある。

  この君主は極めて輝かしく壮麗、その武勲もまことに勇烈であり、世の基準からすれば偉人名士に他ならぬ者であっても、彼からすれば小人匹夫に見えているに違いありません。栄光の追求と領土の獲得のためとあらば、彼は決して休むことなく、恐れも疲れも知りません。彼の行動は非常に素早く、出発しようとしていることが知れるより前にその場所に降り立っています。彼は自分の兵士たちから敬慕される術を心得ており、その配下にはイタリア最高の者たちが集まっております。このような事実が彼を勝利に導き、手ごわい存在と成さしめており、それに加えて幸運が常に彼の味方をしているのです。彼は確実な論拠に基づいた主張をするので、論争を挑む場合は長丁場を覚悟しなければなりません。その機知と雄弁ゆえに、彼が議論に負けることはありません。

 これを裏付ける他の人物評は豊富に存在し、それは彼に友好的な側からのものもあれば、敵対する側からのものもある。グレゴロビウスの『Geschichte Der Stadt Rom ローマ市史』にも以下のような記述を見つけることができる。

  自然はチェーザレ・ボルジアへの贈り物を惜しまなかった。昔日のティベリウスのごとく、彼はその時代における最も美しい男性であり、闘技者のように均整のとれた強健な身体をしていた。彼は怜悧な知性に制御された感覚の持ち主だった。彼の魅力は女性も引き付けたが、しかし更に恐るべきは、その魅力が男性に向かって発揮された時であり、それは相手の敵意や警戒心を静めてしまうのである。鋭利で明敏、その行動は稲妻のように素早く、人間性についての優れた理解力に恵まれた彼は、美徳も悪徳も分け隔てなく無慈悲に活用して己の目的を達成した。

 そして最後に、チェーザレ・ボルジアの功績、活力、勤勉、そしてさまざまな天与の知的能力に関する永遠の記念碑として、我々には『Il Principe 君主論』が与えられている。この、ニッコロ・マキャヴェッリの筆による国政術の手引書は、チェーザレ・ボルジアが活用したメソッドの綿密な観察に触発されており、君主たちが自らの行動基準とするべきモデルとして、各所で彼の名が挙げられている。

 劇作のためにこの主題の研究にアプローチする者は皆、史料を精査する際に否応なく二人のチェーザレ・ボルジアに直面させられるのだ、という説明はこれで充分だろう。一方はソデリーニやマキャヴェッリ、その他大勢が目撃した有能な武人にして明敏な政治家、肉体的にも知性面においても天与の資質に恵まれた君主。そしてもう一方は、グイチャルディーニやジョヴィオの編集物の中で描かれている堕落した放蕩者、血に餓えた殺人鬼、情けを知らぬ悪党。

 ボルジア家のポピュラーイメージは、ジョヴィオの著作、というより、それに更なる尾ひれ背びれをつけたグレゴリオ・レッチによって書かれた十七世紀の小説に基づいている。この小説はデュマ( Les Crimes célèbres 有名な犯罪)とヴィクトル・ユゴー( Lucrèce Borgia リュクレース・ボルジア)の翻案作品によって世界的によく知られるようになった。デュマは自分の物語の種本について言及する必要を認めなかった。ヴィクトル・ユゴーは、あの粗雑な、構成も酷ければ文章も酷い猥褻な三文小説からの借用を認め、それにより問題の屑本は真面目で権威ある歴史的文書であるかのように周知され、無知な世間は騙されてしまったのだ。

 私がチェーザレ・ボルジアの伝記劇を書こうとしたのであれば、必然的に親物語であるグイチャルディーニと、その活発に成長した子供であるグレゴリオ・レッチ、今も活力あふれるデュマとユゴーという孫たち、そしてその後に大勢生み出された曾孫たちという系譜を踏まえて創作するか、あるいは自分自身の独立した研究から導いた非常に明確で全く異なる――ただし私ひとりの特異なものではない――考えによって執筆するしかない。

 これらの選択肢のうち最初のものを選んだ場合、私はそれ自体が罰であるような不誠実の罪を犯していただろう。さらにいえば、その結果として出来上がったものは必然的に三文芝居となり、目にあまるほど不合理で、 知的な観客から見ればゴミのように稚拙な作り話の寄せ集め以外の何物でもなく――いかに役者が好演したとしても――舞台は笑いものにされていただろう。そのような事態に陥っていたら、真面目な話、私はボルジア神話というものを白日の下にさらけだし、永遠に破壊することによって、貴重な歴史的貢献をしていたかもしれない。

 二番目の選択肢の場合、私は非常にわかりにくく退屈な、物議を醸すようなドラマを書き上げねばならなかっただろう。仮にそのような脚本を上演してくれる劇場が存在したとしても、私は歴史学の論題について説明する目的のために観客を楽しませるという劇作家の本分を逸脱したと非難されていたはずだ。 そしていずれにせよ、演劇の制約は私が自論を詳細に解説し、論拠を完全に示すことを許さなかったであろうし、ブリタニカ百科事典や同様の簡潔で要約された文献によって歴史を参照した程度の人々が私に向かって「ホワイトウォッシュ」と非難の叫びを上げても致し方なかったろう。

 以上は単に仮定として言及したに過ぎない。何故ならチェーザレ・ボルジアにせよ他の誰にせよ、私が歴史的人物の伝記劇の執筆に魅力を感じることは今後もないであろうからだ。多くの偉業を成した活動的な人物の生涯というのは、たとえそれがチェーザレ・ボルジアのように短い一生であったとしても、三時間のエンターテインメントという制約の中に押し込めてしまうと大抵は面白いものにならないのだ。それよりも、その人物の活躍の典型であるようなひとつの事件を通じて、彼の性格と心の動きを描く手法がよいだろう。その事件は完全な実話でなくともかまわないが、歴史劇としての価値を持たせるためには、史実に沿った状況、少なくとも実際にあった出来事の中に設定されなければならない。さらにいえば、この手法を使えばすべての論争を回避することが可能になるはずだ ――あるいは私はそのように期待した。私はソデリーニとマキャヴェッリのチェーザレ・ボルジアを紹介するが、しかしグイチャルディーニとジョヴィオによって書かれたものと矛盾するようなことは何も主張しない。言い換えれば、私は一連の状況の中で行動するチェーザレ・ボルジアを描くことによって、 彼の大胆さ、彼の才略、彼の華麗さ、彼の鍛えられた肉体美、彼の個人的な魅力、彼の鋭利な知性、彼の冷酷、彼の無慈悲な野心、彼の典型的な十五世紀的な残酷さ、彼の無情なエゴイズムを明らかにし、それと同時に、彼が別の状況下において、ポピュラーイメージのような悪事の一部または全部を犯さなかったという主張もしない。

 それゆえに、私は劇中でチェーザレ・ボルジア自身を除いて、チェーザレ・ボルジアを称賛する科白や、または彼を贔屓しているように聞こえる主張を口にする登場人物がいないよう注意をはらった。そして 、 劇中でチェーザレ自身がイタリアで彼について取りざたされていた恐ろしい噂話について語る釈明は、それらの噂が真実であろうと虚偽であろうと、彼ならばそのように主張したであろう ――実際に似たような発言をしていた記録が残っているのだが ―― 釈明にしたのだ。物語の構築に採り上げた実際の歴史的事件は、二つの学派の間で論争がないものである。そしてまた、仮にチェーザレ・ボルジアがソデリーニやマキャヴェッリが賞賛した属性に恵まれていたとしても、私が創作した一連の状況とその渦中における彼の無慈悲な行動は、それらが ―― 他の多くの政治的中傷のように ―― 同時代のローマ人やヴェネチア人、ナポリ人によって捏造されたのならば、グイチャルディーニが自分の歴史書にためらうことなく収録していたであろう類のものでもある。

 このようにすれば、大衆の信念を傷つけるような乱暴をせずに自分自身の史観に沿うことが可能であろうと考えたのだ。

 しかしながら、そのような配慮をしたにもかかわらず、矛盾する学説の間で筋を通した中道を進もうと試みたがために、私はチェーザレ・ボルジアをホワイトウォッシュしたという非難を免れなかった。思うに、どうやら私はこの仕事により自分の意図を超えて歴史的貢献をしてしまったのではなかろうか。何故ならば、そのような非難を受けた原因は次の事実にあるはずなのだから。すなわち、ソデリーニやマキャヴェッリの語る才に恵まれた君主と、グイチャルディーニとその文学的後継者たちが描く残忍な悪党とを一人の人間に統合するのは不可能である、と。


文中に登場する史家文筆家

フランチェスコ・グイチャルディーニ (Francesco Guicciardini)
フィレンツェ共和国の歴史家(1483年ー1540年)「近代歴史学の父」。ニッコロ・マキャヴェッリとも交流があった。
主著『Historia di Italia イタリア史』『Storie fiorentine dal 1378 al 1509 フィレンツェ史』(『イタリア史』については、19世紀になってから典拠としている資料の一部に信頼性がないという批判がされている)。


パオロ・ジョヴィオ (Paolo Giovio)
コモ生まれの医師、歴史学者、美術収集家、聖職者(1483年ー1552年)。
主著『Historiarum sui temporis libri XLV わが時代』『Elogia virorum bellica virtute illustrium』
美術品収集家でルネサンスの有名画家の伝記などを多数著しているので、美術史の本でちょくちょく見る名前。『Elogia virorum bellica virtute illustrium』はイタリア戦争の記録。 

フランチェスコ・マタラッツォ (Francesco Matarazzo)
ペルージャ生まれの人文学教授、歴史家、市大使(1443年ー1518年)。
主著『Chronicles of the city of Perugia 1492-1503 ペルージャ年代記』

セバスティアーノ・マッキ (Sebastiano Macci)
ウルビーノ生まれの学者、著述家(1558年ー1615年)。
主著『Storia della guerra di Asdrubale』


フェルディナント・グレゴロビウス (Ferdinand Gregorovius)
ドイツの歴史家(1821年ー1891年)。専門はローマの中世史。19世紀ドイツにおけるルネサンス研究の権威。教皇アレクサンドルⅥ世とルクレチア・ボルジアの伝記も著している。反教皇派。
主著『Geschichte der Stadt Rom im Mittelalter 中世ローマ市史』『Geschichte der Stadt Athen im Mittelalter. Von der Zeit Justinians bis zur türkischen Eroberung 中世アテネ市史』『Lucretia Borgia und ihre Zeit』『Die Grabmäler der Römischen Päpste』『Geschichte des römischen Kaisers Hadrian und seiner Zeit』

グレゴリオ・レッチ (Gregorio Leti)
ミラノ出身の風刺家、歴史家(1630年ー1701年) 。ルイ14世やチャールズⅡ世の宮廷にも伺候していた。
プロテスタントであり、反教皇の立場から活発な執筆活動を行った。彼の出版物はすべてカトリック教会の『 Index Librorum Prohibitorum 禁書目録』に掲載されている。
主著『La Vita della Regina Elizabetta』『L'histoire de la vie du Pape Sixte Cinquième』『Vita di Cesare Borgia detto il Duca di Valentino』



アレクサンドル・デュマ (Alexandre Dumas) の歴史犯罪実話集『Crimes Célébres 有名な犯罪(1839年ー1840年)』シリーズ中の「Les Borgia ボルジア家風雲録」。

ヴィクトル・ユゴー (Victor Hugo) の戯曲『Lucrèce Borgia リュクレース・ボルジア(1833年)』は、同年、ユゴーに無許諾のままイタリアでガエターノ・ドニゼッティによるオペラ版が上演された。


解説


New Theatre, London, on the 18th March, 1925. ロンドン初演時のポスター (Victoria and Albert Museum, London 所蔵)

 ラファエル・サバチニの戯曲『The Tyrant』は、1925年3月9日にバーミンガムのシアターロイヤルで初演、その後、3月18日にロンドンのニューシアターで上演されました。チェーザレ役はMatheson Lang、パンタシレア役はIsobel Elsom。計126回上演されたそうなので、商業的にはまずまずの成功だったと思われます。
 それから5年後の1930年11月12日から30日まで、ブロードウェイのロング・エーカー劇場で上演。チェーザレ役はLouis Calhern、パンタシレア役はLily Cahill。短期間で終わったのでアメリカの観客にはウケなかったようで。

 この文章は1925年に同戯曲の脚本を出版した際に付けられた序文を翻訳したものです。劇そのものの内容はサバチニの過去短編「The Lust of Conquest」を改作したもので、脚本を読む限り、オペラでもミュージカルでもないストレートプレイとしては地味かつ冗長な印象で、その辺りの欠点を指摘されて批評家から厳しい文章を書かれる分には仕方ないかもな、という感じ。

 サバチニ先生もプロなので自作の欠点は自覚していたでしょうが、それはそれとして、「こんなのチェーザレ・ボルジアじゃない」という批評に対しては一言いってやらなきゃ気が済まなかったようで、結果として本編よりも面白い序文が誕生してしまったという次第。

 1900年代の初めからチェーザレ・ボルジアを題材にした作品を多数発表し、1912年には本格的な評伝まで出版していたサバチニ先生としては、この手の批判をずっと受け続けてきた末に堪忍袋の緒がブチ切れたんでしょうねぇ。講談などで確立した大衆イメージと史料を精査して組み立てた人物像とのギャップは、歴史エンタメ創作者にとっては常に変わらぬ悩みの種であり、独自に掘り当てた鉱脈でもあるのでしょう。

 ……2019年現在の日本ではサバチニ版のチェーザレ像の方がスタンダードに近いと知ったら、サバチニ先生はどんな顔をするのかな。

ベースになった短編小説はこちら

ロンドン New Theatre での初演版キャスト

チェーザレ・ボルジア:Matheson Lang

Matheson Lang as Cesare Borgia, Duke of Valentinois and Romagna, in THE TYRANT, photographed by Bertram Park, 1925. (Victoria and Albert Museum, London 所蔵)

パンタシレア・デッリ・スペランゾーニ:Isobel Elsom

Isobel Elsom as Penthesilea in THE TYRANT, photographed by Bertram Park, 1925.(Victoria and Albert Museum, London 所蔵)

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