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The Lost King~失われし王ルイ=シャルル第一部(7)誘拐犯たち

Ⅶ. 誘拐犯たち

 シモン夫妻に新居としてあてがわれたのは、タンプル門からは目と鼻の先、元はテンプル騎士団の馬屋であった粗末な小屋の、その二階にある三部屋から成る貸間だった。手押し車を転がしながらのラサールの道行きも、当然の事ながら短いものであった。

 母性的なマリー=ジャンヌは、薬物を飲まされた上に窒息しかねぬ扱いを受けた子供の身を案じ、我が目で安全の確認をしたいと切望して、シモンの強硬な反対にあった。彼女の方もまた、容易に屈服はしなかった。タンプル塔で不測の事態が発生して彼らの後から追っ手がやって来る危険を考えれば、無駄に少年を引き留めてはならないのだという説得を夫人が受け入れるまでには、夫婦の間では偽らざる剣呑なやり取りが交わされた。子供さえ手放してしまえば、何を聞かれようとシモンが案じる必要はない。あしらい方は承知しているのだ。

 そのような次第で、ようやくラサールはフランスの国王が入った包みと共に出発したのであった。荷物を運びながら、もやに包まれた人気ひとけのない道路を40ヤード以上進んで行くと、折り良く其処に、停車中の貸し馬車がいた。これに荷物を積んで乗り込むと、馬車は堅実な速度で走り出した。

 全ては計画通りに進んだ。明日、シモンは彼が教えた住所――パラディ通り二〇番地――にラサールを訪ね、後日に王党派から支払われる百万の、手付けにあたる金貨を受け取る手筈になっていた。

 この取り決めをシモンが受け入れるに至った理由は、単に良き友ラサールに対する信頼だけではなく、本件の格別に危険な事情が故に代わりとなる安全な選択肢がなく、妻にすら相談できなかった為であった。その危険な事情は、誰であれ、他者に打ち明ける事を不可能にした。あと少しすれば、シモンは妻に、自分たちに危険が迫っており、逃亡によって安全を図らねばならぬと説明できるはずだった。旅に出るのに必用充分な金しか持たぬように見せかけて、妻と共にスイスかプロイセン、オーストリア、あるいは、いっそイングランドでもいい、外国に行き、その地で報酬の百万を遣って、彼の崇高なる共和主義精神からすれば唾棄すべきはずの貴族階級のように、贅沢三昧で遊び暮らす為に。

 この夜、シモンはそのような夢に浸り、自分はもう大金を手に入れたも同然で、絶対安全な立場に身を置いていると考えていたのだが、一方その頃ラサールは、ド・バッツに貴重な子供を届けるべく、急ぎパリを横断していた。だが、その貸馬車が走っているのはメナール通りではなかった。川向こうのシェルシュ・ミディ通りにある、男爵と他の二名が待つ陋屋ろうおくに向かっていたのであった。

 その陋屋の一階、明々と照らされた快適な部屋では、送り届けられた子供がようやく巻き付けられた布を解かれて、未だ眠ったままの状態で暖炉の前に置かれた肘掛け椅子に収められた。そしてラサールが、その横に勝ち誇ったような様子で控えている間、(どちらもド・バッツから紹介されなかった)二人の客たちは畏怖により目を見開いて彼らの王を見つめ、男爵は少年の前に跪いた。その赤らんだ顔を見上げ、黄色い髪がべったりと張り付いた額から、えくぼのある柔らかな丸い顎まで、全ての目鼻立ちと特徴に視線を走らせると、常ならば鉄の如き神経の持ち主であるはずの男の目には涙が湧き出た。

「国王陛下!」彼はささやいた。「我が王よ!天の神よ、これが夢でないとは信じられぬ」

 衝動的に立ち上がると、彼は両腕を広げて、物憂げに微笑んでいるラサールに歩み寄った。

「フロランス、我が友よ!君には一体、どのように報いれば良いのだろう?」

「ああ、そんなの!革命政府の駄犬どもに一杯喰わせる楽しみだけで、お釣りが来るくらいですよ。それに、愉快で造作もない仕事でしたし」

「造作もないだと!」ド・バッツは鼻息を荒げた。彼は客人たちに説明した。「こういう男なのだよ。自分の働きを何かと卑下して、わざわざ些細な事柄であるような言い方をするのだ」

「弁明の必要などありませんぞ」二人組の内、年長者の方が発言した。「これほど輝かしい任務をやり遂げ、このような危険に己の身を投じた人物の中にある、勇気と気高さを見誤ろうはずもない」

「終わった仕事ですよ、それくらいにしましょう」ラサールは言った。そして気のない物憂げな調子で、一連の冒険を手短に、タンプル塔の衛兵との剣呑な瞬間までをも面白可笑しく話して聞かせた。

 彼が暇乞いとまごいをした時、男爵は深刻な懸念を見せた。「パリに留まっても危険はないのか?この紳士たちは、すぐに陛下を地方にお連れする。彼らと同行してもかまわんのだぞ、フロランス。パリが危険ならば、その地にそのまま潜伏しているといい。君の為に身分照明書を入手しよう、この場合……」

「親愛なるジャン、俺は明日、市民シモンと大事な約束があるんです。奴は俺から百万を受け取るつもりでいる。それに、俺は俺で勉強がありますからね。ダヴィッドのアトリエを離れる訳にはいきません。心配は御無用。俺に関しては、この冒険の危険は全て過ぎた事です。今晩、やり遂げました。きれいさっぱりね」

 ド・バッツだけでなく、他の二名も感情に走った反応を示し、そしてラサールは、それ故に偉大な芸術家には成り得ぬと師ダヴィッドが判断するに至った、過剰な感情の表出に対する忌避心から退出を急いだ。

 ラサールは、ようやく一月の夜闇の中に忍び出ると、パレ・エガリテ【註1】近くの粗末な部屋へと帰路を歩んだ。あの部屋に戻れば、カルマニョールと兎の毛皮の帽子を脱ぎ捨てて、自分はいつの日か歴史的な偉業と呼ばれるはずの、そしてそのいつの日かが到来する前の現在としては、ド・バッツに50ルイを要求してしかるべき仕事を成し遂げたのだ、という思いを胸に眠りに就く事ができるのだ。あの紳士たちが口にした、勇気と気高さに対する賛辞がもたらしたのは、苦々しさだけだった。そんな飾り物の美質など、革命によって貧窮に落とされた美術学生の空腹を満たすには、何の役にも立ちはしない。

 翌朝、ルーブルにあるダヴィッドのアトリエで、彼は脇目も振らず、勤勉に芸術の道を追求する若者として、新鮮かつ爽快な心持で画業に取り組んでいた。正午の一時間ほど前にショーメットの訪問によって邪魔が入るまでの間、彼は同門の学生の肖像に没頭していた。

 代理官の朝は多忙だった。

 不安に駆られて、朝一番にタンプル塔へと予定外の訪問をした彼は、担当委員たちに釈明した。

「アントワーヌ・シモンは昨夜ゆうべ出発してしまったからな。万事ぬかりなく保たれているかどうか、確認しておいた方が良いと思ったのだ」

 委員らは、万事滞りなく、引継ぎが完了した状態であると請合うけあった。ショーメットは眼鏡をかけて記録簿をめくった。彼は、この場にいる四名の委員によって署名された証明書を点検し、カペーの子供たちが正式に引き渡されたのを確認した。それから彼は、うなるように言った。

「これは問題ない」彼は眼鏡を外し、再び委員たちと対面する為に振り返った。彼はさりげない風を装った。「君たちは今朝、あの虎の子たちを見たかね?」

 既に面会済みであると、彼らの一人が代表して答え、更に小カペーは想像していたのと異なり、虎の子供らしい処が全く見られないと証言した。

 ショーメットは顔をしかめた。「どういう風にだ?」

「全く口をきかないんです。不機嫌で反抗的な、どうしようもない小猿ですよ。我々は1ダースは質問をしたはずですが、ただの一言も返ってこないんです。まるっきり痴呆か唖者みたいに、ぼんやりとこっちを見返すだけで」

「ああ! 不貞腐ふてくされ中、という訳か?そうか、そうか。なら、女どもはどうなんだ?そっちも同じ調子かね?」

「それどころか、あの二人は間抜けな修道女みたいに上品ぶって、素直に『はい、ムッシュー』『いいえ、ムッシュー』ってな具合ですよ。あの女どもに言ってやったんです、このフランスには、もう貴族なんぞいないんだ、我々は対等な市民だと学習しろ、返事は『はい、ムッシュー』にしろってね。連中の事は、馬鹿女、って呼んでやってますよ」そしてルイ王の血族に対する軽蔑心を強調する為に、愛国者は会議用ホールのモザイク模様の床に唾を吐いた。

「腐り果てた血統だ」とショーメットが同意した。

 彼はわざわざ上階まで登ろうとはしなかった。そのような必要はなかった。だが、常任の管理人が廃止された現在、あの少年を誘拐しようとする試みを不可能にする処置が必要である、というのがコミューンの意見であった。少年が反抗的なだんまりを続けると決めたのならば、独房監禁によって喋る必要自体を剥奪すれば良い。少年の監禁部屋の扉を完全に封じ、食事の出し入れのみに使用する小さな鎧戸を取り付ける為に、ショーメットは早速大工を呼ぶつもりだった。それより後は、コミューンからの特別の許可がない限り、誰であろうと、部屋に入る事もドアを外す事も許されない。あの少年は自分で自分の面倒を見るすべを学ばねばならん。オーストリアの野獣の子は、過剰に甘やかされてきたのだ。最終的にショーメットは、呼び付けた大工によって、この命令が本日中に効果的かつ即座に実行されるよう、二名の委員に監督を任せた。

 タンプル塔を後にした彼は、軽い興奮を覚えつつ、シモンの新居を訪問すべく階段を登った。

 ノックに応じてシモン自身がドアを開いたが、彼は一瞬、革命政府の飾帯を着けてサーベルをぶら下げた歓迎されざる訪問者を、予想外の驚きで呆然と凝視した。それから彼は乱暴に押しのけられて、ショーメットが入室の許可も得ずに敷居を跨ぐと、内側からドアを閉めた。

「一人か?」彼が尋ねた。ショーメットの態度は険しいものであり、ずんぐりと垂れ下がった鼻の下で、唇はきつく結ばれていた。

「女房は市場だよ」

「ああ!で、あの少年は?」

「少年?」シモンは色を失った。「どの少年だ?ウチには息子なんざいねえぜ」

「お前の息子の事なんぞ話しちゃいない。違う。タンプル塔の少年は?カペーの少年は?何処に隠した?」

「カペーの少年?何処に隠したって?俺っちが?」シモンは既に立ち直っていた。彼は自分の立場を理解していた。彼の良き友人ラサールは、仮にこのような事態が起きたとしても、攻撃を受ける余地はないのだと説明してくれていた。小さな黒い目が彼の大きな顔の中で輝いた。「何の冗談だい、市民ショーメット」

 元々、人に好感を抱かせる性質ではない市民ショーメットは、威嚇に出た事によって見るも恐ろしい形相になった。「アントワーヌ、ふざけるのはよせ」

「ふざけてるのは、そっちだろ。マジで言ってるようにゃ見えないぜ」

「私はこれ以上ないくらいに真剣だ。貴様もとっととふざけるのを止めんと、肩から汚らしい頭を刈り取ってやるぞ。告発されたくはないだろう?」

「告発って、なんの罪状でだよ?」

 ショーメットが己を抑えるのに苦労しているのは明白だった。「よく聞け、アントワーヌ。さっきまで私はタンプル塔にいたんだ。今朝、あそこにいた少年は、カペーじゃない。すり替えられたんだ」

「すり替えられた?すり替えられた!あんた、何言ってんだ?」

「これだけ言えば充分だろう。とぼけるのはよせ。あの餓鬼は何処だ?」

「俺が知るかよ?」

「今すぐ、あの餓鬼を渡さないと、四十八時間以内に貴様のシラミだらけの頭が籐籠に転がり落ちるぞ。それでも知らないと言い張るつもりか」

 シモンは彼を嘲った。「あんたがタンプル塔に行ったってンなら、記録簿と四人の委員たちの署名を見たはずだぜ。それから俺たちを通した衛兵もいる。連中は俺たちが餓鬼なんざ連れてなかったって言うはずだぜ。もし餓鬼がすり替えられたってンなら、やったのはあの委員たちだろうさ」シモンは怒鳴った。「これであんたも、真面目な管理人を首にした自分が馬鹿だったって身に染みたろ。もしも」と、彼の態度は突然悪意に満ちたものになった。「コイツが、あんたの汚ねェ計画の一部じゃないならの話だけどな。読めたぞ。あの委員たちは昨夜ゆうべ、あんたの仕組んだぺてんの為に任命されたんだな。みんな悪どい陰謀なんだ!そんで、悪事がバレそうになったら、俺に罪をなすりつけて逃げちまおうって寸法だ!俺っちを告発するって?告発されるのは、あんたの方だろが。おが屑の中に転がるのは、あんたの汚ねぇ頭だろうぜ」

 ショーメットの顔は激怒で色を変え、邪悪な形相になった。「この部屋を捜索する」彼はサーベルに手を置いた。「邪魔をしたら一寸刻みにしてやるからな」

「おお、やりたきゃ好きなだけやんな。地獄の亡者みたいに、いつまでも這いずり回って探すがいいさ」

 激怒のあまり押し黙ったまま、ショーメットは捜索を行った。その間中、シモンは彼をからかいながら、三つの部屋を順ぐりに確認する後ろをついてまわった。激怒し、当惑し、そして最後に彼は確信した。自分はこの腹黒い靴直しから、逆ねじを喰わされたのだと。彼はドアまで大股で歩いた。そして敷居の処で振り返った。

「この件で、必ず貴様の首を刎ねてやる、犬っころめ。神かけて絶対に……」

「誓うフリなんざ、やめとけよ」シモンが口を挟んだ。「俺っちに余計なちょっかいかけてみな、そしたらこっちは、あんたの化けの皮を剥いでやるぜ。あんたは、あの餓鬼について管理責任があるコミューンの代理官だ。俺に難癖つけてきやがったら、あんたにあの餓鬼を出してみろって言うぜ。もしあんたが餓鬼を連れてこれなかったら、自分がどうなるか、わかってるよな。俺の忠告を聞いて口をつぐんでるんだな。じゃ、楽しい一日を、市民代理官」

「貴様にとっては最悪の日になるだろうよ、悪党め」ショーメットはそう応じたが、それは単に、困惑と恐慌状態の中で虚勢を張った捨て台詞に過ぎなかった。

 このような興奮状態で、彼は作業中のラサールを引っ張り出す為に、予告もなくダヴィッドのアトリエを訪れたのであった。彼は蒼白になって震えており、その粗野な顔にあった通常時の生気は、全て無気力にとって代わられていた。彼は自制していたが、それも彼らがルーブルの外、しつこい霧雨と寒さのせいで無人になっている中庭に出るまでだった。

「君の素晴らしい計画は木っ端微塵になったぞ」彼はついに爆発した。「犬畜生のシモンが私利私欲の為に台無しにしてくれた。予測してしかるべきだった」

 ラサールは穏やかだった。「我が身を振り返ってみると」と彼は物憂げに言った。「俺は他人の不正行為について、見積もりが甘い傾向があるかもしれません。ある友人から説教された通りに、人間の本性は善ではないって事を、つい忘れてしまうんです。しかし正確に説明してください。シモンは何をしでかしたんです?」

「あの下衆野郎は、私に逆らいやがったんだ。奴は少年をこっちに引き渡すのを拒否した。図々しくも、あの餓鬼が、まだ塔内にいるようなふりをしていやがる」深緑のコートの両襟を掴んで、彼はラサールを問い詰めた。「昨夜の事件について何を知っている?何が起きたんだ?」

 穏やかに、しかし断固として、ラサールは掴まれた手を外した。彼の表情は厳粛なものだった。「俺に関する限りは、全て計画通りにいきました。あの少年は外に連れ出しました。後はシモンの問題です」

「あの悪党は、記録と委員たちの署名を盾にしているんだ。もし誘拐があったとしたら、委員たちの仕業だろう、とぬかしていやがる」

「何処かに支障があったんでしょうかね?」と何食わぬ顔でラサールは疑問を呈した。「俺だったら、タンプル塔を訪問してみますけど」

「もう行ってきた。いの一番に、あそこに行ったんだ。私は、少年を独房監禁にして、誰とも話せないようにしろと命じてきた」

「ええっ!じゃあ、貴方は自分の目で、すり替えを確認してきたんですか」

「そんな事はするもんか」ショーメットは激烈な調子で応じた。「まったく!あの少年を見る訳にはいかんだろう?私を馬鹿だと思ってるのか?誰とも話せないようにする処置を命じるより前に私が少年の様子を確認したのが知れたら、一体どう言い訳すればいいんだ?私の立場はどうなる?」そして再び尋ねた。「君は私を馬鹿だと思ってるのか?」

「どうも飲み込めないんですが」と言って、ラサールは真面目な顔で彼を見た。「確認させてください。貴方はシモンに、既に少年がすり替えられたのを知っていると言ったんですか?」

「もちろんだ」

「言いたくはないんですが、でも、貴方は馬鹿としか言えないですよ」

「何だと?」

「貴方はシモンに、少年がすり替えられていると言いました。それを貴方は、どうやって知ったんです?委員たちは、貴方が少年に会わなかったと、そして貴方が少年を独房に監禁するよう命じたと証言するでしょう。貴方はどうやって説明するんです?透視能力を使ったとでも?親愛なるアナクサゴラス!気の毒なアナクサゴラス!もしシモンが貴方を告発したら、確実に首が落ちますよ」

 ショーメットの顎は外れそうになった。

「身の破滅だ!」

「文字通りにね。不幸中の幸いは、この件を追及されるのを恐れているのはシモンの方も同じだという点です。ですから彼は、貴方の告発を実行に移すような真似はしないでしょう。状況は行き詰まり。それがせめてもの慰めですね」

「慰めだと!くそッくそッくそッ!そんなものの何処が慰めだ?シモンの奴は、この悪どい詐欺をやり抜けてしまうのか?」

「貴方が怒り狂うのはもっともですよ。気持ちはわかります。でも、貴方が犯した大失敗の後では、どうにも取り返しようがありません」二人は中庭の終端に来ていた。ラサールはくるりと身を返した。「ここで濡れ鼠になっても何にもなりませんよ。貴方が替え玉を見ていると誰にも言わせないように、今後一切、タンプル塔には近寄らないようにしてください。貴方がそういう用心をして、そしてシモンが余計な事を話さない限りは、貴方も安全なはずです」

「それじゃ結局の処、今朝、少年を見ずに済ませた私は正しかったのか?」

「いやいや。正しくはありませんでしたよ。単に運が良かっただけ、結果論です」

「だがもし、私があの餓鬼に会っていたら……」

「さっきからずっと、同じ処を堂々巡りしてますよ。それに、びしょ濡れだ」彼は大股で歩いて建物に戻り、ショーメットも其処では、それ以上の会話を続けようとはしなかった。「何か気づいた事があったら、貴方に知らせますよ。しかし、我が友よ、やってしまった事は、やってしまった事です。貴方が名前をもらった人の哲学【註2】を思い出して、己を鼓舞しましょう。オ・ルヴォワール(では、また)、アナクサゴラス!」そして彼は自分のイーゼルに戻って行った。自分は騙されただけでなく、嘲られたのであろうか、と思って呆然としているショーメットを独り残して。

 ラサールとしては、至極あっさりと代理官から解放されて、有り難く思っていた。その夜、彼が部屋を借りているボン・ザンファン通りの家を訪ねてきた市民シモン、敵意に満ちた市民シモンとの交渉の方は、これほど容易にはいかなかった。

 尻尾を巻いて去って行ったショーメットのお陰で、実に素晴らしく始まったその日、シモンは一時間かそこらの間、悪意ある笑いではしゃいで過ごしたが、成り行きは既に、不安な方向に変化していた。正午近くに、彼はラサールから教えられた住所である、パラディ通り二〇番地に行ってみた。思いもよらぬ事に、二〇番地にあったのは薬剤師の店だった。それでも彼は念の為に、パラディ通り二〇番地で、フロランス・ラサールを知る者はいないかと尋ねてみた。

 その店から出た彼は、息苦しさと胃の辺りの不快感という身体的な徴候によって、漠然とした疑いを意識し始めていた。笛を吹いてショーメットを踊らせ、楽しんでいたはずの自分が、今度は同じような曲に合わせて踊らされるハメになるかもしれない。

 途方に暮れた彼は霧雨にもかまわず道路に立ち尽くしていたが、ラサールがダヴィッドのアトリエで働いていると耳にしたのを思い出した。それが何処にあるかは知らなかったが、調べるのは容易だった。ルイ・ダヴィッドは国民公会の議員なのだ。シモンはテュイルリー宮におもむくと、融通の利く職員から、市民ダヴィッドのアトリエはルーブルのすぐ近くにあると聞き出した。ようやく目的地に辿り着いた時には、一月の午後の乏しい日照のせいで、学生たちは既に全員アトリエを後にしていた。けれども管理人を務めている年配のだらしない女が、市民ラサールの住処を教えてくれた。

 半時間もかからぬ内に、シモンはボン・ザンファン通りにある建物のがたついた階段を登って、画家が住む部屋のドアを乱暴に叩いていた。

 ラサール自らが扉を開けた時、シモンはツキが自分にあると思った。

「見つけてやったぞ、どうだ?」シモンは喧嘩腰だった。「俺っちをパラディ通りのクソ忌々しい薬屋に行かせるなんざ、何の冗談だ?向こうじゃテメェなんざ、聞いた事もないってよ。こいつぁ説明なしじゃ済まねえよな、若造」

 彼の真正面に立っている若い画家は、薄暗い明かりの中で、その青白い顔に穏やかな驚きに似た表情を浮かべたように見えた。

「誰かと思えば、模範的市民のシモンじゃないか。それで、何の話だっけ?」

 その気だるい口調は怒りを誘うものだった。シモンは頭を低くして雄牛のように突進した。力強く重量のある彼は、ラサールを部屋の中央あたりまでよろめかせた。それは中ぐらいの広さの、乱雑な、家具も碌にない部屋だった。脚輪付きの低いベッドが壁際に置かれ、部屋の中央にはテーブルがあり、それに加えて二脚の椅子と、大理石の天面板にひびが入った箪笥が家具の全てであり、カーテンをつけた壁龕へきがんが衣装箪笥の代わりだった。樅材の床板には敷物もなく、一つきりの窓では積もりに積もった埃がカーテンの役割を果たしていた。

 体勢を立て直したラサールはからの暖炉の方に後退し、その間にシモンはドアを閉めると、戦いに備えるかのように身構えた。

「さあて、若造、どういう訳で俺に嘘の住所を教えたのか、聞かせてもらおうか?俺はナメたマネされて黙ってるような男じゃねぇんだ。そいつを教えてやろうか」

 彼の脅しが如何なる効果を発揮したとしても、少なくとも、ラサールの気だるい口調には何の影響も与えなかった。

「そんな権幕で押しかけてきた理由については、教えてもらえるのかな。随分と剣呑じゃないか」

「そうかい?これっくらいは序の口だって思い知る事になるぜ。俺が何でここに来たのか、本気でわからねぇか?」

「わからないから訊いてるんだよ、市民シモン」

「何だと?」シモンは一、二歩足を進めた。「この犬公が!」彼の顔面は紅潮し、小さな両目は険悪の色が濃くなっていた。彼は疑心が呼び起こした激怒を押し殺していた。「百万の話はどうした。俺が配達した商品の代金だよ。パラディ通りで、今日、俺が、受け取る事になってた――でっけぇ金はよぉ」

「ああ、それ!」ラサールは、たった今、事態を理解したかのように笑いだした。「でも君、俺の話を本気にしてなかったじゃないか!百万が手に入るなんて信じてなかったろ。ありゃ、冗談だよ、我が友よ。君だって良くわかってると思ってたんだけどな」

「冗談!」シモンの頭と首には血管が浮き出した。一瞬の間、彼は脳卒中を起こしそうになった。「てっ、てめぇ…てめぇ、だったら何で……どういうつもりだってんだよッ?」

「だから、言ったろ。君は俺が何処で百万も手に入れてくると思ってたんだい?我が親愛なる市民シモン、あの子供の救出は、素晴らしい、気高い行為だった。これは受け売りなんだけどね、善行を成し遂げたという思いは、永遠に色褪せない喜びなんだってさ。それを君の報酬にしろよ」

 室内がシモンの苦しい呼吸音で満たされ、不吉な静寂が落ちた。それから彼は、厚い唇から泡を飛ばしてわめき始めた。

「この犬っころ!ヒキガエル!気取りかえった貴族かぶれの毒蛇!」脈絡のないなぞらえを並べ立てた罵詈雑言を叫びながら、愛国者は襲いかからんとする獣のように姿勢を低くした。「てめぇの体中の骨を、一本残らず粉々にしてやる」

 頑丈な杖が一本、暖炉の窓間壁まどあいかべに立てかけてあった。怒り狂ったシモンが彼に飛びつこうとした時、ラサールはその杖をひったくった。脇に飛びのいて突進を避け、飛びかかってきたシモンを、それで殴りつけた。前腕で強打をとらえたシモンは、そのまま杖を押さえてラサールの手からぐいと引っ張った。杖があっさりと離された為に、シモンは勢いよく背中から倒れそうになった。体勢を立て直した彼は再び前方に向かって行こうとしたが、足先が床に触れたか触れないかという処で、突然、恐怖のあえぎと共に動きを止めた。長さ約2フィートの細長い刃の先端が、彼の胸から1インチ以内にあった。それから彼は、この驚異を理解した。ラサールの杖は仕込杖であり、シモンは自らの手でその鞘を引き抜いたのであった。

 そして今、突きつけられている刃に負けず劣らず、冷たく恐ろしい声が彼に告げた。

「ちょっと、分別がなさ過ぎるんじゃないか、我が友よ?君の素晴らしい愛国心に背いて、君がつい最近まで崇め奉ってた連中を売り飛ばして、そうやって共和国をぺてんにかける事で百万が手に入るだなんて早合点した時と同じくらい、分別がないよ。君にぴったりなラテン語の格言を教えてあげよう。『ネ・ストル・ウルトラ・クレピダム【註3】』。靴直しの仕事に戻りなよ、市民シモン。靴屋は靴以外の事に口を出すな、本分を守れ……って意味さ。国を動かすレベルの政治って奴には、君とは全然違う種類の人間が必要とされるんだよ。君なんぞ、お呼びじゃないのさ!行けよ!」

 彼は仕込杖の刃を突き出した。シモンは後ずさった。ラサールは彼を急き立てた。「きびきび動かないと、小鳥の串焼きみたいになるぜ。俺の下宿から出ていきな、この悪党、けちな裏切り者、国王の誘拐犯」

 今朝、錯乱したショーメットが彼に浴びせた空虚な脅迫を、錯乱したシモンはラサールに対し繰り返した。「この件で、必ずてめぇの首を刎ねてやるぞ、悪党め。俺がやるより前に、ギヨティーヌがてめぇの首を飛ばすはずだ、そいつを見物してやらぁ」

 彼が代理官の捨て台詞に対して答えたのと同じように、彼はラサールから告げられた。「面倒を起こしたいなら、御自由にどうぞ。その時は俺も、あの誘拐事件は君が企んだって告発するから。証拠はタンプル塔の中にあるし、君の頭は胴体と泣き別れだろうね、市民シモン。でも、そんな事は本気で信じちゃいないさ、君は面倒なんて起こさないよね」

 扉を開けると、最早一言も発さずに、訪問者は急な階段を騒々しく踏み鳴らしながら降りて行った。ショーメットの返報は成されたのであった。



訳註

【註1】:Palais-Égalité パレ・ロワイヤル(王宮)の革命時代の呼称。オルレアン公フィリップ・エガリテ(フィリップ平等公)にちなんでパレ・エガリテ(平等宮)と呼ばれた。

【註2】:アナクサゴラス BC500年頃の古代ギリシアの自然哲学者。後の宇宙科学や原子論へと発展する説を提唱した。知の探求の妨げになるとして、自ら地位も財産も放棄したと言われている。

【註3】:Ne sutor ultra crepidam 古代ギリシアの画家アペレスは、自作の画中における靴の描き間違いについて靴の修繕屋の指摘を容れて描き直した。しかしその靴屋が脚の描き方にまで批判を加え始めるに至って「靴屋は履物より上の事にまで口を出すな」と言って退けた。英語の格言"The cobbler should stick to his last."の元になった逸話。

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