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AI時代の美味しいとの付き合い方

近ごろ巷では、AIの話で持ちきりです。新しい技術が出てくると、私はまず警戒をしてしまいます。そのくせ、まだ見ぬ未来の姿がいきいきと語られ出すやいなや、すぐ無防備に心躍ってしまうタイプでもあります。ですから今回も、ドキドキとワクワクを行き来しながら、頭の中がぐちゃぐちゃになるのを楽しんだりしています。

ともあれ、生成AIがインターネット登場以来の大きな技術革新であることは間違いないのでしょう。これまでも自分にマッチした情報を自動的に受け取ったりしていたものの、それはあくまで誰かが作ったコンテンツを提示してもらっていただけ。それが今後はゼロからAIが作ってくれるわけですから、フェーズは確実に一段階上がっています。

新しい技術は、私たちの生活を便利に、そして豊かにしてくれます。こういうサービスがあったらいいな、という理想がまず社会に実装されていくからでしょう。そうしてから、そのスピードに抗うように立ち止まろうとする力も生まれます。何か忘れていないか、という疑念を言葉にし始めた人たちが、倫理とか界隈のボキャブラリーを用いつつ豊かさの本来的意味を捉え直そうとします。

大小あれど、こうした反復はさまざまな場面で繰り返されています。私は「たべものや」の店主です。私の手の届く範囲内では、これから数年間にどんな反復が起こりうるのでしょうか。

AIが一番の味方に

イギリスで既に展開されている、とあるサービスがラジオで紹介されていました。食生活や体調のデータを入力すれば、自分が摂取した方が望ましいサプリメントを郵送してくれるそうです。

これを聴いたとき想像がぐんと膨らみました。

もしもサービス利用者がSNSに毎日の食事をアップしていたら、日々の運動量がスマホを通じて自動的に捕捉されていたら、健康診断や生命保険といった情報がサービスとリンクしていたら、もはやデータ入力といった利用者側からのアクションなど必要なくなるかもしれません。

ここにさらに生成AIが絡んできたら、サプリメントを選ぶだけにとどまらず、オリジナルレシピだって提供してくれそうです。

今ですら、行動範囲や友人関係、商品の購入履歴などから、利用者の嗜好を予測するなんてお手のもの。きっとそのオリジナル料理は健康に寄与するだけでなく、美味しそう!と気持ちまで持っていかれてしまう一皿であることでしょう。レトルトや冷凍食品にしてしまえば、手軽さだって失われずにすみます。

こうしたサービスを自然に受け入れるようになった時、私たちはAIにどんな感情を抱くでしょうか?

自分のことをこんなに親身に考えてくれる存在は他にいない、と強い信頼を置くことは充分考えられます。この承認欲求の満たされ方は、SNSの「いいね!」とは比べものにならないほど強くなりそうです。食べることを通じて、実際に体への働きかけがあるのですから。

相手は本当の人間じゃないのに、という反論はあまり意味がないかもしれません。受け手がどう感じるかが全てであり、生成AIには人格を感じさせる可能性が充分にあるからです。そうなればサービス利用者の生活が豊かになったことを、どうして否定できるでしょうか。

噂のスイーツ、食べたい!!

と、ここまで書いてきて、なんか嫌だなあ、と心のブレーキがかかるのも事実です。専門家でも何でもないので、実現可能性など度外視の妄想に過ぎません。でも、人間の感覚がないがしろにされていく予感に、立ち止まりたい衝動が湧き上がるのです。

生成AIの以前から、薄々は感じていました。

「美味しい」が食べたときに湧き出る感情というよりも、食べるより前に学習する知識に寄ってきているなあ、と。あえて簡略化して書けば、「このスイーツ、口に入れた途端にとろけるって噂だったから、実際行列に並んで買ってみたら、その通りの柔らか食感でとても美味しかった」というような美味しいです。

もちろん全てではありません。スイーツを例にあげたのも、分かりやすさからで他意はありません。ただ、こうした傾向はメディアの発達に伴って加速してきたことは確かでしょう。

だから自分だけの感受性をもっと磨こうよ、という意見もよく聞きます。そもそも脳の仕組みからして知識を使わずには外の世界を捉えられない云々、という話もあるでしょう。

しかし私の違和感はそんなに小難しい話ではなく、もう少し単純でストレートなところにあるのです。

後から気づく「美味しい」

例えば、こんなことってないでしょうか。レストランでメニューを見るものの食べたいものが見つからず、うーんと唸っていたら、パートナーが痺れを切らして「これだと思うよ」なんて蕎麦を指さすから、それを注文したら一口食べた途端にモヤモヤが晴れるように心に感動が広がった…とか。

つまり、食べたときに「あー、間違いなく今これだったなあ」というタイプの美味しいです。

先の柔らかスイーツとは何が違うかと言えば、「美味しい」が立ち上がるタイミングです。スイーツの場合、目指すべき「美味しい」を確認しに行ってるのに対して、蕎麦は食べた後に「美味しい」がやってきています。

また前者より後者の方が、健康に直結した満足であるような気もします。だからスイーツの「美味しい」は食べた瞬間に消えてしまうイメージがありますが、蕎麦の方は身体のなかに継続して残っていく感じがします。概念を頭で理解しているのと、体の反応を観察するのとの差とも言えるでしょうか。

さらに、何を食べるかを自分で選んだか、他人に選んでもらっているかも大きな違いでしょう。

つまり両者を比べると、蕎麦の「美味しい」は、より偶然に開かれた、身体性の高い、事後的な出会いだということです。

蕎麦型への出会い方とは

この二種類の「美味しい」は、誰もが感じたことがあるものでしょう。しかし毎日の生活のなか大量な情報に晒され続けていると、スイーツ型を求めがちになるのは否めません。

これを無自覚に続ければ、自分の健康を害する恐れも充分にあります。でも蕎麦型の「今これだったな」という選択を、食べる前の自分の体の状態から導き出すのはなかなか難しいことです。

そもそも食べたものが体にポジティブであったかどうかは、正確に言えば、時が経たないと分かりません。エビデンスが明確な医療的な選択であっても、それは同じです。

つまり蕎麦型の「美味しい」は、食べた後には普通に感じられるのに、食べる前に判断するのは難しく、しかも感じたその美味しいは、正しく健康へと導く反応であるかは分からない。

堂々めぐりです。心に引っ掛かりを感じない「美味しい」と出会うためには、結局、その時点での納得感しかないのかもしれません。

要するに信じるということ。ここには「今」以外の諸要素はとりあえず脇に置く、ある種の諦めに似た覚悟があるように思えます。そしてこの覚悟に至るには、他人への信頼(もしくは前向きな責任転嫁)がひとつの助けになるのではないでしょうか。

無理矢理でしょうか。多少はそう思います。しかしこう考えると、嫌だなあと心にかかったブレーキがすこし和らいで、未来へのワクワクが戻ってきたりもするのです。

嫌でも付き合う、その覚悟をどうつくるか?

さて、生成AIが食生活をサポートしてくれたとき、私たちは人と同じようにAIを信頼し、その場の選択を覚悟することができるでしょうか。つまり、自分が思ってもなかったメニューを提供されたときに、「うん。今これだったな」という納得を得ることを期待できるでしょうか。

「健康のために今日はこのメニューで」と言われたら、それを信じるだけの関係をAIとの間に作ることはできるでしょう。しかし、もしも好みでない味が続けば、利用者は躊躇なくサービスを解約するように思います。

するとサービスは「健康」という当初の目的を後退させ、「美味しい」を優先して訴求していきます。食べる前に訴えるわけですから、この「美味しい」はスイーツ型にしかなりません。写真映えや目新しさはすぐ利用者に飽きられ、サービスは速さと過激さをより加速させていくでしょう。

これでは今と同じです。AIはここをどう乗り越えるかが、大きな課題なのかもしれません。

簡単にブロックやミュート、契約解除できない関係性を、AIとの間にどう構築していくか。絡まりすぎてしまって、解く方がかえって面倒くさいと思えるような関係。理想はドラえもんとのび太でしょうか。でもそんな共生は、本当に私たちの未来図として魅力的なものなのか。そして社会を豊かにする一歩が踏み出されていった時、「たべものや」である私にはどんな一助となれるか。

頭の中がぐるぐる。まな板をトントン叩きながら、ドキドキとワクワクが何往復もしています。

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