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思考という名の公式

演劇に出演することになったので、役の台詞を覚えていく。この時必ず行う過程が「役そのものの思考のインプット」。役の思考を一度脳に覚えさせれば、台詞がどうして発されているのかがわかる。思考をインプットすることで自分の中で役の人格が生まれるので、台本を読みつつ頭の中や声に出しながら役と対話を繰り返す。この繰り返しで舞台の世界そのものを覚える。勿論自分の演じる役の登場しないシーンなどは最初こそ軽く目を通すに留まるが、一文字一文字を読み取り、分解する作業はいずれは必要になる。

ところで、何者かになるということに、人は誰しも取り憑かれている。役というものに向き合っていると特にそう思う。仕事、趣味、恋愛、何かになりたいという一心で物事に取り組む人は少なくない。むしろ、私含めほとんどの人がそうだと思っている。時には思想に、発する言葉そのものに、行動に。嘘までついて人はただ一つの何かになろうと努力をする。
でも、確立された何者かになるなんて理想に過ぎない。そうした「自分は何者でもない」という事実こそが、人を狂わせる。本当は、いくつも人間には顔があって、それらがただ自身の中で揺らいでいるだけなのに。

人間はいつだって輝かしいものだけを見続けていく生き物で、それはネガティブなことを見ている時ですらそうなのだと思う。真実から目を背けていたり、向き合ったり出来ている自分自身を見ている。真実そのものは見ていない。真実に向き合った人間は、文字通り狂ってしまうから。

演劇の話に戻るが、「私」が見ている台本の中の世界と、「役」が見ている台本の中の世界は、それぞれ違った光を放っている。創作をしていると常々思うが、世界とは自分自身の思考や価値観の投影でしかない。自分自身というものは確立されていないので、常に揺らぎを見せる。その時の自分がこうだと思った形に世界は変化していく。
役を作るとは(あくまで私の中では)世界の形を意図的に変えるということで、もっと言うならば自分の中の揺らぎを役に合わせチューニングしていくという作業になる。チューニングに際して必要になるのが役そのものの思考。

台本とはあくまで人間が作ったものなので、必ず思考に関してパターンがある。もし登場人物が狂っていく過程があるとしても、その狂気は思考を基盤に動く。思考とは数学で言うところの公式だ。台本もさまざまな公式を元に綿密に練られた問題の一つだと捉えることが出来る。演じる人間は問題の回答者だ。身体、声、心を使い問題への解を体現する。

ただ一つ数学と違うのは、解き方と答えに決まった正解はないこと。私は答えのない問題が好きだ。これから始まる稽古が楽しみで仕方ない。

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