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井上尚弥『怪物』──モンスターはいかにして生まれたのか

WBSS準決勝戦、世界に見せつけた”モンスター”の強さ

2019年5月18日に英国・グラスゴーで行われたWorld Boxing Super Series(ワールドボクシング・スーパーシリーズ、WBSS)準決勝戦で、WBAチャンピオンの井上尚弥はプエルトリコ出身のIBFチャンピオンのエマニュエル・ロドリゲスと対戦して2ラウンド1分19秒でTKO勝利した。共にプロのキャリア7年、26歳の右ボクサーで、無敗の王者同士の戦いだ。井上の並ならぬ強さに、世界のボクシング界に衝撃が走った。

井上が軽く放った右ボディに誘われるように左ボディを伸ばしてくるロドリゲス。右のガードのわずかな隙に井上のショートの左フックがはまる。一撃で下半身の力を失い支えきれなくなった体は、両膝から後方へ折れるようにしてマットへと投げ出された。2ラウンド32秒で、最初のダウンだ。立ち上がり、軽くジャンプをして足の力を取り戻したところを、井上は今度はボディを狙って一気に仕留めにかかる。2度目のダウンで「もう無理」というように首を横に振りながらも、ロドリゲスは再び立ち上がった。そこから井上の左ボディをまともに受けて左膝からマットに倒れ込み、両膝で膝まずいた体を両拳で支えながら頭をうなだれた。そして試合終了のゴングは鳴り響いた。

日本ボクシング界史上最高傑作と呼ばれる井上尚弥。2012年にプロに転向して入門した大橋ジムの大橋秀行会長が「井上君は何年、何百年に1人、というレベルではなくて、怪物です」と入門会見で発言した日から、井上は“モンスター”の通称で呼ばれるようになった。その時点での強さもモンスター級だったが、これからどこまで強くなるのかも計り知れない。そんな大橋会長の早まる心臓の鼓動が、“怪物”の二文字から伝わってくるようだ。そもそも井上の強さはどうやって出来上がってきたのだろうか。『怪物』(KADOKAWA、中村航/井上尚弥著)を読むと、井上がしてきたことは“天才”なんていう薄っぺらい言葉では片付けられないことがよく分かる。

凶器の左パンチの秘密

井上といえば左。プロになってから左のパンチで倒す試合が圧倒的に多い。今回のロドリゲス戦でも、左フックで顎を捉えて最初のダウンを奪い、ボディの連打でみぞおちを打ってから、左ボディで肝臓を打ち抜いて倒している。冷静に急所を順に打ち抜いていく今回の倒し方は、格闘漫画『北斗の拳』のケンシロウのようだった。井上の最近の試合との比較でも“モンスター”が、まだまだ進化しているのは明確だ。

この進化のベースにあるのは、もちろん子どものころからの練習の中で磨かれてきた技術と経験と探究心。父であり、トレーナーでもある井上真吾との練習では、1つの技術が身につくまで徹底して反復された。日々の研究と練習の成果を試合で試して次の課題を見つけてくる。そして練習して克服し、また次の試合で試す。子どものころからこの繰り返しで、井上は強くなってきた。なかでも重要なのは、練習でも打ち抜くことを意識して、相手を倒すボクシングを教えられてきたということだ。

2014年12月30日、当時のWBOチャンピオンのオマール・ナルバエスは、それまでの159戦のキャリアで一度も奪われたことのなかったダウンを、井上の右ストレートで初めて奪われた。しかし、そのパンチ力に誰もが驚き、歓喜の声が会場に響くなか、井上は自身の右拳も壊してしまっていた。猛烈な痛みの走る右拳ではもう打てない。徹底して体に染みこませてきた井上の技術力が、左拳を即座に凶器に変えていた。この試合で井上はWBO世界スーパーフライ級チャンピオンのタイトルを獲得し、2014年4月6日に獲得したWBC世界ライトフライ級チャンピオンのタイトルとともに、当時世界最速の8戦目での2階級制覇を達成した。


夢でも追い込む試合前

井上は試合前の調整方法の1つとして、イメージトレーニングをする。他の多くのスポーツ選手と違うのは、井上の場合は自分の分が悪いことばかりをイメージするところだ。この調整方法については、WBSS準決勝戦直前インタビューでも言及している。
「自分が100%いけるイメージしかしていないと、本番でそうできなかったときに絶対に少し焦るんですよ。いつも自分は相手をめちゃめちゃ過大評価して挑む。そうすると、ああこんなもんかで済む」
夜に寝ながら夢に試合のシーンを出して、自分がダウンをするのを想像したり、自分のパンチが当たらないイメージをするのだという。


”モンスター”はどこまで進化するのか

左フックのバリエーションを使い分けてKOするスタイルだったのが、今回のロドリゲス戦では拳を痛めにくいボディーも織り交ぜて効率的に倒すスタイルへとまた進化していた。試合でのピンチの経験も糧に、次の試合までにはとてつもなく進化させる。これが“モンスター”の正体だ。WBSSで決勝戦へ進む井上は、フィリピンのWBAスーパーチャンピオンで元世界5階級制覇王者のノニト・ドネアと対戦する。“フィリピーノ・フラッシュ(フィリピンの閃光)”の通称をもつドネアは、距離をとって対戦者の射程圏外の静けさのなかで相手の動きをみて、攻撃してきたところをカウンターの左フックをまさに“閃光”のごとく放ってKOするスタイルのボクサー。“モンスター”井上尚弥は、次はどんな姿を現わし、どんな戦い方をするのだろうか。

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須賀 一生

編集ライター/ファイナンシャルプランナー 金融・投資などのビジネス分野に強く、主にインタビュー記事の執筆をしています。健康オタクでボクシング好き。 twitter: @itski_suga
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