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文体のこと

文体というのは、例えばギタリストが出すギターの音なのだと思う。
もしかしたらジャズ・プレイヤーのトランペットやサキソフォンの音かもしれない。ピアノもきっと同じだ。
だが、決してヴォーカリストの声でも歌い方ではない。

インストゥルメンツであることが肝要なのだ。
キース・リチャーズのギターとはストロークのタイミングやピッキングの手癖だけではなく、弾かないところまで——音にならない空白まで——がキース・リチャーズなのだし、マイルスはいつでもどこでもマイルスだし、セロニアス・モンクがピアノを弾けば、それが中学校の音楽室の隅にあるアップライトのピアノでもセロニアス・モンクの音楽が湧いて出てきたはずだ。

文体はその人の来し方とか性格、本質が現れるだなんて、つい思ってしまうけれど(もちろんそういう側面もあるとは思うけれど)、それがすべてだとは思えない。
たかが楽器でしかないのに、弾き手によってまったく違う音楽が作り出されて、しかも耳にすればそれが誰の手によるものなのか、すぐにわかる。具体的に説明する必要など微塵もない。それが文体なんだと僕は思う。
常識的な小説という建て付け、スキーム、フォーマットに乗せて何かを作ったところで、違う歌を歌う同じ声にしか聞こえない。市販のボーカロイドみたいに。
誰が弾いても同じ音を出すはずのギターやピアノが獲得する個性とは対局の極限にあるように感じる。
喋る言葉は個性的で、同じように同じことを同じような声で喋る人などいるのか?と思うほどのなのに、どうして書き言葉になると、多くの人が同じ声、同じ話し方になってしまうのか。実に不思議。奇妙。

別に英米文学をえこひいきするわけじゃないけれど、文体の個人差というのは英米の作家の方がはっきりしている感じがある。
ヘミングウェイはヘミングウェイらしく、フィッツジェラルドはフィッツジェラルドらしく。
ダシール・ハメットとレイモンド・チャンドラーは全然違うし、ロス・マクドナルドとミッキー・スピレインもまったく別人なのが文体の端々から感じ取れる。
サリンジャーはサリンジャーらしい文体だし、ブコウスキーに至っては名前を挙げる必要すらない。
小説は頭の中、心の内を自ら暴いてしまうシロモノだから名前を隠すのはともかくとして、声まで隠してしまうのはどうなんだろうなとは思う。
少なくとも僕は読んだだけで自分だとわかる音色を出したいし、そういう音が出るような弾き方をしたい。
そう望んでいる。

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