映画館

作品自体に罪ってあるの?


俳優の新井浩文が逮捕されて割と大きめのショックを受けた。

こんなにクズ役が似合う俳優はそうそういないぜと思っていたら、

本当に本人がガチのクズだった、

という珍しいパターンだった。


死んだ魚の目界隈ではトップクラスの演技力だったし、

私は『青い春』を見て以来、

割と贔屓目に見てしまう好きな俳優の一人であった。


そして新井浩文の逮捕を受けて、

「公開予定の映画が公開中止」

になった。


とっても、モヤモヤとしている。


これまでももう本当に幾度となく同じようなことがあって、

「犯罪を犯した人間が関わっている」

もしくは

「あんまりよくないことをした人間が関わっている」

という理由で、

公開予定の映画がお蔵入りになったり、

発売予定だった作品が発売中止になったり、

公演予定だった作品が公演中止になったりするのを、

もう我々は100000000000000回くらいは見てきた。


その度に思う。

「作品自体に罪はないのでは???!??!」

と。


もちろん犯罪者を応援するようなことになってはいけないと思うし、

被害者の人への配慮だって有って然るべきだと思う。

でも、

それと、

「作品をなかったことにする」

が、私の中で、

全然、まったくもってイコールにならない。


もともと作品と、

それを作った人間の人間性は全く関係がないと思っているし、

(素晴らしい作品を作るけど本人の人間性はクソという事例なんて星の数ほどある)

「作品」と「それを作った人間」

は切り離して考えるべきというのが私の中にあるからかもしれないけど、

犯罪者が出演していようと、

当然作品は人間ではないので罪を犯してはいないので罰される対象ではないと思う。


今回の「映画」だけで言っても、

映画の持つ力というのはすごくて、

映画がそれを観た人に与える影響というのはめちゃくちゃ大きくて、

その人の価値観や人生に多大なる影響を与えたり、

何ならその人の生きる救いになったりすることだってある。

私は数々の映画や音楽や本に救われて生きてきたので、

犯罪者が出ているという理由でも、

この世から一つの作品が消されるのかと思うと、

誰かが救われる機会を一つ奪われるような気持ちになる。


文化芸術はピンキリすぎるので、

本当にクソすぎてどうしようもない作品だって世の中には無数にあるけれど、

それでも数多く存在しているということはそれだけでも意味や可能性があることだと思う。

犯罪者が犯罪を犯したせいで誰かが文化芸術に触れる機会を一つでも奪うということは、

犯罪者が犯した罪自体のほかにも何重にも罪を犯してしまうことになるのではないかとも思う。

だからこそ犯罪を犯してはいけないのだ、とも言えるのだけど、

それでもやっぱり私は作品自体が罪を背負っている、背負うべきとは思えない。


被害者の方へ最大限配慮もしつつ、

作品を消さない方法だってあっていいと思う。


映画の宣伝でテレビやラジオなどのメディアに露出するのは控えるとか。

公開する映画館の数は極力抑えるだとか。

映画館での公開はしないで円盤だけの発売やレンタルだけにするだとか。

工夫の仕方は絶対にある。


事件を起こした人がいるから自粛、

はきっとどの目線から見ても大事だけれど、

何かが起きた時杓子定規な対応ばかりしていないで、

もっともっと文化芸術が持つ力のことも考えてほしい、と思う。

公開中止は万が一仕方なかったとしても、

なるべく作品を待ち望んでいた人には届く方法を考えてもらえないだろうかと、

いち映画ファンは思っている。


もしも万が一宮崎駿監督が何かしらの事件を起こして、

ジブリ映画が見られなくなったとしたら、

どれだけの影響があることか。

どれだけのこどもの情操教育の機会を奪い、

お母さんの育児の負担が大きくなり、

大きいお友達が嘆き悲しみ涙で枕を濡らすことか。

きっと王蟲の怒りより大きな怒りで大地が包まれると思う。


「作品」

の持つ力の大きさと、

作品を作った、制作側の人間と作品はどういった関係にあって、

何か起きた時に「作品」がどのように扱われるべきなのかは、

もっとたくさんの議論がなされることを願っている。

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