正解なんか

正解なんかない

僕たちは何にでも正解があるように思ってやしないか。

学校で教わることは「正解」のあるものがほとんどだった。
合っていればマル。間違っていればバツ。
そしてマルの数がカウントされていき、僕らは評価された。

相まって
僕らの脳は「正解」を求めるように出来ているようだ。
正解らしきものにたどり着くと、快感を覚えたりする。

でもその「正解」とやらは、
恐らくその時その条件での限定的なものであることが
ほとんどではないかと思っている。

例えば
江戸時代は「上様」に従うことが正解であった。
しかし現段階の 日本は違う。
明治維新と、昭和の大戦を経て、
先人たちは上様に従わなくてもよい社会を作ってきた。

例えば
ピタゴラスは「数学は美しいものだ」と言ったそうだ。
当初はそれが正しいと定義した。
しかし数学の研究が進むと「無理数」が発見された。
無理数。終わりなく延々と続く値。
ピタゴラスはこの無理数の存在を否定したり、
隠したと言う話がある。

これが答えだ!と思っても
それは次の瞬間、変わっているかもしれない。

僕たちの住む世界は、
実はそれほど変化に富んだ世界なのではないだろうか。

その変化に直面した時は
脳が180度回転するかのような衝撃がある。
信じていたことが崩されるというのは
それほど衝撃的だ。

僕たちはその衝撃を何度味わうのだろう?

もしかしたら、
味わっただけ、世界が広がるのかもしれない。

変えられることを変えてゆく勇気と
変えられないことを受け入れる力を
そしてそれを区別する感性を持ちたいと思う。


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