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雑文


 僕は僕の知らないことにしか興味がなかった。


 知っていることについて語ることほど無意味なことはないと僕はずっと考えていた。1度食べたものをもう1度食べたいと思うだろうか?1度した射精をもう1度したいと思うだろうか?いや、そんな人間がいるはずはない。僕が言っているのは、「もう1度みかんを食べたいか?」ということを言っているのではない。「1度食べたみかんをもう1度食べたいか?」と問うているのだ。そんな奴いないと僕は断言できる。誰だって新しいみかんを食べ、新しい今日を生きたいと思っているのだ。そして昨日とは違う今日の君とセックスをする。あるいは今日とは違うおかずで明日抜く。そんなふうにして僕らは生きる。僕らはそんな風にしてしか生きていくことができないようにできている。


 僕は自分の知らないことにしか興味がない。たとえば僕は今過酸化マンガンについて語りたい。過酸化マンガンのことについてほとんど何も知らないからだ。「過酸化」という言葉から、過剰に酸化しているのだろうなということはなんとなくわかる。しかしマンガンとなるとお手上げだ。ガンマンとなると少しはわかる。荒野をさすらい、悪を見つけてはその心臓を打ち抜いていく正義の使者。それがガンマンだ。ガンマンが主に登場するのはアメリカ製の西部劇だ。西部劇においては先住民たるインディアンが絶対悪である。彼らは存在しているだけで悪である。にもかかわらず彼らは牧草地にテントを張って鍋で豆を煮るなどということまでしている。最早弁解の余地はない。ガンマンは歯を全部無くしたアルコール中毒者の保安官の依頼を受けてインディアンを根絶やしにするために彼らが住まうテントへと向かう。ガンマンは仕事を決して仕損じない。後には骨も残らない。アメリカ人はそんな内容の西部劇を見て射精する。あるいはコーラを飲む。げひげひ笑ってそして泣く。なきつかれると思いたったように笑って「俺は世界一幸福な人間だ!」と言って射精をはじめる。これらはひどい偏見だけれど、アメリカはGDP世界1位の国なのだから仕方がない。いつだって金持ちは嫉妬され、中傷をうけるものなのだ。しかしいずれにしてもアメリカ人はここでは関係ない。ガンマンも関係ない。僕は元々マンガンについて語りたかったのだ。しかし無関係な事柄についてあれこれと書き散らしてしまったがためにもう僕はマンガンについての興味をなくしてしまった。僕はいつだってこんななのだ。こんな文章しか書くことができないのだ。

 もちろん今はネット社会である。マンガンについて調べるのは簡単である。まずコントロールキーとキーボードのTを同時に押す。すると新しいタブが現れる。検索ボックスに「マンガン」と打ち込む。マンガンで物足りないならウィキペディアを付け足したってかまわない。そしてエンターキーを押せば全ては満ち足りる。世界を浸していた水はみるみるうちにひいていき、邪悪なものは全て消え去った新鮮な大地を君は目にすることができる。鳥を1羽放してみたまえ、きっとオリーブの枝を持ち帰ってくるはずだ。君はマンガンについてわかっていることの実に98パーセントを知ることができる。君はその気になればマンガンについての講演をするだけで一生食っていけるほどの知識を身につけることだってできる。世界中のマンガンマニアの麗しき女性とベッドを共にすることだって可能だ。結婚だってすることが出来るかもしれない。いずれにしても君はわずかの労力を費やすだけでマンガンの大家になることができる。マンガンをとりまくありとあらゆる陰謀と真実を目の当たりにすることができる。マンガンと敵対することも、和解することだって可能だ。それどころか君のことをずっと支え続けてきてくれたマンガンの指先に結婚指輪をはめることだって可能だ。それは許されざる禁忌だけれども僕は目を瞑る。君に広い世界に出ていく覚悟があるのならば。どんなに辛い時でも、青い空を見上げる勇気を忘れないでいてくれると、約束をしてくれるのならば…


 そう、マンガンについて知ることは可能なのだ。しかし僕はマンガンについて調べることはしない。決してしない。なぜか?マンガンについて調べるとマンガンについて知ってしまったことになるからだ。僕はまだ誰も手を触れていない白く輝くマンガンがすきなのだ。もみくちゃにされ、なめられ、なぶられ、咀嚼され、理解という触手に卵管まで犯しつくされたマンガンには芥子粒ほどの興味だって持つことができない。


 僕は自分でも自分のことを残虐で白状な奴だと思う。しかし仕方ないのだ。僕は白い紙くらいには本音をかきつけたいのだ。僕は口先からは嘘の羽衣しか織り出すことができなかった。寒い寒いといって半裸で僕の部屋のドアを叩いてきた少年少女が何人もいた。僕はこっそりと暖房のスイッチをきってから彼らを招き入れる。毛布がたっぷり20人分くらいはしまいこまれている棚の戸には鍵までかけた。僕はすでにブランド物のジャージを脱いでぼろぼろになったシャツとどてらに着替えている。そして彼らを招きいれながらわざとらしく咳をする。かけたコップにお湯を注いで彼らに振舞う。僕は彼らの身の上話をきいてやる。神妙な気持ちになりながら首を縦に振り、心底悲しそうな表情をする。そして一緒に泣く。貧乏のせいで何もしてあげることができない自分のふがいなさに泣く。少年少女は逆に僕を慰める。気持ちだけで嬉しい、ありがとう。心をあたたかくしてくれて、どうもありがとう。僕は彼らを抱擁し、そして彼らにキスをする。彼らは雪の降る道を背筋を真っ直ぐ伸ばして歩いていった。僕は家に帰って、全てを元に戻す。しかしその後に後悔の涙を流す。そう、僕は「何の心配もなくなってから後悔の涙を流す」のだ。そういう奴なのだ。僕という人間は。


 僕は嘘の言葉しか言うことができなかった。だから白い紙には本物を書き付けたい。知っていることについて語るなんてことを僕はしたくない。それをしていると楽しい、と言うのは嘘になる。嘘を書くことは僕はしたくないのだ。


 僕は別に誰も言わないことを言いたいのではない。誰も言わないタブーに切り込みたいとも思わない。だから僕はポリティカル・コレクトネスに反する文章は一切書かない。信念があってそうするのではない。ただひたすらに面倒くさいから書かないだけだ。牛の糞が落ちている場所を迂回するように僕はそこを通ることを避けるのだ。だから僕はアメリカ人や中国人についての偏見は書き散らすが、アゼルバイジャン人やブルキナファソ人についての偏見は書き散らさない。前者は圧倒的な政治力を持っていて、後者は持っていないからだ。理由は本当にただそれだけなのだ。

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