2012年12月5日の雑文


 世界はあまりにも多くの考え方で満ちている。多すぎてどれが正しくて間違っているのか判別することはできないくらいだ。だから人は判断を避ける。始末が悪いのはそういった多くの考え方のうちほとんどはがらくただということだ。

 幅が広い上に底の深いおもちゃ箱があったとする。その箱におもちゃがたっぷりとつめられているとする。その中からいくらでもおもちゃをとっていっていいといわれる。最初は喜んであれこれ手にとってみるが、やがて どれもがらくただということがわかる。10個とっても20個とってもどのおもちゃもがらくただったとき、あなたは果たしてそれ以上おもちゃ箱の中に手を入れようとするだろうか?たとえおもちゃ箱の中にはすばらしいおもちゃがあると「信頼できる人」にいわれたとしても、実際おもちゃ箱からとりだした「無数のがらくた」という証拠が、その人の言葉を打ち消してしまうのである。

 

 やがて子供は「信頼できる人」などいないという苦い教訓を得て、おもちゃ箱の前から立ち去る。あとにはあったかもしれない宝物のつまったおもちゃ箱と、信頼を失った大人が吹きすさぶ風を受けながら残るだけ…

 われわれは大いなる裁判手続きを厳粛にこなす被告人のようなものである。判決を受けるまで「何の」罪にとわれていたかということはわからない。ただそこには手続きと、専門家たちによる複雑な言葉の応酬があるだけだ。罪が確定されればそれ相応の罰を受けなくてはならない。「硬い石」で作られた牢の中で、月の光を毎日あびて罪を浄化していくのである。

 あるいはわれわれは被告人ではなく裁判官や検察官や弁護士であり、木の柵で囲まれた被告人席にたっているのは…

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