見出し画像

「僕と烏との小さな対話」


 今日という1日が終わってしまう。かけがえのない2013年10月22日の(現在すでに12時をまわって日付は変わってしまったけれども)僕という人間が、過ぎ去っていってしまう。どこかへと消え去ってしまう。それはとてもさびしいことなんだ。


 自分という人間を少し上空から眺める透明な自分を想定してみる。「客観的な視点」という小難しい言葉を使ってもいいのだけれどあんまり好きじゃない。にやにや笑って、超然としながら鼻をほじっている僕が、肉体の檻から逃れることができない矮小な僕をあざ笑っている。

「いくらがんばったって無駄だよ」「君は僕じゃない、時間を越えて存在する統一的な人格、それこそが僕という人間なんだ」「君はただの仮面にすぎないんだよ」

 彼は次々と僕にひどい言葉を投げかけ続ける。僕は耳をふさいでその嫌な響きの言葉が僕の体内に滑り込むのをせき止める。だけどいくらやってもだめだ。どれだけふさいでもどこかに隙というものがあって、言葉はどこからか流れ込んできてしまうのだ。


「よりよく生きるためには長期的な視点というやつが必要なんだ…わかるだろう?」

 彼は言う。
「君は目の前のことしか見ちゃいない。今だけの喜び、今だけの悲しみ。そんなちっぽけなものに縛られているんだ。…それがどれくらいちっぽけかって?そうだなあ…図書館から借りてきた古い本を開くと時々現れる小さな小さな虫、あれぐらいちっぽけなのは確実だね。あるいは…足の指の産毛ぐらいちっぽけだね」

 僕は何も答えない。


「そう、君はもう何もしなくていい。君の仕事は終わったんだから。君の仕事はだね、後は部屋の電気を消して、布団に入って、目を閉じて夢の世界に旅立つことだけだよ。そうしたら君は役目を終えて、全てが満たされている安らかな世界で永遠に花や蝶と戯れていることができる。牧歌的だろう?のどかすぎてつまらないというんだったら生きた羊でも解体すればいいさ。なあに気にすることはないさ。どうせ殺したってすぐに生き返るんだから…」

「君はずっとそこにいるというのなら、永遠にこちら側の世界には来ることができないということになるけどそれでもいいのかい?」

僕は負け惜しみのつもりでそう言った。

「僕はいいのさ。安らかな眠りなんてものには興味がないのさ…僕はなんといっても僕だからね。僕から始まって、僕とともに終わる。それでいいのさ。…それから君はさっきから自分のことを「僕」と言っているけれどそれはだめだよ。自分のことを僕と呼んでもいいのはなんといっても僕だけなんだからね」


「じゃあ…じゃあ…(自らのことを指差して言う)…は、自分のことをなんて呼べばいいんだ?」

「すぐにでも去っていってしまう旅人が名を名乗る必要なんてないと思うけどね…。そうだね、しいていうなら烏とでも読べばいいんじゃないのかな?別に理由はないよ。ただ烏が好きだというだけのことさ。昔からね…」

「烏…。こうもりで、いいのか?烏は、自分のことを烏と呼んでもいいのか?」

「まあ、いいんじゃないの?」

「これにだけは答えてよ。”烏”と君が口にした時思いだすのは羽根のある、あの黒い鳥のことじゃなくて、今ここで君と話している烏のことなのかどうかということを」

「どうだろうね…。正直、僕は君のことはすぐに忘れると思うな…。僕にとっては烏は烏さ。鳥のね」

「それじゃあ駄目だ。そんなものは名前じゃない。”烏”と言った時、今ここにいる、この…”烏”のことを思い出してくれないのなら、烏は”烏”の名前じゃない」

「それは僕の問題じゃない。君が解決すべき問題さ」

「…。わかったよ。烏が解決すべき問題なんだな?わかったよ。烏は烏なりにやってみることにするよ。それじゃあおやすみ」

「おやすみ。お疲れ様。ゆっくり休むといいよ」

 烏は電気を消し、寝室へ向かっていった。僕はそれを見送ってから、窓を開けてベランダへ出た。空にはとても数え切れないほどたくさんの星が輝いていた。なんとなく佇んでいると遠くから何かがやってくるのが見えた。それは烏だった。正真正銘鳥の烏だった。僕は烏に問いかける。

「やあ、早速来たんだね。その調子でやるだけやってみるといいよ」

 烏は何も言わず飛び去っていってしまった。ベランダの手すりをよく見ると、烏の糞だけが残されていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?