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2013年9月22日の雑文


 自分の中の混乱と向き合うこと、自分の中の混乱をなだめること。そういう困難を作業をこなしていかなければ、人を感動させる文章を書くことなど出来ない。


 どこかの塔の屋上で、泥を焼き固めて作った鍋で魔女が野菜やら肉やら薬品やらをごった煮にしている。鼻にたっぷりと出来物を作ったその馬糞の匂いのする老婆はところどころ歯の欠けた笑顔を見せながら僕の目の前のテーブルにそのごった煮をたっぷりとよそった皿を置く。スプーンにはもののみごとに黴がびっしりと生えている。魔女は手をすりあわせながらどうせ「召し上がれ」といわんばかりに傍らに控えている。今の僕はこんな気分なのだ。混沌を目の前にして、それをどう扱っていいのかわからずにいる。問題なのは扱い方を間違えれば魔女を怒らせてしまい、その結果醜い豚に魔法で変えられてしまうかもしれないということなのだ…


 混沌…その混沌を構成する数多の物事たち。漫画やゲーム、アニメ、柔道、ラグビー、いじめ、リコーダー、少女のパンツ、誰かの陰茎に突き刺さったピアス、家電製品を万引きする同級生、万引きされまくった結果つぶれてしまったコンビニ、初めて見た無修正のAV、無人島での冒険、世界の片隅の公園での長い長いキス、前を横切る猫、ハックルベリー・フィン、ドン・キホーテ、東京の放浪、バグダッド、イブン・ファドラーン、フローベール、ゲーテ、ナボコフ、ヘンリーミラー、元讃岐守の下屋敷であった自然植物園、横浜、下北沢、三軒茶屋、渋谷、新宿中央公園、竜…様々なものが僕の頭の中には流れ込んでくる。どれでもいいから僕はひとつとってじっくりと眺めてみようとする。しかしそのグロテスクなでこぼこに満ちた表面を見ていると僕はどうしよもないほどの吐き気に襲われてしまうのだ。これが僕なのか?混沌であると同時に無味乾燥で、秩序だっているように見せかけて中身は全くのでたらめで、あるところがひどくかさかさな一方でまたあるところはひどくじゅくじゅくしているのだ。僕はそれを本当にどう扱っていいのかわからないのだ。わからないけれどそれを捨てるわけにもいかず、結局前と同じところにしまいこむ。そうこうしている間にも新たな「それ」が増えていくから僕はもうその重圧に耐え切れずに今にも道半ばにして押しつぶされそうになっている。人生とは重き荷を負って長き道を行くがごとし。まったくもってそのとおりだ…


 文章文章文章!ああ、もっとこれをスマートに書くことはできないものだろうか?なんだって僕の文章はこんなにも感情で満ちているのか?僕はもっと宝石のような、お能のような乾いた美しさに満ちた文章というものを書きたいんだ!今現在の文章がフローベールやヘンリーミラーの影響を受けているのは明らかだ。しかしそれらの本を読むのをやめればこの問題が解決するわけではないというのは明らかだ。誰かの小説を読んだくらいで影響を受けるのはまだ文体が固まっていないからだ。文体というものは様々な小説や文章の中をくぐりぬけて少しずつ固めていくべきものだ。また文体も固まっていないのに文章から逃げるのは大人になっていないのに試練から逃げるようなものだ。僕はなんとしてでもこの困難をくぐりぬけなくてはいけないのだ!ああ!なんて無個性な、文章なんだろう!これじゃ全くフローベールの猿真似じゃないか…しかもフローベールの作品の内評価を受けたのはこういう熱情的な部分が余すことなく発揮された書簡じゃない。それらを完全に押さえ込んだボヴァリー夫人の方なのだ。そりゃ書簡も人気だったが、それはあくまで「書簡」として人気だったにすぎない…ウェルテルの悩みとは、明らかに違うのだ…

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