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いくつかの短編小説


○鼠

「空を飛びたい」と荒野の鼠が呟いた。それを聞きつけた太陽が条件を1つつきつけた。

「汝の最も大切なものを差し出せ」

鼠は悩んだあげく、年老いてからようやく授かった自らの赤子を差し出した。赤子はふわふわと空中に浮いていき、やがて太陽に飲み込まれて焼けて死んだ。すると上空から雲の塊がやってきた。手で触れてみると頑丈なことがわかった。意気揚々とその雲に乗り込み、鼠は「飛び立て」と呟いた。しかし雲は動かなかった。見ると鼠の妻がしっかりと雲をつかんでいた。だから飛び立つことができないでいたのだ。妻は言った。

「空へ行ってもよいが、心は置いていけ」

妻はそういうと鼠の胸に腕をつきいれて、心臓を取り出した。鼠は雲の上に倒れこみ、妻は手を離した。すると雲はふわふわと上空へ向かって飛んでいった。太陽に近づいても、雲に守られている鼠の死骸は焼かれることはなかった。


今でも空のどこかには、鼠を乗せた雲が浮かんでいるのだという。


○ゴミ箱

 信号が青になるのを待っていると見知らぬ男から声をかけられた。男はくちゃくちゃとガムをかんでいる。

「ゴミ箱を1つ売ってもらえませんか?」

 僕は警戒しつつ答える。

「申し訳ありませんが、持っていないので売ることができません」

 男は目を見開き、心底驚いたような表情で言った。開いた口の中から唾液で濡れたガムが顔をのぞかせた。そのことが僕をいたく不快にさせた。

「何を言っているんです。あるではないですか。そこに」

 と、男は僕の胸ポケットを指差した。

「これは胸ポケットであって、ゴミ箱ではありません」

「あなたの気持ちなんて関係ない。捨てようと思えばゴミなんてものはどこにでも捨てられるものです。いわば我々はゴミ箱にゴミを捨てるのではなく、ゴミを捨てた場所がゴミ箱になるのです。おわかりですか?」


 僕はもう相手にするのをやめようと思った。信号はまだ青にはなっていなかった。僕は彼から目をそらし、できるだけ遠くに離れていった。しかし男はぴったりとついてきて離れなかった。

「84万あげますよ。それでもダメですか?」

 彼はいいながら封筒を自らのポケットから取り出した。中の札束を出し、わざわざ広げてみせ、それが本物であるということをわざわざ僕に確認させた。僕は思わずその札束に見入ってしまった。


「あなたの胸ポケットにゴミを捨てさせてくれるだけで、このお金があなたの物になるのです。いかがです?」

「ゴミといってもね、何をそんなに捨てたいというのです」

 男はポケットから銀色の小さな玉のようなものを取り出した。しかしそれは実際には玉ではなく、丸めた銀紙であった。男は広げてみせた銀紙の上に自分の噛んでいたガムを吐き出した。そしてその銀紙でガムを包んでみせた。強く握りすぎたせいが、銀紙はところどころ裂けて、そこからガムが気色の悪い虫のように飛び出していた。

「これですよ。これを胸ポケットにおさめるだけで84万。安いと思いますがね」

 僕は悩んだ。信号はまだ青にならない。考えた末にこう言った。

「先にお金を渡してくれるのならいいですよ」

「それはダメですよ。お金を渡してすぐに逃げられてしまったら大損ですからね。きちんと捨てさせてもらってからでないと、お金を渡すことはできませんよ」

「それならこちらだって事情は同じですよ。ゴミを胸ポケットにおさめた後であなたが逃げ出してしまったとしたらこんなに不快なことはないですよ」


「お話を聞かせてもらっていたんですがね……」

 僕達よりも道路に近い場所に立っていたスーツを着ていた男が急に振り返って言った。

「実は私は公証役場に勤めているんです。つまり、人々がきちんと約束を果たすかどうか監督する仕事をしているわけです。いかがです。あなた方の契約を私に監督させてみては?どちらかが約束を果たさずに逃げ出すことのないよう、見届けてあげますよ」

「これは面白いことになってきたぞ。私はかまいませんよ」

  最初に話しかけてきた男はそういって笑った。
 僕は考えた末に言った。

「しかし無料でやってくれるというわけでもないんでしょう」

「いえそのことでしたら」

 と、公証人はかばんをあけて何かを取り出した。それは空になったペットボトルだった。
 
「これをあなたのゴミ箱となった胸ポケットに捨てさせてもらえたらそれでいいですよ。この街ゴミ箱が全然なくてね。捨てられなくて困っていたんですよ」


  僕は考えこんでしまった。まだ当分信号は青になりそうもない。


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