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小説「老人」


 僕は死にたくない。でも生きていたくもない。


…と少年が言った。


 町外れの公園に少年はいた。もう夕方で、影は巨人のように長く伸びていた。骨と皮だけの、身長だけがやけに高い巨人。貧弱で真っ黒な不気味な巨人。それが少年の影だった。少年はなんとなしに地面を蹴り上げた。たまたまつま先に当たった小石が大きく飛んで、近くを歩いていた老人の頭に命中した。老人は振り返り、にやりと笑ってこう言った。


「やっと君もこちらの世界へ来てくれたのか。待っていたんだよ」


 少年は戸惑いながらも頭を下げて謝った。

「ごめんなさい、悪気はなかったんです」

「何を言っている。僕と君との仲じゃないか」

「あの…僕たちは今日初めて会ったと思うんですが…」

「?そうかな?そんなはずはないと思うんだがね。僕は確かに会って話をしたはずだよ。君の影とね」

「僕の影?」

「そうだよ。ごらん。街をどんどん闇が侵食していくね。陽が完全に落ちて夜になってしまえば影は体から解放される。影は好き勝手に歩き回って飲めや歌えやの大騒ぎを繰り広げるのさ…」

「そんな話は始めて知りました」

「当たり前じゃないか。影は自分からはそんなこと言わないさ。元の体にそんなこと知られたらどんなお仕置きをされるかわからないからね」

「僕はそんなことしないですよ…。でもあなたはどうしてそんなことを教えてくれたんですか?」

「友達だからに決まってるじゃないか…」


 少年はどうも話をはぐらかされているようだな、と思った。それに老人はさっきからずっとにっこりと笑っていてとても不気味だった。ただ笑っているのではなく、それが蝋人形の笑顔のように不自然なのだ。体のあちこちに走っている笑い皺はどちらかというと傷に見えた。少年はもうこの老人と話していたくないと強く思った。


「あの、そろそろ僕は帰ります。お母さんが心配しちゃうから」

 少年は返事もきかずに駆け出した。公園を出て通りをいくと大きめの道路に出る。少年は横断歩道のボタンを押してはやく赤が青に変わるのを待つ。少年ははやくはやく変われと心の中で呟き続けた。老人が今にも追ってこないか、気が気でなかったのだ。


 気の遠くなるような時間の後にようやく青になった。少年は駆け出した。1つ2つと角を曲がり、ペットショップの前を通り、どぶ川のそばを抜け、後1つ角を曲がればもう自分の家だ、という地点まで来た。少年はそのあたりで速度を緩めて少し息を整えた。公園からは随分離れてきた。あの老人も走るのは苦手そうだった。もうこれで大丈夫だろうと心の中で考えながら角を曲がって一番最初に目に飛び込んできたのがあの老人が手を後ろに組んで立ってにっこりと笑っている光景だった。少年は驚きのあまりその場にしりもちをついてしまった。

「やあ、大丈夫?」

 と老人は言いながら手を伸ばした。少年はその手から逃れるように座り込んだまま後ずさりした。老人は少年の気持ちを無視するように一歩大きく前に出て少年の手首をむんずとつかんで無理やり引き立たせた。手首をつかんだままで老人はぱんぱんと少年の尻を叩いて砂を払ってやった。しかしそれが終わっても老人は決して少年の手を離さなかった。老人は少年の耳元に口を近づけ、こう囁いた。


「君のお父さんとお母さんを信じてはいけないよ」


 そう言われた時真っ先に少年が思ったのは、「いつのまにかもう真っ暗だな」ということだった。確かに月と一番星が出ていて、角のところの電灯もすでについていて、もう完全に夜だった。

「ほらごらん、もう君の影はどこかへ行ってしまったよ」


 闇が十分に広がったせいで、少年の影は見えなくなってしまっていた。


「じゃあまた今夜」と言って老人は去ろうとした。すると少年は自分の体が引かれるのを感じた。老人はいまだに手首を握ったままだったのだ。

「ちょ、ちょっと」

「ああごめんごめん。君の手を離すのを忘れていたよ。ごめんね、忘れっぽくて。なんといってももう僕は80歳だからね。仕方ないね」

 老人は少年の手を離し、どこかへと去ってしまった。

 少年はしばらくそこに立ち尽くしてから、あちこちにある光を避けるようにして家までゆっくりと歩いていった。


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