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教えることを教えられる

今年から、人にものを教える、先生もどきのような仕事をやりはじめたのだが、これがなかなかむつかしいのだ。なにがって、生徒である人たちの質問が多岐に渡っていて、自分の知識でカバーできないのだ。授業を1時間やれば、必ず先生である自分の知らない、答えられない質問が、必ず1個は飛んでくる。

最初のころは、教える側の自負というか、率直にいうと質問に答えられないことをはずかしく思っていた。それで、自分の知らないことを授業中に聞かれたらどうしよう、いやだな、という気持ちがあったのだが、最近はさすがに慣れてきたというか、半分開き直っている。

当たり前のことだが、先生という立場になったからといって、急に全知全能の存在になるわけではないのだ。講義という場では、生徒はもちろん、先生のほうも自分の無知にいろいろと気づいている。教える側に立ってみて、自分が今までものを教わってきた、学校の先生たちだって、知らないことがいっぱいあって、授業中に生徒からそういう、自分の知らないことをばしばし質問されていたんだな、ということがわかる。

必要なのは、そこで先生というポジションを演じることでなく、自分も一緒に学ぶことなのでは、と思っている。わからないことが出たとき、先生というポジションを一時的に降りて、自分も生徒として、わからないことを一緒に模索する。

授業中に、わたしは先生と生徒というポジションをぐるぐると行ったり来たりしている。それで、授業が終われば先生としてのスキルと、生徒としてのスキルが両方向上している。生徒さんにしても同様で、私が生徒というポジションにいるとき、逆にわたしにものを教えてくれる、先生のポジションにたつことも多々あるのだ。

生徒として授業に参加したとしても、その途中で先生のポジション立ったり、また生徒のポジションに戻ったり、1時間のあいだになんどもその立場を変えているのだ、誰もが。ぐるぐるぐるぐる、ものを教える側と教えられる側のポジションを行ったり来たりして、何かを学ぶものなのだ。

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