ゔぃしおn

『Vision』生命は別れ、交わり、塊となる。

ハリウッド映画が、レストランでおいしく、安全に調理された料理だとすると、河瀬直美の映画は、屠られたばかりの獣の、血のしたたる肉の塊だ。生臭く、人によっては食中毒を起こす。

奈良、吉野。悠久のときが流れる生命の森。都市の暮らしに疲れて、山守として過ごす智(永瀬正敏)は、このところ、森の様子に違和感を感じるようになった。木々のざわめきや光の具合、空気が、どことなくおかしい。同じく森に暮らす老婆、アキ(夏木マリ)は、智に言う。「森の様子がおかしいのは、千年にいちどの時が迫っているからだ」と。智には、それがなにを示しているのかわからない。

風にざわめく木々と、その間を縫って差し込む光。川を満たす清らかな水。風景のワンカットワンカットに息を飲む。静謐で美しい自然。しかし、それは生命を育むところでもあり、同時に命が奪われるおそろしい場所でもある。いったん堰がきられれば、自然は動物の命などたやすく奪ってしまう。そして、人間も自然のおこぼれをもらうように動物の生命を奪い、食い、やがて死んで森の一部となる。

ときをおなじくして、フランスから吉野の森を訪れた女性がいる。ジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)は、「人類のあらゆる精神的な苦痛を取り去ることができる」薬草、“ビジョン”を探しに来たのだった。めぐりあうジャンヌと森の人々。「あんただったんだね」。アキはビジョンの千年ぶりの出現をジャンヌに予告した。いまだ生まれざる、あるいはすでに生をおえた命たちが渾然一体となって蠢く、巨大な塊が、森だ。涙がジャンヌの頬を伝って流れ落ちる。森から切り取られたほんの一片が人間の形をなし、犬の形をなし、鹿の形をなす。しかしそれらがそれらのかたちをしているのは、たかだか数十年の、ほんの短い時間だけだ。ジャンヌの昔の恋人、岳(森山未來)は、森で命を落とした。生物は、生まれる前は森の一部であったし、短い生を経て、また森の一部へと還ってゆく。

河瀬は、非常に乱暴な作家である。物語を説明しない。河瀬のひらめきによって想起されたイメージの塊を、力技でつなげたような映画だ。役者に芝居をつけることもしない。永瀬正敏とビノシュ、夏木マリのそれぞれの芝居のあいだには、まるで別々の映画に出演しているかのような空気の違いがある。このあたり、非常に好き嫌いが分かれる。私の周りにも、「河瀬映画は生理的にムリ」という人もいる。私も、河瀬映画をまるごと好きなわけではない。河瀬は私の母校の偉大な先輩だが、その勝手気ままさに、嫌悪を覚える部分もある。うらやましい、という気持ちもある。

しかし、河瀬の映画は強い。そういう反感をもってしても、否定し難い強さと美しさがある。学生時代を通じて教えを乞うた、とある映画監督に、私はことあるごと「理屈で作品をつくるな」と言われた。先生は、自身のゼミの卒業生のなかで、最も理屈に頼らない、内面の感覚を信じて作品をつくっていたのは、河瀬だったと、私に教えてくれた。自分を信じて作品の奔流を受け止めること。さきほどの永瀬正敏とビノシュ、夏木マリの芝居の不整合にしても、それぞれが自分のやりたい演技を、奔放に展開していくことを、河瀬が全力で受けとめたからだ。それはハイリスクで度胸が必要だが、各人の特長を最も発揮させる手段でもある。実際、個々人の演技はすばらしい。監督の自信と強さなくしてこういう映画は撮れない。

そして森のなかでビジョンの再来をつげる森山未來のダンスに目を奪われた。木立をくぐる風の動きのしなやかさ、地面の底から湧き上がってくる力強い胎動が、森山の身体を使って表現される。でも、それはけして特別なことではない。もともとはそうだったのだ。人間はもともと森の一部だった。森山、永瀬、ビノシュ、夏木、そして河瀬、それぞれが個体として奔放に振舞いながら、やがてひとつ生命の塊となって、ビジョンが、映画が、吉野のふかい森のなかに顕現する。


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