ひなぎく

『ひなぎく』 女の子映画の決定版

最新の3DCGに、クリアな音響、カメラの性能も日々向上し、映画はどんどん進化してゆきます。名作とされる昔の映画を観て、なんだかチープだなあ…と拍子抜けした経験もあるかと思います。しかしながら、まれに、どんなに時代が変わろうともその輝きを失わない作品が存在するのです。『ローマの休日』を最新の機材で撮り直したら、あるいは『2001年宇宙の旅』を3DCGでリメイクしたらどうなるか。本家を超えることができるでしょうか。映画の歴史のなかで、ごく僅かな作品が、極北へとゆきついている。本日紹介する『ひなぎく』という映画も、そういう作品だと私は思います。

『ひなぎく』は1966年にチェコスロバキアのヴェラ・ヒティロヴァ監督によって制作された映画です。50年前のチェコスロバキアの映画? なんとまあマイナーな…と思われるかもしれませんが、じつに熱烈なファンの多い作品です。小泉今日子やマンガ家の岡崎京子がこの作品に対する愛を公言しています。観たことはなくても名前を聞いたことのある映画ファンも多いのではないでしょうか。私もそのひとりだったのですが、先日大阪のシネ・ヌーヴォにてリバイバル上映があり、はじめて鑑賞しました。

この映画のキャッチフレーズは「60年代女の子映画の決定版」。その言葉に違わず、おしゃれな服を着た女の子ふたりが大活躍する映画です。私はアパレル関係の仕事をしている妻とふたりで観に行ったのですが、「女の子のファッションを見ているだけで楽しい」とのこと。また、焼付によって色を変えたり、フィルムを継ぎはぎして切り絵のように使ったりと、おしゃれな演出が多々あります。ひなぎくの咲く野原をかけまわるふたりの女の子はたしかに可愛らしい。

しかし、です。「マリエ1」「マリエ2」という不思議な名前をつけられたふたりの女子、かなりのワルです。彼女たちは映画の冒頭で「好き勝手に生きる」と宣言します。そして下心をもって寄ってきたおじさんたちを何人もたぶらかし、彼らのカネで暴飲暴食を繰り返します。そして、自業自得なのですが、おじさんたちはどんどんポイ捨てされます。彼女たちは、おじさんをポイ捨てして、「クヒヒヒヒ」と二人で笑い合うのです。さらにコンサートに乗り込んで、他人のテーブルに乗ったり、演奏を妨害したりしたのち、またもや「クヒヒヒヒ」と笑って逃げてゆきます。

はたまたパーティーがはじまる前の会場に潜入し、例の「クヒヒヒヒ」という笑い声をあげながら、料理を手づかみでむしゃぶり食らい、飲み散らかしたワインのグラスをバリバリ割ります。そしてお互いの体にケーキをぶつけ合って遊びます。さらに、生クリームでどろどろになった体にカーテンをまきつけ、ランウェイに見立てた長テーブルのうえで、食べ物をぐちゃぐぐちゃに踏み潰しながらファッションショーごっこに興じます。

ストーリーというのは別段ありません。ただおしゃれな女の子が悪いことをする映画です。しかし、「あー、また悪いことしてるよ…」と思いながら、彼女たちの悪行をみていると不思議に爽快な気分になってきます「クヒヒヒヒ」という笑い声を聞きたくなってくるのです。よし、もっと悪いことをやれ、いいぞ、と、いつの間にか悪いことを期待している自分がいました。

彼女たちの悪行が、なぜ胸をすくような爽快感に満ちているのか、それは彼女たちが圧倒的に自由奔放だからです。私達はなにかとルールの多い社会に生きており、やりたくてもやれないことがたくさんあります。まあ、食べ物をぐちゃぐちゃに踏み潰したいわけではないのですが、マリエ1、マリエ2のふたりは、私たちが日頃やりたいと思っているけどやれない何かを代わりにやっているのです。徹底的に自由な女の子たちを撮る、という監督のヴェラ・ヒティロヴァ監督のこだわりが伝わってきます。

しかもヴェラ・ヒティロヴァが映像にしたのは、「自由は美しい」とか「自由は平和への道だ」とかいったきれいごとではなく、「どのようになっても自分の道は自分で決めてゆきたい」という強い意思のように感じます。政治や社会背景を映画に持ち込むことには慎重であるべきですが、チェコスロバキアは第二次世界大戦後すぐにソビエト連邦の衛星国となり、絶えず圧力を受け続けてきました。共産主義の政治のなかで次第に国力が停滞し、不満の声があがります。それが爆発したのが1968年の春。改革派が検閲制度を廃止して言論の自由を保障するなど、民主化・自由化への転換がはじまったのです。しかし、この「プラハの春」は非常に短命に終わりました。その年の夏にはソ連の軍事侵攻によって鎮圧されてしまったのです。

『ひなぎく』が制作されたのは「プラハの春」の2年前、まさに人々が自由に飢えていたときでした。おそらく現代の日本よりもかなり不自由な生活を送っていた60年代のチェコスロバキアの人々の自由への渇望が、『ひなぎく』という映画に刻まれている。だからマリエ1とマリエ2の悪行は見ていてスカッとするのです。そして、その熱量があって、この映画は極北へとたどりついたんだと思います。

余談ですが、映画史にとっても1968年は特別な年として記憶されています。第21回カンヌ国際映画祭の会場に、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、クロード・ルルーシュといったヌーヴェルヴァーグの映画監督たちが乗り込みました。彼らはカーテンにつかまるといった妨害行為を行い、この年の映画祭は会期の途中で中止を余儀なくされます。この「カンヌ国際映画祭粉砕事件」もまた、既存の制度に反発を覚え、自由を求めた若い映画監督たちによって起こされたものでした。

閑話休題、『ひなぎく』の話に戻ります。上記のようにこの映画は女の子の自由奔放な悪行を楽しむ映画なのですが、興味深いことに、ときおりものすごく寂しいシーンが挿入されます。農園へと出かけたマリエ1とマリエ2は、いつものように農夫のおじさんを誘惑するのですが、おじさんはふたりの誘いに乗るどころか、彼女たちの存在にも気づきもしません。その後、自転車に乗った沢山の人々が、彼女たちをまるで石ころかなにかのように避けながら走り去ってゆきます。彼女たちは言います。

「誰もわたしたちに気がつかない」

「どうして?」

「わたしたちはいないのかしら」

そして、様々なハチャメチャ騒ぎののち、あまりにもあっけなくこの映画は幕を閉じるのです。彼女たちは、自宅では退屈そうにベッドでごろごろしながらいたずら電話をしたり、ハサミで雑誌を切り抜いたりするだけで、悪いことをする以外に特にやることがない。彼女たちは叫びます。

「わたしたちは生きているのよ。生きている!生きている!」

絶対的に自由であるが、空っぽの彼女たち。ここには、自由というものに対する憧れと同時に、恐れが語られているようにも感じます。やりたいことがない人間が、いきなり自由に、なんでも好きなことをしてもいいんだよ、と言われても困ってしまいます。また、自己責任とはいえ、好き勝手やった結果、手のつけられないほどに物事が悪化してしまう、という危険もあります。自由が欲しい、でも、どこまでも自由であるのって、本当は恐ろしいことでもあるんじゃないか。そういう問いが、彼女たちの破天荒な行動の間に挟み込まれている。おしゃれな女の子の悪ふざけにスカッとしつつ、ふとしたときに少しの寂しさや不安が頭をもたげる。『ひなぎく』はそういう映画でした。

レンタルDVD店ではめったにお目にかかることはなく、DVDを購入するか、リバイバル上映を待つしかない『ひなぎく』ですが、もし機会があればぜひご覧になってください。2014年に渋谷で上映された際には、チケットを手に入れるために数時間待ちの行列ができたと聞きました。いろいろ書きましたが、「クヒヒヒヒ」と笑うマリエ1とマリエ2のハチャメチャな悪行を存分に楽しんでください。最後に劇中で彼女たちが語る素敵な台詞をご紹介します。

「男は“愛してる”って言うかわりに、どうして“卵”って言えないの?」

write by 鰯崎 友


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