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『旅のおわり世界のはじまり』いかにして彼女は呪いの言葉を捨てて歌うようになったか。

前田敦子演じる葉子は、TV番組のレポーター。シルクロードの国、ウズベキスタンにいる。「世界ふしぎ発見!」のような内容なのだが、低予算番組で、湖で怪魚を追ったり、地元の古い遊園地の紹介をしたり、お世辞にも面白い番組にはなりそうにない。ディレクターほか撮影クルーたちも、やる気はなくはないのだが、楽しんでロケをしている雰囲気ではない。自分の仕事はきっちりこなすが、それ以上でも以下でもない。

葉子にしても、そうだ。彼女にできるのは、カメラが回ったら、ありきたりのリアクションで、驚いたり笑ったりすること。葉子は本当は舞台で歌いたいのだが、目先の生活のためにTVの仕事をしている。駆け出しだから、扱いはぞんざいである。食レポでは、時間がなくてまだ炊けていないコメを美味しそうに食べなければならない。絶叫マシンに何度も乗せられて、嘔吐してしまう。女性差別的な扱いもある。

ディレクターは、仕事だから当然、といった顔で葉子を見守るばかりだし、他のスタッフも、心配はするものの、TVのロケは厳しくて当然、と思っているので、それ以上のことはしない。自分たちだって過酷な状況にいるからだ。シルクロードの乾いた美しい風景のなかで、つまらなそうに仕事をする日本人たち。海外ロケにも飽きているので、休息時間に観光などしない。

葉子にしても、ベッドと食べ物さえあればいいのだ。仕事で来ているのだから、それ以上は必要ない。ロケが終わり、ホテルから、カタコトの英語でバスに乗り、食べ物が買えそうなバザーに向かう。言葉が分からないから、親切に道を教えてくれる現地の人にも「ノーサンキュー、アイキャントアンダスタンド」の一点ばりである。バザーに到着しても、葉子の探す食料は、パンやミネラルウォーターなどの、自分の今まで食べてきたものばかり。

ロケ中に、おばさんから地元の料理をもらったのだけど、ホテルの机にほったらかしである。だれに会っても、アイキャントアンダスタンド、アイキャントアンダスタンド、アイキャントアンダスタンド…… そう、彼女は分からない。他人のことが、そして自分のことが。自分がなぜこの国でこのような仕事をしているのか、お金のためなのか、自分の夢につながるステップになり得ているのか、わからない、歌うことがなぜカメラの前で話すことと違うのか、そもそも自分が歌えるのか、歌う資格があるのか、資格とはなにか、バザーを徘徊しながら、葉子の頭の中の片隅には、つねにそんな思いが渦巻いていて、やっとのことで買ったパンは、スカスカでとても食べられる代物ではなかった。宿に戻った葉子は、パンを捨て、机の上の地元料理を頬張る。

眼の前には他者がいる。生い立ちも教育も、文化もまったくちがう異国の他者がいる。しかし葉子は彼ら彼女らとかかわることができない。自分が何者でもないからだ。自己紹介ができない。TVのレポーターとしてここにいるが、それ以外のことは、自分で自分のことがなにも分からない。他者と話すには、自分が何者かを相手に開示しなければならないのだ。アイキャントアンダスタンドというのは、己が見えなくなった者が発する呪いの言葉である。

ロケは行き詰まっていた。番組の目玉になるような怪魚はいっこうに現れず、ほかにネタもない。ディレクターは途方に暮れて、スタッフたちにアイデアを募る。葉子がおもむろに口を開く。

「ヤギを檻から放ちたい」

バザーの帰り道、葉子は一頭のヤギを見た。都会の片隅の小さな檻に、窮屈そうに閉じ込められている哀れなヤギ。そのヤギをカザフスタンの自然のなかに戻そうというのだ。ほかにネタもないので、とりあえずやってみよう、という話になった。持ち主を探し出し、金を払ってヤギを引き取る。そして、トラックでステップまで連れて行って、ヤギを放つ。ヤギは自分に何が起こったのか理解しておらず、草をはむのみである。葉子ほか撮影クルーも、自分たちが何をしているのか、よくわからない。

しかし、あとから振り返れば、これは、その後の葉子の変容の予兆めいた出来事だったのだ。これ以降、葉子の心持ちがゆっくりと変わってゆく様子が、じわりじわりと描かれてゆく。このあたり、この映画の監督の黒沢清の面目躍如といった脚本である。この監督は、昔から、小さな、一見なんでもない出来事をきっかけに、なにかが変わってゆく様子を描くことがとてもうまい。このあと、いろいろあって、人に会ってもアイキャントアンダスタンドで済まさずに、少しだけコミュニケーションを取る意欲が出てくる。葉子は歌う。ウズベキスタンの異国の風のなかに、自分の声を乗せて歌う。彼女はいまだ、自分のことが分からない。しかし、この旅の終わりには、もしかしたら、気づくのかも知れない。いかにして彼女は呪いの言葉を捨てて歌うようになったか。

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