(池松さんはジョブズみたいないかにも業界っぽい服を着ていた!)『はじめてのnote+SNSの始め方・トークイベント+ワークショップ+交流会@大阪』

先週は池松さん主催の『はじめてのnote+SNSの始め方・トークイベント+ワークショップ+交流会@大阪』に参加しました。


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(しゃべる池松さんはジョブズみたいないかにも業界っぽい服を着ていた!)

note 関連のイベントに顔を出すのは2回目ですが、「note サイコー!」みたいなテンションでもなく、「いかに儲けるか」みたいな堅苦しいものでもなく、ちょうどよい温度感。

note で何かを創作することの楽しさを、押しつけてこない。適度な距離感。

ちょっとむつかしいことも、たわいもない雑談も、創作することの楽しさも、つらさも、ちょっとだけ分かち合って、お酒飲んで、お菓子食べて帰る。

メディアのうんちゃらかんちゃら、みたいなtheオフ会的な話をしたあとに、きのこの山と、たけのこの里、どっちがおいしいか、という高尚な問題を語れるオトナの友達がたくさんできます。そこが楽しい。

ちなみに、メディアのうんちゃらかんちゃらという話は、イベントが終わるとすぐに忘れてしまう。でもきのこの山とたけのこの里の話は、克明に覚えている。そういうものなんだ。人間の脳は。

noteはあくまでもツール。noteを日々運営してくださっている方々への感謝はもちろんあるけど、note信者みたいになってはいけない。創作することは、創作することへの意思は、それを入れる器があろうがなかろうが、その器が土でできていようがガラスでできていようが、関係ない。

作ることは、生きることの延長線上に存在して、どんな見返りがなくてもそれを続けざる得ない、一種の病のようにも見える。その病にかかった人々が、その病の痕跡を、たまたまnoteに残す。

病というのは、生きている人間にこそ存在する。死んだ人間は病にかかることすらできない。生きようとする意志が、痛みを呼び起こす。自分の書いた記事のPVが著しく低かったり、スキがぜんぜんつかなかったりするときに感じる痛みのことだ。

そういう痛みを感じるのは、何かを作れる人の特権で、何かを作ることのできる人が支払わなければいけないリスクでもある。何かを作ることの能力が人生にプラスになっているか、マイナスになっているかはわからないけど、それはプラスとかマイナスとかを考える類の事象ではなく、ただ、作るという病がそこにあるだけかもしれない。

ちなみに、ぼくは圧倒的にたけのこの里を支持します。表面の粉っぽい感じがたまらない。きのこの山は、つやつやしている。つやつやしているようではまだたけのこには及ばないかと思っている。ではまた。近いうちにお会いしましょう!

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