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宮城事件とある歴史学者–––平泉澄の敗戦

毎年、この八月になると大東亜(太平洋)戦争に関する書籍が出版されたりテレビ番組が放送されたりします。それらの多く、特にテレビのドキュメンタリーなどは悲惨な色を帯びた暗いものになりがちです。膨大な犠牲者を出し、その結果敗戦という結末に至った以上、やむをえないことでしょう。

ではその七十五年前の八月十五日、宮城(皇居)で起きたクーデター未遂事件についてはご存知でしょうか。こちらも、ノンフィクション作家の半藤一利氏が書いた『日本のいちばん長い日』(文春文庫)や同作の映画化などでご存知の方は多いでしょう。ここでは、「宮城事件」と呼ばれるこの事件の思想的な背景の一つとなった、東京帝国大学文学部国史学科教授の平泉澄の同事件との関係について若干の考察を述べてゆきたいと思います。

※以下、引用文は〈〉、会話文の引用は「」でくくり、旧漢字は現代のものに改めました。また、筆者文中の引用文は会話であるなしに関係なく、「」でくくりました。誤字脱字など、ご寛容のほどを。

宮城事件の概要

まず、「宮城事件」について。この事件は、陸軍省軍務局の若手将校らを首謀者とする、ポツダム宣言受諾に反対するクーデター未遂事件です。彼らはポツダム宣言を受け入れては「国体護持」はできないと主張し、近衛師団の一部を、偽造した師団長命令で動かし一時宮城を占拠します。当初は近衛師団長の森赳中将を説得して仲間に引き込むつもりでしたが、焦った首謀者の一部が師団長を殺害してしまい、結局偽命令を出すことで部隊を動かしました。

しかし、宮城を占拠して一部閣僚を監禁したはいいものの、東京を管轄する東部軍は彼らの説得を拒否、占拠部隊も東部軍司令官である田中静壱大将自らが宮城に乗り込み、説得によって鎮圧します。首謀者たちはあるいは逃げて抵抗を続け、あるいは拘束され、そしてあるいは宮城二重橋前で自らの命を断ちました。田中大将はその後八月二十六日に発生した川口放送局占拠事件を鎮圧した後、拳銃によって自決しました。

「終戦」へと向かう混乱の中で突発した「宮城を占拠する」という大事件でしたが、自決者を除いて直接殺害されたのは森師団長と同席した師団長の義弟白石通教中佐の二人に留まりました。事件が長引き、また首謀者らに同調する部隊が増えれば、終戦はもっと遅れ、悲惨な本土での戦闘が行われたかもしれません。そういう意味で、この事件を早々に収束させた田中軍司令官の功績は大きいと言えます。

そして、事件の首謀者である畑中健二少佐、椎崎二郎中佐、間接的ながらも関与した井田正孝(戦後岩田に復姓)中佐らが私淑した人物こそ、歴史学者の平泉澄だったのです。


「皇国史観」の代表者

事件の首謀者の一人、畑中健二少佐が平泉澄の自宅を訪ねたのは、昭和二十年八月十一日夜のことでした。しかし平泉との話し合いはうまくゆかず、井田中佐に対して愚痴をこぼしました。

「平泉先生にはがっかりした。ただ『自重してください』の言葉を繰り返されるだけでまったく頼りにならない。先生を見損なった」(岩田正孝「未遂に終わった斬り込み計画」、以降岩田手記)

これを聞いた井田中佐は、平泉の真意を聞き出すべく翌十二日夜に平泉の自宅を訪ねます。平泉は無人の家に蚊帳を吊って休んでいましたが、井田に対してはやはり「自重してください」の一点張りで、井田中佐は失望します

〈未曾有の国難に立ち向かう気迫は片鱗すら窺うことはできなかった〉(岩田手記)

しかし、なぜ数日後にクーデターを起こす陸軍の若手将校二人が、「未曾有の国難」に際して軍人でもない一歴史学者を訪ねたのでしょうか。前述の通り、平泉は東京帝国大学で国史(日本中世史)を講ずる歴史学者の一人でありました。彼の実家は「平泉寺白山神社」という福井県勝山市にある歴史ある神社です。いわば、名門の生まれといっていいでしょう。大正七年に東京帝国大学の国史学科を主席で卒業し、「恩賜の銀時計」を受けたほどの秀才でした。以後、彼は歴史学者としての道を歩きます。

平泉は助教授時代の昭和七年十二月五日、昭和天皇に「御進講」を行います。題目は「楠木正成の功績」というもので、時間は一時間、場合によっては多少延びてもよい、というものでした(平泉澄『悲劇縱走』)。

この御進講については、陪聴した木戸幸一が日記にその感想を記しています。

〈午後二時より平泉澄博士の楠正成の功績に関する御進講あり、陪聴す。後醍醐天皇の建武中興の大抱負、正成の義の為に一族を滅して悔ひざる誠忠、感銘深く陪聴した〉(木戸幸一『木戸幸一日記 上巻』)

日記の記録からわかる通り、御進講は後醍醐天皇の「建武の中興」をほめたたえ、楠木正成とその一族の忠義を称賛するものでした。そして木戸が「感銘深く」というように、平泉の御進講は相当な出来だったようです。

ただ、これと全く異なる感想を述べている人もいます。やはり平泉の御進講を聞いていた内大臣の牧野伸顕は、後醍醐天皇をやたらと称賛する平泉の御進講を「いかにも現在の陛下に当てつけるやうな風な話し方であつた」と述べています。さらに牧野によれば、お茶の時間になった際には昭和天皇その人からも、

「今の話はよくきいた。後醍醐天皇の御英明なことも自分はよく知つてるけれども、当時後醍醐天皇のおとりになつた処置について何か誤りはなかつたか」

と御下問があったとのことです(原田熊雄『西園寺公と政局 第五巻』)。牧野曰く、「陛下はあんまり面白く思つておいでにならなかつたらしい」(同書)とのことで、成功と評していいか微妙なところです。

ここで面白いのは、牧野が「木戸も『実につまらないことを申上げたものだ』と言つてをつたが」と述べている部分です(同書)。これは、先に紹介した木戸日記の感想とは真逆と言えますが、この場合はもちろん木戸が自分で日記に記した感想の方を正しいとすべきでしょう。問題は、なぜこのような真逆な感想を牧野が述べているのか、という点です。残念ながら、『牧野伸顕日記』には昭和七年の記載は十月までしかなく、詳細は不明です。ただ、牧野が当時内大臣だったのに対し、木戸はその秘書官長でした。つまり、木戸は牧野に仕える身だったのです。これは推測にすぎませんが、牧野が漏らした平泉の御進講に対する不満に対し、秘書官長の木戸が消極的な同意のような意思表示をし、それを牧野が拡大解釈した、といったところではないでしょうか。

話がそれました。木戸や牧野の証言からわかるように、平泉はいわゆる「皇国史観」と呼ばれる天皇とそれに仕える「忠臣」を称揚する歴史観の持ち主と認識されていました。戦後、「いわゆる皇国史観の代表者とみられる」(岸本美緒ら編『歴史学事典【第5巻 歴史家とその作品】』)などと記されるのが平泉という学者だったのです。

平泉史学

皇国史観では「天皇」は国家の中心であり、人物に対する評価はもっぱら「天皇にいかに忠義を尽くしたか」という尺度ではかられたと言っていいでしょう。それゆえ、天皇を「大元帥」とする当時の軍にとっては、平泉のような歴史観は非常に魅力的に写ったに違いありません。詳細は省きますが、当時(昭和初期)は社会的な不安が増大し、張作霖爆殺事件や柳条湖事件、あるいは血盟団事件や五・一五事件など、国家体制を揺るがしかねない事件が頻発していました。そしてこれらのほとんどに軍の一部が関与しており、上下の秩序は動揺していました。上層部は下からの突き上げや批判を恐れ、エリート軍人の中には思想的動揺をきたす者もいました。

そんな中で、天皇への絶対的な忠誠を説く平泉の「史学」は、軍、特に陸軍の将来を担う若手将校の一部に熱狂的に受け入れられました。

宮城事件には直接参加しなかったものの、彼らと親しく接しており、途中まで兵力を使用してポツダム宣言受諾阻止の計画まで建てた人物に、竹下正彦中佐(敗戦時の階級、阿南惟幾陸軍大臣の義弟)がいます。その竹下中佐は昭和七年ごろ、初めて平泉の講演を聞きました。少尉といえば将校の最下級で年も若く、まだ学生の面影を残していたことでしょう。若い頃から陸軍のエリートとして純粋培養された竹下少尉には、平泉の講義は衝撃的でした。

〈白皙端正の容貌から迸る憂国の言々に深い感銘を受けたのであった。私はこの講演を終わってから、すっかり博士に魅せられ、それからというものは、「武士道の復活」、「建武中興の本義」、「国史学の骨髄」等の博士の著書を求めては読み耽るようになった〉(竹下正彦「平泉史学と陸軍」、以下竹下手記)

竹下もまた、血気盛んな若手将校の一人であり、日本での共産主義革命の危機を憂いていました。そして共産主義革命を防ぐためには、我が国の「腐敗堕落した支配層の革新以外にない」と叫ぶ連中に共鳴していました。しかし、いざとなってみると「国体に対する自らの深い信念、その為には死して悔いなき」という、「われわれの先哲が持っていたような確乎たる信念」が必要であることに気がつきました(竹下手記)。つまり、若い血の滾りだけに頼る行動に疑問を持ったのです。そんな時に出会ったのが、平泉でした。

〈折も折、丁度その頃、平泉博士の講話を聞いたので、旱天に慈雨を得た如き感激を覚えたのであって、当日のことは今もなお忘れ得ぬ思い出である〉(竹下手記)

手記が発表されたのは昭和四十四年のことですので、竹下は実に四十年近く前の出来事を懐かしく語っているのです。それほど、平泉の話は竹下のような若手将校には新鮮だったのです。「旱天に慈雨」と本人が言うように、軍の外部をあまり知らない軍人にとって、平泉の言葉は乾いた大地が水を吸収するように染み込んでいったのです。単純に「歴史上の忠臣」についての知識を与えたというのではなく、強固な「国体観念」の醸成、「天皇のために死して悔いなき」覚悟に思想的根拠を与えたのでした。

このような現象は単純に平泉の説く歴史が「皇国史観」だったからと言って片付けるべきことではありません。彼はまず第一に「学者」として大変すぐれた能力の持ち主でした。東京帝国大学において国史学科主席卒業という頭脳の持ち主である他に、研究者として将来を嘱望された人物でもありました。と同時に、平泉は流麗で高尚、育ちの良さすら伺わせる大変優れたものでもありました。その講義も聞くものを魅了してやまないものだったと思われます。

平泉自身は敗戦と共に表舞台から身をひきましたが、彼の弟子は学者として成果を挙げたものも少なくはなく、「平泉門下生」の強固な結束力は戦後の強烈な逆風にも耐え抜きました。それは平泉の歴史観が時流に乗った単なる付け焼き刃の紛い物ではなかった事を示していると言えるでしょう。平泉澄という人物の「歴史観」は、「平泉史学」という言葉が生まれたように一種の思想というものに近かったのではないでしょうか。少し長くなりますが、平泉の思想がよくわかる論文の、有名な一説を引用します。

〈明治以来の学風は、往々にして実を詮索して能事了れりとした。所謂科学的研究これである。その研究法は分析である。分析は解体である。解体は死である。之に反し真を求むるは綜合である。綜合は生である。而してそは科学よりはむしろ芸術であり、更に究竟すれば信仰である。まことに歴史は一種異様の学問である。科学的冷静の態度、周到なる研究の必要なるは、いふまでもない。しかもそれのみにては、歴史は只分解せられ、死滅する。歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である。この霊魂の力によつて、実は真となる。歴史家の求むる所は、かくの如き真でなければならない。かくて史家は、初めて三世の大道師となり、天地の化育を賛するものとなるであらう〉(平泉澄「歴史に於ける実と真」、『我が歴史観』所収)

この一文については誤解されがちですが、決して「分析」を軽視しているわけではありません。平泉は「科学的冷静の態度、周到なる研究の必要なるは、いふまでもない」と、あくまで基本的な研究姿勢を「最低限のもの」としているのです。「歴史家として当然必要なことであるからいうまでもない」という意味です。東京帝国大学といういわば「科学的な史学」の最高峰にいた平泉にとって、これは当然といわねばならないでしょう。

しかし、平泉の特徴は、やはりそれ以外の部分にあります。明治以来の史料批判に基づく歴史学の研究手法を必要最低限のものとしつつ、それだけでは歴史の「解体」であり「死」であると説く。「三世の大道師」たる歴史家は、それだけではだめなのです。歴史を芸術、さらに「信仰」とまで言い切る平泉は史家の役割というものを非常に高い場所に置き、積極的に「教化」への道を踏み出します。それが、軍への協力へと繋がりました。

勘違いしてはいけないのは、平泉は決して時勢に迎合して「皇国史観」を唱えたのではなく、己自身の考えで時代の流れに身を投じていった、ということです。軍の外部から軍への影響を及ぼした人物は大川周明、北一輝などがいますが、いずれもクーデターやテロに関与しており、体制側としては青年将校を誤導しかねない人物でした。その点、平泉は体制側としても心強く、青年将校の「思想教化」にはうってつけの人物だったと言えます。平泉の影響力は次第に大きくなり、やがて戦時体制下では「唯一に近い公許イデオロギー」(秦郁彦『昭和史の謎を追う 上』)と評されるまでになります。

ではなぜ、「尊皇絶対」を掲げ、軍からも歓迎された平泉の教化を受けた弟子たちは、「秩序維持」とは全く背反する、クーデターを起こそうとしたのでしょうか。これについては、また回を改めて論じてみたいと思います。




参考文献一覧

平泉澄『悲劇縱走』(皇學館大學出版部 一九八〇年)  

平泉澄『我が歴史観』(皇學館大學出版部 一九八三年 原著は一九二六年)

木戸幸一著、木戸日記研究会校訂『木戸幸一日記 上巻』(東京大学出版会 一九六六年)

原田熊雄『西園寺公と政局 第五巻』(岩波書店 一九五一年)

尾形勇、加藤友康、樺山紘一、川北稔、岸本美緒、黒田日出男、佐藤次高、南塚信吾、山本博文編『歴史学事典【第5巻 歴史家とその作品】』(弘文堂 一九九七年)      

秦郁彦『昭和史の謎を追う 上』(文藝春秋 一九九九年)

岩田正孝「未遂に終わった斬り込み計画 (2.26事件の新事実)」(『中央公論』 一九九二年三月号)

竹下正彦「平泉史学と陸軍」(『軍事史学』第5号 第1巻)


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