見出し画像

自民党結成–––第三章 吉田茂と鳩山一郎 その2

※画像は国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

三つの約束

前回記述したように、組閣目前で公職追放の悲劇にあった鳩山は、党を譲るに当たって「三つの約束」を吉田茂と結んだ。

<金はないし、金作りもしないこと、閣僚の選定には君(※筆者注、鳩山のこと)は口出しはしないこと、それから嫌になったら何時でも投げ出すこと>(吉田茂『回想十年 1』)

吉田本人の言によれば、この時は早くやめるつもりで引き受け、結局「四囲の情勢に押されて」(同書)引き受けたということだが、やはり権力の座にいるうちに未練が出てきた、というのは否定できないところだろう。

この時、鳩山長年の子分で吉田に付き従った人物に大野伴睦がいる。大野は桂太郎内閣に対する憲政擁護運動の渦中で逮捕、投獄され、政友会の院外団から政界入りした、生粋の政党政治家であった。院外団とは「政党の後援組織」と言えば聞こえはいいが、実際は警備だけでなく実力行使もいとわない、かなり乱暴なとりまき集団でもあった。

大野は現代でいえば「ハマコー」の愛称で知られた浜田幸一、さらに大物では田中角栄のような、大衆の機微に通じた、しかし非常に「グレーゾーン」の多い政治家の一人だったと言える。大野は長年鳩山に仕えてきたが、日本自由党が鳩山から吉田に「禅譲」される際、官僚出身で貴族趣味の吉田の目付けというか、子守り役としてつけられたのである。大野は幹事長として吉田に尽くすが、回顧録の中で次のように記している。

<この新総裁はご自身で「代議士は嫌い」というだけあって、全く政党のことを知らない。いずれ他日、天下をとろうなどと考えてもみたことのない人が、運命の皮肉で総理大臣になったのだから、幹事長たる私の主な仕事は、まるで子守り役のように、ひとつひとつ説明したり、納得してもらうことだった>(大野伴睦『大野伴睦回想録』)。

こうして日本自由党は鳩山から吉田に譲られ、幣原内閣の外務大臣だった吉田茂は組閣に着手することになる。しかし、組閣は難航する。閣僚に予定していた人物に断られたり、追放者に該当したりと、思わぬハプニングによって選考が進まなかったのである。さらに吉田を激怒させたのは、先の「三条件」の約束を、鳩山の方から破ったことだった。

焦点となったのは、農林大臣の人選だった。鳩山らは河野一郎を希望していたものの、吉田は河野を退け、農林省の官僚だった和田博雄を入閣させようとした。鳩山らは、これに反対したのである。

和田は、かつて「企画院事件」という事件で「アカ」、すなわち共産主義者の疑いをかけられていたので(事件そのものはでっちあげ)、これを党(自由党)に嫌われたのである。吉田はこれに約定違反だと激怒し、「もう一切自分は引受ない」とまで言い出した(住本利男『占領秘録』)。

この人事に関する紛争は長引き、自由党も吉田のやり方に反発し、総裁抜きでも組閣工作をすすめようとした。これに対してやはり鳩山古参の子分で「寝業師」とも呼ばれる三木武吉が仲裁に動き、なんとか和田を入閣させ、第一次吉田内閣は成立した。昭和二十一年五月二十二日のことである。

「ストライキ」との対立

後に戦後を代表する長期政権、かつ「占領期」と言えば「吉田茂」のイメージで語られるようになる吉田の最初の組閣は、苦難の船出となった。閣僚の人選でつまづき、組閣本部が共産党の徳田球一らに包囲されるなどの騒ぎもあった。

そしてすでに、組閣の段階で吉田と鳩山の心は離れていた。組閣翌々日の五月二十四、鳩山は訪ねてきた芦田均(のち首相)に対して、忿懣をぶちまけている。

<鳩山氏は自由党が危機に瀕していることを告白し、前途は暗澹たるものありと言った。更に吉田という男にはあきれた、あんな男とは思わなかった、新内閣は一、二ヶ月の間に、議会中にも倒れますよと吐出す如く言った>(芦田均『芦田均日記 第一巻』)

鳩山にしてみれば、三つの約束はしたものの、まさか吉田があそこまで厳格に遵守を要求するとは思えず、裏から操るような形で閣僚人事に参画できると考えたのかもしれない。しかし「手形」を切ってしまった以上、最初に約束を破ったのは鳩山である。心中どう考えていようとも、これは言い訳のしようがないだろう。

しかし、鳩山の予想ほど短くはなかったものの、第一次吉田内閣の命運はそれほど長く続かなかった。

吉田内閣がまず取り組むべき問題は、国民を食わせること、すなわち食料問題であった。残念ながら国内だけではこの問題は解決できず、占領軍司令部に食料の供給を要求し、輸入食料の放出によってなんとかこの危機を乗り切った。

さらには、労働運動も激化も問題になった。経済はインフレとなり、そうなると労働者は賃上げの要求を開始する。八月には日本労働総同盟、全日本産業別労働組合会議と、巨大な労組が次々と結成されていった。大規模なストライキも起こり、社会の混乱は増していった。占領軍は安易な立法による労働運動の抑制には慎重な態度をとっていたが、それでも、インフラ関係のストライキなどは社会への影響が大きすぎることから、「連合軍の占領目的の阻害」「国民生活の危機招来」などを防止するために、以下の措置を取ることを許可した。

<一、生産輸送又は配給の継続もしくは再開を命ずること。

 二、労働争議を強制仲裁に付すること

 三、生産輸送又は配給の国家管理を為すこと

 四、労働争議の制限又は禁止を為すこと

 前項の措置は国会の議員を以て構成する委員会に諮問したる後之を為すこと、第一項の措置を妨害し又は之を煽動したる者は十年以下の懲役に処す(外務省編『初期対日占領政策(上)–––朝海浩一郎報告書–––』)>

首相の吉田茂も激化する労働運動に頭を悩ませながらも、いざとなれば「占領軍の実力で押えてしまう」ことを疑ってはいなかった(『回想十年 1』)。そしてついに、昭和二十二年の「年頭の辞」において「経済再建のための挙国一致を破らんとするがごときもの」、すなわち過激なストライキを「不逞の輩」と非難し、対決姿勢を明確にする。

ゼネスト中止と吉田茂の下野

吉田の発言は、当然ながら労組側の反発を招いた。一月十五日、様々な労働組合が参加して「全国労働組合共同闘争委員会」が結成された。そしてとうとう、全官公庁の労働者二百六十万人が、二月一日を期していっせいにゼネラルストライキに突入することを決定したのである。

国鉄労組は一部を除いて電車をストップさせ、電話や電報も停止される。そ列車には一車両一字の割合で「吉田内閣打倒」のビラが貼られた(児島襄『日本占領 (2)』)。

しかし、占領軍はついにこれを許さなかった。組合に共産党の野坂参三や徳田球一が関わっていることもあり、組合側にストライキ中止を要求したのである。組合はギリギリまで折衝を重ねたが占領軍の態度は変わらず、一月三十日、午後九時すぎ、労組側の代表者による「スト中止」の宣言がラジオから発せられた。

かくして、吉田内閣は大きな危機を乗り越えたのだが、すでに内閣の命脈は尽きていた。三月二十三日、自由党からは芦田均が脱党し、進歩党やその他諸政党が合流し、「日本民主党」が結成された。そして民主党結成の三月三十一日は最後の帝国議会が解散された日でもあった。総選挙は四月二十五日に行われ、一四三議席を獲得した社会党が僅差で自由党を破って第一党となり、五月二十日吉田内閣は総辞職した。就任から約一年、後世戦後を代表する政治家として認識される吉田茂最初の政権は、ごく短命に終わったのである。

参考文献

吉田茂『回想十年 1』(中公文庫 一九九八年)

大野伴睦『大野伴睦回想録』(弘文堂 一九六二年)

住本利男『占領秘録』(中公文庫 一九八八年)

芦田均『芦田均日記 第一巻』(岩波書店 一九八六年)

外務省編『初期対日占領政策(上)–––朝海浩一郎報告書–––』(毎日新聞社  一九七八年)

児島襄『日本占領 (2)』(文春文庫 一九九三年)

林茂、辻清明編『日本内閣史録 5』(第一法規 一九八一年)






 

ご厚意は猫様のお世話代、資料購入費、生きる糧などに充てさせていただきます。よろしくお願いします。