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自民党結成––−第二章 吉田茂と鳩山一郎 その1

※画像は国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

「ワンマン宰相」のあせり

昭和二十八年二月二十八日、その事件は起こった。この日は第十五会国会衆議院予算委員会が行われており、総理大臣の吉田茂と、社会党右派の西村榮一の論戦が行われていた。

ここで、吉田は西村に対して感情的になり、うっかり「バカヤロー」と発言してしまう。字面だけ見ると吉田が怒鳴りつけたように見える(またその方が「吉田らしい」とも言える)が、実際は小声でつぶやいたのがマイクに拾われた、ということらしい。西村はこれに対して「取り消しなさい」と言い、さすがの吉田も「……私の言葉は不穏当でありましたから、はつきり取消します。」と取り消している。

これを受けた西村も深追いはせず、「年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取消された上からは、私は追究しません」と、受け入れ、その後「東條内閣以上のファッショ」などとあてこすりのようなことを言いつも、ひとまずは収まったかに見えた(発言は、「国会会議録検索システム」より。

しかし、事はこれで終わらなかった。反発した右派社会党は懲罰動議を提出し、なんとこれが可決されてしまったのである。与党である自由党の一部、しかも現役閣僚の一人である広川弘禅率いる一派らが欠席し、動議が可決されてしまったのである。

それでも吉田は諦めず、広川を罷免して体制の立て直しもはかるも、三月に内閣不信任案が提出され、これに自由党から脱党した分派(分派自由党、分自党)が賛同、ついに不信任案は可決され、吉田は即座に衆議院を解散し、政局となった。

振り返ると「バカヤロー」発言はきっかけではあるものの原因ではなく、与党内にも長期政権を敷いている吉田に対する反発があったことが見て取れる。

もちろん、これは吉田自身にとっては裏切りに他ならない。後年の回想で、もともと「党内野党」に近かった彼らを吉田は「裏切分子」と呼び、「確乎たるたる政府の後楯となることなく、逆に政治を徒らに混迷と不安定に陥れた」と批判している。そして、内閣不信任案決議については「この一事は当時起った多くの奇怪事の中でも最大のもの」と記す(吉田茂『回想十年 1』)。

こうして見ると、吉田の「バカヤロー」はうまくまとまらない党内への苛立ちや焦りが噴出してしまった、とみることも間違いではないだろう。

鳩山一派

四月十九日に行われた選挙の結果は、与党の自由党が一九九議席と過半数を割り、分派自由党は三五議席を確保することになった。全体的にみると保守勢力が二十数議席を減らし、左派や革新の躍進が目立った(林茂・辻清明編『日本内閣史録 5』)。そして今後、自民党結成に重要な役割を果たすのは、この分派自由党、鳩山自由党とも呼ばれた造反者たちである。

彼らには、もともと「政権を担当するのは自分たち」という意識があった。そもそも、敗戦の年の十一月九日、「日本自由党」の立ち上げに参加したのは鳩山一郎、三木武吉をはじめとする根っからの党人政治家五二人である。彼らは翌年(昭和二十一年)四月の総選挙で一三九人の当選者を出し、第一党に躍進した。

過半数に届かなかった日本自由党は、九二名の当選者を出した日本社会党との連携を模索した。鳩山側からすれば、選挙前に提携を約束しており、協力は得られるものと思い込んでいたようである。しかし、片山哲をいただく社会党の認識は異なっていた。鳩山と会合を持った社会党の一人である平野力三は「例えば連立政権をつくるとか、といった話ではなかった」と否定している(住本利男『占領秘録』)。

こうして、鳩山の目指した連立政権はならなかったものの、かくなる上は単独政権でも、と組閣に着手した。ところが、ここで大きな問題が起きる。政権を目前にした鳩山が、「公職追放」となってしまったのである。

日本自由党は総裁を突如失うという大打撃を受け、急いで後継者探しに走った。政界の長老古島一雄や会津松平家の血を継ぐ松平恒雄も候補に入ったが、最終的に総裁の座を譲られたのが、幣原内閣の外務大臣をつとめていた、吉田茂だった。鳩山は吉田に、追放解除後の総裁交代などを条件に総裁の座を明け渡す。

しかし、鳩山と吉田の約束は守られなかった。吉田は長期間に渡って政権を維持することになり、鳩山一派はとうとうこれと対決する決意を固める。こうして、のちに自民党が結成される伏線が張られたのである。


参考

吉田茂『回想十年 1』(中公文庫 一九九八年)

林茂・辻清明編『日本内閣史録 5』(第一法規 一九八一年)

住本利男『占領秘録』(中公文庫 一九八九年)

国会会議録検索システム



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