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自民党結成–––第四章 政局の混乱

※画像は国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

二つの短命政権①−−−片山内閣

吉田茂率いる日本自由党は昭和二十二年四月の選挙で社会党に敗北し、与党の座から降りることになった。総辞職した吉田内閣の後をうけて組閣したのは片山哲、我が国初の社会党政権の誕生である。安定多数とはいえないが、社会党が政権を取るという点では、画期的なことではあった。片山自身、この時の選挙について、

<ここで初めて、名実ともに戦後にふさわしい、生まれ変わった日本の政治体制が誕生することになったのである>

と誇らしげに記している(片山哲『回顧と展望』)。

新憲法施行後初の内閣、しかも片山はクリスチャンであったことから占領軍の期待も高かった。片山が総理に任命された五月二十四日にはマッカーサーが片山を支持する声明を出した(芦田均『芦田均日記 第一巻』)。

しかし、問題もあった。片山の組閣は三十一日にGHQの許可を得て無事完了したのだが(芦田同書)、この事実からもわかるように、選挙に勝って首班指名で終わりというわけではなく、GHQからも認められなければならないという難しい試練があった。無論、これは片山に限った事ではなく、占領下日本の首相は何事も占領軍の顔色を無視することはできなかった。

さらに片山が基盤とする日本社会党内では、次第に右派と左派の対立がはげしくなってゆく。片山内閣は片山率いる社会党と芦田均率いる民主党ほかとの連立政権であったが、左派は連立に対してあまり賛同していなかったのである。

そんな中で、農林大臣である平野力三をめぐる紛争が起こる。平野は社会党の中でも強硬な反共産主義者であり、GHQでも彼の農相就任に疑問を呈する向きがあった。中でも、特に左派系と見られるGS(民生局)での反発は強かった。組閣から約五ヶ月経った昭和二十二年十月二十五日、民生局局長のコートニー・ホイットニー准将の部下であるチャールス・ケーディス大佐が総理を訪ね、平野農相を公職資格審査委員会にかけるように要求したのである(住本利男『占領秘録』)。これは実質、平野追放を命じたと言っていいだろう。

片山はやむを得ず平野に辞職を勧告するも平野はこれを拒否、とうとう、罷免することになる。新しい農相には社会党左派から入閣させようとしたものの、これには連立を組む民主党と国民協同党が反対した。結局片山総理は左右どちらにも属さない波多野鼎を農相にしたものの、今度は左派が反発し、さらには前農相平野の一派が社会党を脱党する事態にまで至った。

片山は人格は清潔だったかもしれないが、「歯切れの悪い、優柔不断な」(阿部眞之助『戦後政治家論』)と評されるように、政治家として統率力や決断力に欠ける部分があったようだ。

結局、片山内閣はこうした政権内部の紛争に振り回され、鉄道運賃や通信料金の値上げなどでも左派の同意は得られなかった。追加予算案も党内反対派によって成立せず、昭和二十三年二月十日、とうとう総辞職のやむなきに至ったのである(林茂・辻清明編『日本内閣史録 5』)。

二つの短命政権②−−–芦田内閣

片山連立内閣の跡を受け継いだのは、同内閣で外務大臣を務めた芦田均である。しかしこの内閣も、発足時点ではその基盤は強固とは言えなかった。片山が総理をやめた時は衆議院における社会党の議席が百二十三、自由党百十九、民主党百六、以下に少数政党が並ぶといった具合で、どの党にしても単独過半数はおろか、上位三党はほぼ横並びといっていい状態だった。

そんな中で、第一党の社会党が自分たちの政権を維持するために、連立与党である民主党の芦田均に協力するのはある意味自然な流れだったといえよう。芦田の日記によれば、二月九日民主党の竹田儀一のもとに社会党左派の加藤勘十が訪れ、

<左派を入閣させれば社会党は左右一致して芦田を推すことにするから、左派入閣の件を浅沼に申入れてくれ>

と述べたという(芦田均『芦田均日記 第二巻』)。なお日記によれば芦田は「反響が大きい」という理由でこれを断っている。

しかし、民主党内でも芦田が首班となることに異論を唱える人々がいた。戦前から硬骨の政治家として知られた斎藤隆夫は「憲政の常道」(衆議院選挙で第一党となった政党が内閣を組織し、辞職した場合は野党第一党に政権を譲る)の観点から、「吉田総裁指名は当然なり」との意見だった(伊藤隆編『斎藤隆夫日記 下』)。

つまり、社会党内部には右派左派の対立があり、民主党内部にも自由党の吉田茂を推す動きがあったのである。それでも二月十五日には社会党も芦田に投票する目処がつき(『芦田日記 第二巻』)、二月二十一日、衆参両院で首班指名投票が行われた。投票は衆議院が芦田、参議院が吉田という混乱したものとなり、結局憲法の規定に従って芦田均が首班指名を受けることになったのである。

しかし、芦田内閣はすぐに大きなつまづきを見せた。副総理(国務大臣)として入閣した社会党右派の西尾末廣が、献金問題で野党に告発され、辞任する羽目になったのである。これは、西尾が「個人への献金」と考えて申告しなかったものが野党に問題視され、ついに東京地検によって起訴されたものだった。裁判では結局西尾は無罪となるものの、昭和二十三年七月の世論調査で芦田内閣は支持が十七%、不支持が五十二%という厳しい状況に陥った(林・辻『日本内閣史録 5』)。

この危機的な状況に、さらに致命的な追い討ちをかけたのが「昭和電工疑獄事件」である。これは、緊急に必要とされる石炭や鉄、肥料などに資金を提供するための復興金融金庫(政府出資)からの資金の一部が、肥料生産会社である昭和電工から政府要人に賄賂として渡されたのではないか、という一大疑獄事件である(林・辻同書)。

疑獄は日本政府のみならずGHQにも及ぶとされ、とうとう芦田内閣の閣僚(栗栖赳夫)が逮捕されるまでに至った。芦田は自分自身はこの疑獄に「毫末も関係はない」と記しながらも、「道義的には責任がある」とも思い(『芦田日記 第二巻』)、十月七日、ついに総辞職したのである。半年を少し超えたばかりのわずかの短命内閣であり、GHQ内部の権力闘争にも翻弄された芦田内閣の崩壊は、前政権の片山内閣の短命と合わせて保守合同への下地を作ったといえるかもしれない。



参考文献

片山哲『回顧と展望』(福村出版 一九六七年)

芦田均『芦田均日記 第一巻』(岩波書店 一九八六年)

芦田均『芦田均日記 第二巻』(岩波書店 一九八六年)

住本利男『占領秘録』(中央公論社 一九八八年)

阿部眞之助『戦後政治家論 吉田・石橋から岸・池田まで』(文藝春秋 二〇一六年)

林茂・辻清明編『日本内閣史録 5』(第一法規出版株式会社 一九八一年)

伊藤隆編『斎藤隆夫日記 下』(中央公論新社 二〇〇九年)


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