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青年将校―安藤輝三の二・二六事件 その3

第五章 「昭和維新」を目指して

 一.慎重派の安藤

 磯部の回想にある「他の同志がたとい蹶起せずとも」という言葉は、彼ら仲間内でも蹶起を強硬しようとする者と未だその時にあらずとする慎重派が居たことを示している。安藤は、その慎重派の一人だった。
 二月十日、と言えばすでに決起の二週間前だが、歩兵第三連隊の週番司令室で安藤、栗原安秀(中尉)、中橋基明(中尉)、河野、磯部の五人によって会合が開かれた。磯部はこの会合を「A会合」と名付けた。
 「五人以外の他の者を本会合には参加させまい 他の同志を参加させる会合をB会合としておく事」
 ということであるから、いわばこの「A会合」に集まる面々が決起の首脳部ということになる。磯部は「余は安藤の決心を充分に聞きたかつたので 一応正してみると」
 「いよいよ〱準備をするかなあ」
 と答える。
 「深重(ママ)な安藤が云ふことであるから 安藤も決心していると考へた」
 磯部にとっても、安藤は慎重派と写っていた。わざわざ「深重な」と述べるくらいであるから、磯部ら急進派からみれば安藤の参加は最も懸念されるところだったのだろう。しかし、よくよく安藤の言葉を見てみると
 「準備をするかなあ」
 という非常に消極的なものでしかない。それでも磯部らにしてみれば安藤の言葉は「決心している」ととられたのであるから、安藤の普段の言動が決起に消極的というより明らかに反対していたものであることがわかる。
 大蔵なども安藤のこと時の返事について
 「安藤は『準備にとりかかるかな』と軽く返事はしたものの、反面そのときの緊張した空気に押されぎみであったであろうことが想像される」
 と述べており 、安藤の決心がこの時点で固まったとは見ていない。そして安藤の事時の言葉は事実決意の披瀝ではなかった。
 「二月十八日 栗原宅に村、栗、安、余が会合していよ〱何日に如何なる方法で決行するかを決定しようとの考へで 意見の交換をした、所が意外にも 安藤が今はやれないと云ふのだ 村中が理由を聞いたが 理由は対して述べないで時期尚早をとなえた、最後の紙一重と云ふむづかしい事になると ヤルと云ふ方も やらぬと云ふ方もお互ひに理由など大してないのが自然だらふ、(直感と云ふか、カンと云ふか)余はヤルと主張した、(中略)
 余は最初から 歩一がやらぬでも 歩三がやらぬでも 独力決行するつもりでいたのだから 安藤の時機尚早との意見に左右される程の事もないと考へたので「俺はヤル」といつた迄だ。とに角此の会合で来週中にやると云ふことだけは決定した」
 十八日という、非常に切迫した段階でも安藤は決起に反対している。磯部はとうとう独力決行の決意を披瀝し、このままでは両者は決裂するかにも見えた。決起一週間前になっても反対する人間がいるのであれば、その人間の参加は見合わせても仕方ないであろう。

二.決起の理由、苦悩の理由

 ここでなぜ磯部らが決起を急ぎ、決起に慎重だったのかを考えてみたい。磯部は一月二十八日に真崎を訪ねているが、真崎はここで「何事かを察知せるが如く」
 「何事か起こるのなら、何も云つて呉れるな」
 と述べる。
 「余は統帥権干犯問題に関しては決死的な努力をしたい 相澤公判も始まることだから 閣下も努力していたゞきたい と云つて金子の都合を願つた 大将は俺は貧乏で金がないが いくら位いるのだと云ふ 金は千円位あればいゝ なければ五百円でもいゝと云つて 大まけをして半格に下げた それ位ひか それなら物でも売つてこしらへてやらふ 君は森を知つているか 森の方へ話をしてみて必ずつくつてやらふ と云つて快諾をして呉れた」
 こうして磯部は真崎から金子の提供を受ける。これで、真崎が確実に自分たちの味方になってくれるという自信ができた。
 「余は、コレナラ必ず真崎大将はやつて呉れる 余とは生まれて二度目の面会であるだけだのに これだけの好意と援助とをして呉れるといふことは 青年将校の思想信念 行動に理解と同情と有している動かせぬ証拠だと信じた」
 これが、磯部らに決起を決心させる大きな理由になる。しかし、これだと後の二月十八日の会合で「最初から独力でもやるつもり」という磯部の決心とやや違ってくる。真崎の支援を期待したのであれば、「最初から独力でも」というよりは「最悪独力でもやるつもり」との決意だった、と見た方がいいだろう。
 では、対する安藤はなぜ決起に慎重だったのだろうか。大蔵はその理由をひとえに「時期尚早」に帰している。
 
 大正から昭和にかけて、天皇の側近にはいつの間にか古今を大観する達人、天地を貫く剛直の士が、影をひそめてしまった。下、万民の苦しみをよそに、側近はひたすら天皇を大内山の奥深くあがめ奉ることにのみ専念これとつとめていた。『諌臣なき国は亡ぶ』と昔よりいわれたように、忠諫の士が遠ざけられて、佞臣の跋扈するところ、大内山には暗雲がただよい、ために天日はおのずから仰ぎ難くなる。
  『二・二六事件』は、私によれば、この暗雲を払い天日を仰がんとする、忠諫の一挙であったのだ。しかしながら、忠諫の一挙はひとりよがりであってはならぬ。上は天皇より下は国民に至るまで、すべてが納得することを理想とする。完全とまではゆかないまでも、そのためには上部構造が必要であり、国民大衆の啓蒙運動が充分成果を挙げていなければならぬ。
  安藤大尉が時機尚早と苦慮したのはこのへんのことがまだまだ煮詰まっていないと直感しただけで、決して統帥権干犯の苦慮ではなかったことは自明の理であろう

 文中の統帥権云々とは作家の松本清張が安藤の逡巡の理由の一つに部隊を動かすことが統帥権干犯に繋がるのではないか、と苦悩してのだろうと推測していることを指す。大蔵はそれを批判し、安藤が慎重だった理由を、自分たちの「忠諫の一挙」についての理解がまだまだ国民の間に浸透していないことを按ずる時機尚早論である、としているのだ。
 しかし、安藤が本当に決起をためらう理由は別にあった。 蹶起の少し前の事だが、龍土軒という料理屋で実行の是非を問う会合が開かれた。この時、決行を促す磯部や村中に対し、苦悩する安藤がその胸中を語っている。
 「それにしても村中さんや磯部さんには部下がありません。失礼ですけど、今では一介の地方人です。わたくし共が一個人として、血盟団や五・一五事件の如く動くのでしたら、わたくしも反対派いたしません。軍服を脱いでやると云うなら、一緒になってやりましょう。それは個人が犠牲になればよいんですから――。
 しかし軍隊を使用するのは事が全然違います。われわれが飛び出すには、戦闘綱要
の独断に合するか否かを、慎重に検討する必要があります。常に上官の意図を明察し、大局を判断するとありますが、この際の上官は陛下です。軍隊を使用して直接行動に出ることは、陛下が自ら元老重臣を斬ろうと考えられて居る場合、その時だけに許さるべきです。今の陛下が果たしてそれを考えて居られるか。わたくしはそうとは絶対に思えません。わたくしは絶対に軍隊を犠牲にできません」
 

三.安藤、ついに起つ

 安藤が起たぬとなると、磯部らは独力で決行しなければならない。磯部は、二十二日に安藤を訪ね、最後の決断を聞いた。
 「安藤、おれと一緒に死んでくれ」
 安藤の決心はすでに固まっていた。
 「磯部!安心してくれ。おれはやる。ほんとに安心してくれ」
 この時、事件は我々が後に知る二・二六事件となった。一度決心した安藤は、もはやゆらぐことはなかった。
ではなぜ、そのギリギリになっても決心が出来なかった安藤が決起に賛成したのであろうか。東京日日新聞記者の石橋恒喜は味方は「同志への義理」というものだ。
 「おそらく彼の考えとしては、磯部、村中は〝地方人〟であって、無力だ。また、栗原の力だけでは、大部隊を動かすことは不可能だ。結局、決起は失敗して、残った同志には大弾圧の手がのびることは必至である。だとすれば、同志を見殺しにするわけにはいかない。のるか、そるか、同志への友情と大義のために、〝昭和維新〟に殉じようと志向したのであろう」
 石橋は、きっと失敗するに違いない同志を見捨てるに忍びなかったからこそ、安藤は決起に参加したのであろう、と考えている。確かに、安藤が決起したことで歩兵第三連隊は全体の六十パーセントの兵力を動員し、彼が率いた兵力は単独の指揮官のものとして最大の一五〇名にのぼる。安藤の性格を考えれば、同志へ殉ずるというのは考えられる理由である。
 そして決起前日の二月二十五日夜、点呼が終了した後に安藤による訓話が行われた。安藤は先ず黒板に富士山の絵を書き、チョークを横にしてその富士山を塗りつぶした。
 「今の日本はこの絵のように一部の極悪なる元老、重臣、財閥、官僚等の私利私欲によってこのように汚され、今や暗黒に閉ざされようとしている。今こそ我々の手によってこの暗雲を払いのけ日本を破滅から救い国体の擁護開顕を図らなければならぬ」
 この訓示を聞いた兵士たちは、当然なんらかの変事を予想した者が多かった。例えば、昭和十一年一月に入隊したばかりの大谷武雄二等兵は
 「暗雲はどのようにして払いのけるのか、そして我々とは私を含む第六中隊を指しているのか、私は一瞬心おだやかならぬものを感じた」
 安藤は普段週一回の訓話で政治の腐敗や「昭和維新」について語っており、兵士たちもいつしかその精神に染められていった。もちろん、具体的に何をどうするか、などということは知る由もない。
 そして翌日二十六日三時ころ――。
 帝都眠る寒空の下、非常呼集が行われた。普通はラッパが鳴らされるはずなのだが、その日は各班の班長が起こして回る、という常と違う方法だった。準備をしている兵士たちに配れたのは乾パンや牛缶詰など一食分。そして、一人六十発の小銃弾。空砲ではない、実包である 。
 四時前、準備を終えた兵士たちは営舎前に集合し、その場で編成が発表された。第六中隊は、三個小隊に分けられた。編成が終わると、安藤は「弾込め」を命じ、やがて抜刀して号令した。
 「気オ付ケー!中隊は只今より靖国神社に向かって出発する、行進順序建制順、右向ケー右!前エー進メ」
 安藤の中隊は営門を出、行進を開始した。この時点で兵士たちはまだ目標を知らされていなかったのである。彼等が自分たちの目的を知ったのは、一時間ほどしてからのことであった。
 しかし、全員に企図を黙っていた訳ではない。その前日、二十五日に安藤は病欠の一人を除いた全下士官を中隊長に集め、決意を披瀝した。
 「昭和維新を断行するため、歩一、歩三、近歩一を主体とする行動部隊は、明早朝を期し、要路の顕官重臣を襲撃し、以て国内の暗雲を一掃せんとす。
 当第六中隊は、侍従長鈴木貫太郎閣下の襲撃を担当する。攻撃開始は明早朝五時と規制された・・・・・・」
 安藤は続ける。
 「諸官の中に、その信ずるところによって、中隊長と行動を共にすることは出来ないと考えるものは、遠慮なく立ち去って欲しい。それは絶対に卑怯ではない。むしろ勇気ある行動だと思う。
 これから二分間瞑目の時間を持つことにする。その間に立ち去りたいものは、静かに席をはずして部屋を出て欲しい・・・・・・」
 安藤は静かに目を閉じ、約束の時間を過ごした 。再び目を開けたとき、そこには誰一人欠けることなく揃っていた。最後まで決起に悩んだ安藤は、「去る者は卑怯ではない」とまで心遣いを見せたのだが、その心遣いは無用であった。クーデターで最も避けるべきは事前の情報漏洩であるが、安藤とその部下たちに限ってはその心配はいらなかった。
これが事変の最後において「中隊団結の極地」 とまで称される、安藤輝三大尉率いる第六中隊の下士官であった。
 部隊は、首相官邸にほど近い侍従長・鈴木貫太郎海軍大将の邸へと向かった。

 四.「大西郷の如き人」鈴木貫太郎

 安藤らが襲撃目標とした鈴木貫太郎は、もともとは海軍軍人であった。慶応三年生まれというから、昭和十一年には六十八歳という(当時としては)高齢である。日露戦争にも従軍し、軍令部部長、連合艦隊司令長官も経験した海軍の重鎮である。昭和四年に侍従長となり、昭和天皇の側近―皇道派に言わせれば「君側の奸」―として過ごしてきた。その人柄は昭和天皇に愛され、のちに大東亜(太平洋)戦争最末期に天皇自らの懇請によって首相となる人物である。実は、安藤とはこの襲撃以前に面識があった。
 日付ははっきりとはわからないが、安藤が鈴木のもとを訪ねたのは事件の二年前、昭和九年のことであった。彼は民間人三人をつれ、革新政策について鈴木の話を聞きにきたのであった。安藤の話の詳細は不明だが、鈴木によれば次の三点を挙げて反論したという。
 
その第一は、軍人が政治に進出し政権を壟断することに対して、これは第一、明治天皇の御勅諭に反するものである。もともと軍備は国家の防衛のために国民の膏血を絞って備えられているもので、これを国内の政治に使用するということは間違っている(中略)
  第二の問題は、貴君は、総理大臣を政治的に純真無垢な荒木大将でなければいかんといわれるが、一人の人をどこまでもそれでなければいかんと主張するすることは、天皇の大権を拘束することになりはしないか、日本国民としてこういうことはいえないはずだ。もしこれ数人のなかからといえば、陛下のご選択の余地がある、一人の人を指定するのは強要することで、天皇の大権を無視するということになる、これが貴君たちのいい分のうち第二の不当な点である。こうしたことは日本国民の口にすべからざることだ。
  第三は、今陸軍の兵は多く農村から出ているが、農村が疲弊しておって後顧の憂いがある。この後顧の憂いある兵をもって外国と戦うことは薄弱と思う、それだから農村改革の軍隊の手でやって後顧の憂いのないようにして外敵に対応しなければならんといわれるが、これは一応もっとものように聞こえる。しかし外国の歴史はそれと反対の事実を語っており、いやしくも国家が外国と戦争するという場合において、後顧の憂いがあるから戦ができないという弱い意志の国民ならその国は滅びても仕方があるまい、しかしながら事実はそうではないのだ(中略)。
  その証拠に日清、日露の戦役当時の日本人をご覧なさい、あの敵愾心の有様を、親兄弟が病床にあっても、また妻子が饑餓に瀕していてもお国のために征くのだから、お国のために身体を捧げて心残りなく奮闘していただきたいといって激励している、これが外国に対する時の国民の敵愾心である。しかるにその後顧の憂いがあるから戦争に負けるなどということは、飛んでもない間違った議論である、私は全然不同意だと 。

鈴木は、日露戦争を肌で知っている。だからこそ、当時の国民が困窮に堪えながらも宿
敵ロシアに負けてなるものかと一丸になって立ち向かっていった様相を安藤に説くことができたのだろう。事実、鈴木の話は安藤の心に染み渡った。
「今日は誠に有難いお話を伺って胸がサッパリしました、よく解りましたから友人にも説き聞かせます」
と言い、喜んで帰って行った。そればかりが、他日また教えを受けたい、とすら述べ、帰り道で友人に
「どうも鈴木閣下は見ると聞くとは大違いだ、あの方はちょうど西郷隆盛そっくりだ」
と激賞している 。言うまでもなく、西郷は「維新三傑」の一人で、この時代の日本人にとっては等しく英雄であった。ましてや、「昭和維新運動」に邁進する安藤にとっては明治天皇に「忠諫」のできる臣下として、最も憧れていた人物であったろう。安藤の鈴木への尊敬の念はその後も消えず、座右の銘にしたいから、ということで鈴木の書を欲したくらいである 。しかし安藤は今、その鈴木の眠る邸の前に、武装した兵士を引き連れてやってきたのである。紛れもなく、侍従長鈴木貫太郎を殺害するために。


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