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青年将校―安藤輝三の二・二六事件 その1

今回は、以前「第四回宮帯出版大賞」にて入選した拙稿を掲載します。出版はしておりませんが、せっかく書いたので、お時間あればご覧下さい。長いので、何度かに分けて掲載します。今読めば直すべきところもたくさんありますが、誤字脱字を除いてそのままにしておきます。

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序章 運命の「門出」

 雪は、東京を白く彩っていた。
昭和一一年の冬は近年めずらしいほど雪が降った。昭和天皇はスキーを好まれたが、二月二十五日も侍従たちを相手にし、吹上御苑北側スロープに雪を集めて存分に楽しまれた 。二十三日から降り出した雪は当日の日中には止んでおり、スキーをするにはもってこいの環境だったのである。そして夜半になるとふたたび大粒の牡丹雪が激しく降り始め、残雪に新しく層を重ねようとしていた。
 明けて、二十六日午前三時。というよりは二十五日の深夜といった方が感覚としてはしっくりくるだろう。麻布歩兵第三連隊第六中隊の兵士らは武装のまま営舎前に整列していた 。もちろん、普段はこんな時間に起きてはいない。異常事態である。冬の一番寒い時間、しかも降雪の中で、兵士らは一点を凝視していた。そこに、彼らの中隊長がいる。歩兵大尉・安藤輝三。彼らが運命を託した指揮官の名である。
 安藤はこの度の行動の趣旨を説明し、以後の注意を与えた。前後して第一連隊や近衛歩兵連隊の営舎でも同様の光景が見られた。彼らは演習ではなく、確かに決意を持って「昭和維新」に邁進すべく営門を出た。白銀を鮮血で染め抜き、帝都、否、日本を震駭せしめた「二・二六事件」の始まりである。
 安藤がこの決起に参加を表明したのはわずか三日前、二月二十三日のことであった。安藤は事件終結後に首魁の一人と目され、他のメンバーと共に代々木練兵場の露と消えた。しかし、事件直前まで彼は時期尚早を訴え、行動に慎重だったのである。
 その彼が、なぜ急に決起に踏み切ったのか―。ひとたび事を起こすや、安藤は一切の疑念も躊躇も捨て、最も行動的且つ強硬な指揮官の一人となった。当初一同は安藤の不参加もやむを得ぬと考えていたが、慎重派の安藤参加によって事件はまさに我々の知る「二・二六事件」となった。安藤の参加がなくては、決起はこれほど大規模にはならなかったし、後の歴史に与えた影響も全く違うものとなっていたであろう。
 ゆえに、このあまりにも巨大な事件を探ろうとするならば、安藤輝三の存在を抜かすことは不可能である。事件を事件たらしめたのは他ならぬ安藤である。このロイドメガネの、仲間うちでも一番大人しかった青年は、一体いかなる人物で、なぜこの事件の主犯格となったのであろうか―。


 第二章 青年将校の履歴書

 一.経歴の素描

 安藤は明治三十八年二月二十五日、岐阜県揖斐郡に生まれた。父は栄次郎といい、「てるぞう」の名前が示す通り三男である。父栄次郎は英語教師で、転勤が多かった。若き輝三もまた父に従い、鹿児島、金沢、栃木、長野と居住地を転々とした 。当時は英語教師がまだ少なく、貴重な人材だったのだろう。こうした頻繁な転勤が少年に影響を及ばさないはずはない。後年の安藤は部下たちから絶対的な信頼を受ける人格者となるが、そうした人間性の形成にも寄与したのではないだろうか。
 さて、全国を転々とした安藤が陸軍との関わりを持つのは宇都宮中学時代である。彼はここで仙台にある陸軍幼年学校へ入学した。仙幼は後に満州建国の立役者となる石原莞爾をはじめ、実に様々な人材を輩出している。石原は後に昭和維新運動で安藤ら青年将校と対立し、二・二六事件では強硬な態度で鎮圧を主張することになるのだが、これも歴史の奇縁というものであろう。
 進んで陸軍士官学校に入学し、大正十五年卒業。ここで安藤は後に決起の同志となる磯部浅一と同期となる(三十八期)。

 二.噴出する近代日本の矛盾

 安藤が士官学校を卒業した年に大正天皇は崩御し、年号は昭和と改められた。振り返って見れば、大正時代とは軍縮と普通選挙によって新しい価値観が芽生え、現代にも通じる大衆文化が花開いた時代でもあった。明治維新から血のにじむような努力の果てに巨大なロシア帝国を打ち破り、『坂の上の雲』を目指して走り続けたのが明治時代であれば、その結果世界の強国として認められ、長い間の苦労が大きく実ったのが大正時代であるといえよう。
 と同時に、ここまで一気に駆け上がってきた近代日本の問題が吹き出す時期でもあった。政治的には大正十四年に普通選挙法が制定されて原敬による初の政党内閣が出現し、ワシントン海軍軍縮条約によって国際的に軍縮が行われた。国内でも宇垣一成陸軍大臣(加藤高明内閣)によって四個師団が廃止され、それまで日本の近代化を支えてきた軍隊は日露戦争の栄光から一転、逼塞を余儀なくされた。普選と軍縮はそれだけ「大衆」の存在が日本の中で大きくなってきたことの証でもあった。
 同時に、それらは新しい問題をもたらすものでもあった。ワシントン条約は賛成派と反対派の間で海軍を二分する大論争となり、この時生まれた亀裂は後々まで尾を引いた。5年間続いた第一次世界大戦では日本は勝者の側に立ったが、その過程で生まれた「ソヴィエト社会主義共和国連邦」は共産主義の脅威をもたらし、日本もこれと対峙せざるを得なくなる。やがて来る昭和の時代は、動乱の予兆に彩られていた。

三.「国家革新」への芽生え

 士官学校は予科と本科に別れており、予科を終えると一度士官候補生として隊付き勤務を経験する。安藤は大正十三年に予科を卒業し、歩兵第三連隊第六中隊に配属された。その指導を任されたのは、中隊付き少尉の秩父宮雍仁親王、つまり昭和天皇のすぐ下の弟宮であった。安藤は、士官学校を出てすぐ、最も高貴な血筋の先輩を持ったのである。
 士官学校を出てこの中隊に配属された候補生は三人いるが、宮は特に安藤を気に入り、目を掛けていた。一方の安藤も宮に対しては敬意と同時に親しみを持ち、兄に対するように接していたという。秩父宮は時に「これからの日本」というようなテーマで安藤等と議論を交わしたこともあり  、国家全体について単に軍人という点からだけではない問題意識も持っていた。
安藤は秩父宮と議論を交わした際に「支那の近代化に力を貸し、日支共同して西洋列強の侵略を防ぐ」旨の意見を述べたが、これに対して宮は
 「安藤、貴様の意見は対支政策としては、確かに正論と言えよう。しかしその前に日本自体の足元をよく見なくてはならない。
 今の国内情勢では、日本がアジア全体のことまで面倒を見ることなど、その実力においても、国内体制においても、また対外信用からしても不可能に近いと思う。
 そのためには、低迷している日本人の国民精神を振起させ、腐敗した政治を刷新し、民生を安定させて、国力の充実計ることが先決ではないか・・・・・・。
 この問題は、これから残された在隊間、さらに本科に入ってからの二年間に、じっくりと考え、見習士官として原隊復帰するまでに、一応の結論をまとめておくんだな・・・・・・」
 と自分の意見を述べている 。安藤の意見が国内を飛び越えて日支の協力を提案しているのに対して、宮はまず足元から固めよ、としている。奥田鑛一郎氏の著作によれば、安藤はそれまで国家改造についてまともに考えたことはなかったが、秩父宮によって初めてその目を開かされたという 。皇族、それも現天皇に最も近い秩父宮がこれほどまで国家の前途を憂えているという事実は、若い軍人の心を動かすのに十分だったろう。(続)







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