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昭和史の余話として。

はじめに

ここでは、私が執筆していく過程で見つけた話で、本に入れられなかったり本筋とあまり関係ない話でちょっと面白いな、と思ったものを紹介させていただきます。

ある東條側近の話

大東亜戦争中、最も長い期間首相をつとめたのは陸軍大将の東條英機です。彼は開戦を決定した時の首相でもあり、戦後はいわゆる「A級戦犯」として処刑されてしまいます。

その東條には、いわゆる「側近」と呼ばれる特定の人物がいました。特に東條家にも信頼されたのが秘書官の赤松貞雄、「黙れ」事件で有名な武闘派の佐藤賢了、企画院総裁の鈴木貞一などが有名でしょう。

その「東條側近」の一人に、富永恭次という人物がいます。陸軍省人事局長、陸軍次官や第四航空軍司令官などを経験しました。この人物は、戦後かなり評判が悪く、さまざまな悪罵を浴びてきたと言っていいでしょう。

例えば、東條その人には戦後も好意的だった昭和天皇ですら、東條の悪評の原因として、次のような発言を残しています。

<それに、田中隆吉〔十七年九月まで兵務局長〕とか冨永次官〔恭次・兼人事局長〕とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落とした原因であらうと思ふ>(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用係日記』)。

昭和天皇の耳にすら、田中隆吉や富永恭次は「評判のよくない」人物として聞こえていたのです。しかし、だからと言ってこうした悪評が全てとも言い切れません。東條について伝記を書いた楳本捨三は、冨永について次のような記述を残しています。

<軍隊がなくなって、旧軍人と呼ばれる多くの将官のなかで、冨永恭次中将などは、同僚後輩からボロクソに言われている人物である。

 ある人は「虎の威を借る狐」と呼び、ある人は、「部下を置き去りに逃げた、武人の風上にもおけぬ卑怯もの」と、蛇蝎のように嫌っている>

ここでも冨永は同僚後輩に評判が悪い軍人とされていることを記しています。しかし、楳本は同時に異なる評価も載せています。

<が、関東軍の第二課長時代、軍人会館の女の子やボーイ仲間では、親しみがあっていい人と、一番人気があった>(楳本捨三『東條英機とその時代』)

冨永が「名将」かと言われれば、さすがに首をかしげざるをえませんが、こうした「良い面」もあった事はきちんと考慮に入れないと、人物評価を誤るでしょう。特に、東條はあの戦争のある意味象徴的な「悪役」になってしまっており、その東條に近かった人々も尾鰭のついた噂を流されがちです。こうした部分は、先入観に注意して調べなければなりません。


林銑十郎の気骨

林銑十郎と言えば、満洲事変の際に朝鮮軍司令官として許可なく軍隊を動かした人物として有名です。彼はのちに陸相になり、最終的に総理大臣にまで上り詰めました。しかも、我が国が敗戦する前に死去しており、戦犯として裁かれたり世間の指弾を受けることもありませんでした。

こうして林の人生を眺めてみれば、一見順風満帆なように見えます。しかし、同時大臣からの評判は散々なもので「後入斎」という不名誉なあだ名が表すように、主体性がなく、腰の座らない人物として低い評価を下されていました。こうした林についての悪評は、昭和史に興味を持った人であれば、どこかで聞いたことがあるかもしれません。

林はいわゆる派閥抗争の渦中の人物で、永田鉄山らとともにいわゆる「皇道派」の排除に動いていたとみられていました。その「皇道派」の荒木貞夫や真崎甚三郎に敬意を寄せる青年将校らが起こした事件が、かの有名な二・二六事件です。

しかし幸いなことに林は難を逃れ、のちに首相の座につきます。この事件の時、林と士官学校同期の渡辺錠太郎が襲撃され、銃撃戦の末殺害されてしまいました。渡辺は林に協力し、皇道派の排除を後押ししていました。陸大出トップの秀才で、また強い信念の持ち主だった渡辺は、それだけ目の敵にされやすかったと言えるでしょう。そしてこの時、実際はどうであったにせよ、林も襲撃される可能性は十分あったわけです。渡辺襲撃の知らせは林のもとにもすぐに届きました。次に記すのは、平桜副官による後年の証言です。

<林は千駄ヶ谷の自宅にいた。林が信頼して真崎の後任に据えた教育総監渡辺錠太郎大将も惨殺されたと聞き、家の子郎党が集まって殺気立っ他ふんいきとなった。反乱軍は渡辺のあと林を襲撃するという情報がとんでいたからである。平桜氏は屋敷に抜け道がこしらえてあることを思い出し「どうされますか」と林にたずねた。林は言下に答えた。「一戦まじえる」–––渡辺の弔い合戦だというのだ。そして玄関先に腰をおろして動かなかった>(北国新聞社編集局「風雪の碑」取材班『風雪の碑』)

人間、危機の時にこそその本質があらわれると言いますが、であれば林はここできっちりと「男らしさ」を見せたことになります。色々と評価の低い人物ではありますが、少なくとも卑怯者ではなく、きっちり覚悟を決められるだけの軍人だったことは無視してはならないでしょう。


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