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公共空間活用における、民間側の心構え

超えられない壁

日本中のあらゆる水辺空間で、公共空間活用を地域のひとたちと仕掛けてきたことで、自分にはいまのところ、超えられない壁があることがわかってきた。

もしかすると、水辺のまちづくりコンサルタントとして自分が無能であるということを自分自身が表明することにつながるかもしれないけれど、そこの違和感をどうしても超えられない自分と向き合わないと、次にいけない気がしているので、ここで書いてみることとする。

モチベートするフェーズで有効な”未来”

自分の仕事は、民間主体の水辺のまちづくりを、全国のあらゆる水辺で展開し、本当に使われる水辺を作り出すことだと考えている。使われる水辺とは、まちに住むたくさんの人々が生活のなかでその環境を享受し、生活の豊かさにつながることであったり、その空間での企業活動=持続可能な運営によって生み出されるものだったりする。その未来像は、すべてを行政にまかせてきた公共空間の運営方法から、民間が欲しい未来へコミットすることに他ならない。未来をつくりだすことができる。それが水辺のまちづくりのムーブメントをモチベートしてきたことは間違いない。

 モチベートするフェーズではとても有効に効く。しかし、モチベートから計画に落とし込み、実施に移すタイミングで、この問題は起こる。それは、その主体に、本当に主体的な意思がそなわっているか、という葛藤である。

主体としての意思

 パスカルは、人は考える葦だと言い、デカルトは我思うゆえに我ありと唱え、自分で考えること、人としての存在証明であることを唱えてきて、近代哲学の基礎となり、近代の民主主義が政治参加する主体の主体意識をベースに発展してきた。が、実際そのような主体意識がそなわっているひとをまちづくりの現場で見かけることは稀。本当に備わっている人に出会うと小躍りするぐらい嬉しくなる。そういう人がいる地域はまったく心配がない。もうやるだけだ。おそらく、それは「覚悟」という言葉に置き換えられ、覚悟のまわりには、人もものも金も集まる。でも覚悟は、考えること、主体的な意思表明の上にしか生まれない。覚悟、という表面的な態度は、すぐに見抜かれてしまう。

 だれかがまちをつくってくれているから、考えなくて良い、あるいはだれかが水辺を管理しているから、関わりを持つ必要はない、と考える人が日本中まんえんしているのは、実は、考えることや、意思を表明することより、空気を読むことを、あるいは、お上のやりたいことを忖度することに慣れてしまっているからなのではないかとすら思う。

 もちろん、すべてのひとにすべてのことに主体的であることは難しい。それが結果的に間接民主主義を産んだ。それぞれの生活がある。それぞれの思いがある。だから、代表をたてて、委任をした。代表者は代議をし、間接的に民主主義を成立させた。

地域としての意思

 間接民主主義は完全じゃない。というのは、僕が2014年にポートランドに行ってパール地区のネイバーフッドアソシエイションの方々にインタビューした時に聞いた言葉である。パブリックインボルブメントは、間接民主主義の不完全さをおぎなうために、主体としての直接民主主義の可能性を追求するためにうまれた。その結果、地域としての、街区単位での意思表明ができるようになった。

 日本の町内会と違うところは、地域としての意思はすぐには行政の仕組みに取り入れられるか否かというとことだと思う。言うまでもなく、町内会での意思決定によって、行政の取り組みが変わるということを聞いたことがない。

 日本では、行政はあらたな規制緩和をするためのひとつの確認材料として、”合意形成”を大事にしていて、協議会をつくるなどしてきた。この協議組織は、本来であれば、直接民主主義のニーズがあるところに生まれるものであるはずなのだが、現在のところ、行政ニーズによって仮説的につくられたものである。

僕は、水辺の取り組みを2000年代初頭にはじめてから、公共的価値について関心があった。公共的価値を決めるのはずっと行政だった。でも行政は民の委任によって運営されている。お上の上の存在である、民間の意思というものが、本来あたらしい公共的価値を規定するはずである。ようやくそのような意思を確認する機会が訪れたと喜び勇んで仕事をしているのだが、肝心要の「民間の意思」を表明する主体が現れることは、そんなにむずかしいのか、と思うぐらい現れない。

教育の現場

 ついこの間、小学生をe-boatに連れてガイドをした。小学生たちは6年生。あたらしく水辺にできる新市庁舎の前で、この立派な新市庁舎はだれのものか聞いてみた。「市役所」「市長」「行政」。という声があちこちと聞こえる。「そうだね、でも市役所ってだれのもの?」と聞いてもみんな顔を見合わせる。ひとりの女の子が小さな声で「市民?」と恥ずかしそうに答える。僕は大きな声で「ということは?」と聞いてみる。
みんなが「え?」という顔をする。その女の子は、より恥ずかしそうに「みんなのもの」という。ぼくはさらに大きな声で、「ということは?」と聞くと、どこからか、「わたしのもの?」と疑問系で答える。
 みんな、こころのどこかで、自分のものと言っていいのか不安に思っているようだ。
 僕は答えた。「そう!ということは?」みんないっせいに「わたしのもの!」と叫ぶ。

日本の最前線

わたしたちの集合意思によって、あらたな公共物は生まれているはずである。その集合意思について、やっと考えられる時代がきたのだと思うと、先がながいなと考えなくはない。考えられるようになるためには、いままでの規範や因習と向き合わなければならない。それは教育の現場だろうと、実世界であろうと一緒だと思う。
 でも、新しい時代というのは、そういうことなんだと思う。
*写真と本文は関係ありません。

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