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岩内町郷土館令和5年第三回企画展「岩内少年団下田豊松の功績」⑤Activist(行動する人)下田豊松伝説

 豊松がロンドンの第一回ボーイスカウト世界ジャンボリーに参加してから、四年後、第二回の世界ジャンボリーがデンマークで開催されることとなりました。

 日本から派遣されたのは「少年団日本連盟」の理事、三島通陽子爵をはじめとする、全国から選抜された約30名の団員でした。下田豊松は、参加しませんでしたが、北海道から下田の人選で中村耕平、広田忠雄、安達勇、安達隆世の四名が参加することとなりました。


安達勇(左)と安達隆世。後部に岩内安達家の祖である、安達定吉の写真が見える。
安達定吉の逝去は、大正12年。勇と隆世がデンマークに出発したのが翌大正13年である。
前列左より安達啓治 下田豊松(日本健児団のバッジをつけている) 安達勇
後列左より下田喜久三 安達角次郎 安達克矢
下田兄弟と安達四兄弟の記念写真。勇のデンマーク出発前の記念撮影か。

 このうちの、安達勇と安達隆世の二人は、岩内の安達牧場、安達農場の家系に繋がる青年達でした。豊松はこの二人を、ボーイスカウトの団員としてデンマークに派遣します。
 そして、ボーイスカウトジャンボリーが終了したあと、二人を3年間その地にとどまらせて、デンマーク式酪農業の習得のために、当地の酪農家にそのまま留学をさせたのです。

 大正時代、北海道の農業は冷害や不作に悩み疲弊していました。豊松は当時の世界の先端である「デンマーク式農法」を青年達に習得させ、北海道で実践させようとしたのです。


デンマークの農場にて研修をする安達勇
ボーイスカウト運動としての繋がりは、全世界共通の信頼関係となっています。

「日本の農業は、デンマークの七十年前より劣っている。農民教育の必要を痛感した」と、安達隆世は後に著しています。
 デンマーク式酪農法を習得した、安達勇と安達隆世が北海道に帰ってくると、豊松は彼らを入植させるべく、倶知安の岩尾別に土地を準備します。その場所は、「元本願寺農場」と呼ばれていた土地で、明治時代からすでに開墾に入った人々があったが、強い酸性土のため不成功に終わり、みな逃げ出し打ち捨てられていたような荒れた土地でした。

 豊松はあえて、このような悪地に二人を入植させて、開墾が始まります。「デンマーク式農法」というのは、牛を飼い、堆肥を自給し自然のままに、ゆっくりと土壌を改良していく、循環型の農業です。二青年の新しい事業に対し、豊松は町や後志支庁、北海道などと連携を密にしながら、側面からあらゆる援助を続けます。

 そして昭和初期には、二人の安達は倶知安町屈指の酪農家となり、誰も顧みなかった岩尾別の荒れ地は、豊かな酪農の郷となりました。

 その大きな功績と美しい景観は、今現在も同じ場所に生き続けています。

令和5年10月。倶知安町岩尾別「町営花園牧場」。郷土館バスツアーにて。


(つづく)

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