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推しのゲーム

※父親の病気・死について触れる場面がありますのでご注意ください。


2022年10月、SideMの始まりのゲームであるモバゲー版アイドルマスターSideMは更新を停止。
2023年1月5日にサービス終了の運びとなった。
始まって8周年、いつかはと思っていたゲームがついに終わる。

リリース初日にチュートリアルを進めていたらメンテナンスに入ってしまいそのまま半年メンテナンスが始まり、逆に「こいつ…絶対遊んでやるからな…」と思って半年待った。(伝説の半年メンテである)
それまで自分は男性キャラクターと恋愛するような乙女ゲームの類は苦手だったのでアイマスブランドというだけで野次馬のような気持ちで始めてみたのだけど、所謂乙女ゲームの要素は少なくてキャラもなんかいい子ばっかりだったので思ったよりもハマってしまった。

最初にきた推しユニットのイベント中に5万くらい使った程度には。



(当時推しユニットをイメージして友達にやってもらったネイル)


そのすぐ一年後、時代はアプリの音ゲーとなりモバゲーでポチポチカード集めるだけのゲームはオワコンと化した。
わたしもログイン頻度が減ってゲーム自体から離れていたけれど、SideM自体はまだ好きという気持ちは残っていた。
オタクグッズの通販バイトの面接で「好きなコンテンツ教えてください」という質問にSideMと答えたら社員の1人に「あれまだやってたのか…」と小声で呟かれるような状態にあったがそれもまぁ仕方ないレベルだった。

その時期に、父は癌を患っていた。
一度治療してリハビリ中だったが1年後に転移が発覚し、また治療してリハビリして…とやっている最中だった。
舌癌だったので舌を半分失い、食事がうまくいかないなどの不調も抱えている姿を見るのはツラかった。
そんな状況であったが、人間いつ死ぬかわからないとその時思った私はもう一度東京に出たいという夢を半ば無理やり叶えさせてもらった。

元々絵描きになるつもりだったが実力が足りなくて上記のバイトを始めたが結果これが良い方に転がった。

特に仲良くしてくれた2人が同人誌を作るタイプのオタクだったのだ。
それまで私の周りには同人誌を作るオタクは少なかった。
彼女たちが同人誌を出すイベントの日が被っている、と聞いてイベントを調べたら同日のジャンル一覧にSideMもあった。
2人もいるなら見に行こうかな、と言ったら「何言ってるんですか?本出しますよね?」と圧をかけられ(?)初めて1人で同人誌イベントに申し込んだ。

記憶はもうほとんどないが、1回目をこなし2回目も参加した。
2回目のその日のイベントは雰囲気が違った。
偶然だったが同人誌イベントと同日にSideMの2ndライブが開催されたのだ。

その頃の私は男性声優にまっっっったく興味がなかった。
今を知ってる人なら相当驚くくらいまっっっっっっっっったく興味なかった。
(水樹奈々とか田村ゆかりあたりの女性声優が好きだったので…。)
なので正直ライブはノーチェックだった。
しかし浮き足立つ周囲を見ていると楽しそうで、盛り上がっている感じがして心地が良かった。
同人誌イベントが終わる頃になると早々に席を立ち「またあとで現地で!」と別れる人々を何度も見た。
いいな、と思いつつもわたしも含め一緒に参加してくれた友人はとくにライブは興味なかったのでお夕飯を食べて解散した、その夜だった。
Twitterが騒然としていた。
「SideMのライブ全人類絶対観た方がいい!!」という文言がTLに溢れ、神だとか泣いたとか最高とかそこいらじゅうで言われていた。

あれ?これもしかして観ないといけないんじゃないか?
そう思ってTwitterを追っていると専門学校の頃に同じ女子寮に住んでいた子のつぶやきが混じっていた。
「SideMのライブを知り合いからすごい勧められていて気になる…」
これはいい機会だと思い、わたしも明日急遽行こうと思うんだけど一緒にどうかと声をかけてライブビューイングのチケットを取った。

初めてみた男性声優のライブであったが結果、その1ヶ月後には声優46人全員の名前を覚えていた。
すごいよかった。
このライブの2日前にオタク職場の社員さんから「SideMはアニメ化とかしないの?」と聞かれ「決まってないけどやります!」とふざけて言っていたら、そのライブの終わりにアニメ化が発表された。
これが本当に嬉しかった。
そこからゲームも復帰し、同人活動も加速していった。

8月のいつだったか一度実家に帰って東京に戻った。
最終日具合の悪そうな父が心配だったが仕事もあるので…と戻ったのだが、9月の初旬に母から「忙しそうだから言わなかったが最終日の翌日から入院して退院できてない」と言われて驚いた。
何度目かの同人誌イベントで締切が終わるか終わらないかの頃だったので状況を確認し、実家へまた戻った。

父は横になったまま立ち上がることもままならず、医者は原因が分からないと言い、母はお父さんもうだめかもと弱気になり、1ヶ月間母と猫しかいなかった家の中は不思議と入るのが嫌になりそうなくらいどんよりとした空気が漂っていた。
このままだと母も身体を壊しかねないと察したわたしは、ここで東京から地元に帰ろうと考えるようになった。
いい職場で辞めるのは惜しかったが仕方がない。
一年目の治療で持ち直したと思ったが私のいない二年で取り返しのつかない状態になってしまった。

東京へ戻って上司に話を通し、11月で仕事を辞めることになった。

そのタイミングでSideMの2ndライブBlu-rayが発売された。
2ndライブの良さは割とオタク界隈に浸透し、1stライブの初回限定盤Blu-rayは大変なプレミアム価格となり2ndはどうにか定価で買わなくては!と思い慌てて予約したものだった。

実家のツラい出来事に対してSideMの真っ直ぐな明るさが救いのようだった。
エネルギーに溢れていて見てると元気になれた。
このSideMから貰った元気を今まで世話になった両親に還元しようと前向きになれた。

ちょうどアニメも放映されていて、母校のある駅に貼り出されていたポスターをわざわざ見に行ったりした



いつ病院に呼ばれても良い覚悟をしながら東京のアパートを引き払う準備を進めていたある日、ちょうど仕事終わった時間に「病院にきて」と呼ばれた。
ただならぬ様子にそのまますぐ上司に話し、新幹線に飛び乗った。
落ち着かない1時間。
最寄り駅から病院までは車で行かなくてはならないのですぐ車を取りに行きエンジンをかけた。

ずっとずっとこの先へ、世界は動き出す

何度も聞いたフレーズが飛び込んできてハッとした。
SideMの最初の曲、DRIVE A LIVEだった。
古い車で、CDを取り込んで録音しておくタイプだったので親が走らせている間にループしてその曲で止まっていたのだろう。

電話を受けてからずっとどこか遠くにいた意識が戻ってきた感覚があった。
お陰で事故を起こすこともなく無事に病院へ辿り着いたし、その日の父親は持ち直したのかなんなのか別になんともなかった。


それからまもなく私はアパートを解約し、実家に帰った。
ぼんやり仕事を探しながら同人誌を描いたり見舞いに行ったりしていた。
その頃には次の3rdライブが決まっており、静岡の公演に応募したりしていた。
可能な限りやりたいことはなんでもやりたかった。


確か4回目の同人誌イベントを控えた1月の夜中3時に母の携帯電話が鳴り、また車に飛び乗った。
エンジンをかければSideMのアニメOPであるReson!!がかかっていて「あの時と同じでまた助けてくれるんだな…」と一人で思っていた。
それから1日半ほど父の側にいて、食事もまともに食べていなかったのでさすがにちゃんとしたもの食べようと病院のレストランで昼食を母と食べて、戻ったその直後、突然心拍数などを測る機械の様子がおかしくなり、1時間後に父は他界した。
食べ終わるの待っててくれたんだね、と母と2人で泣いた。

介護職の叔母にこの写真を送ったら「最後の挨拶しておきなさい」と返事があって状況を理解した。



葬儀の前、叔母たちを駅に迎えに行っている最中に静岡に住む友人からLINEが入っていた。
「ライブ当落どうだった?」
ヤバい。静岡公演申し込んでた。今日?今日だっけ?
当落見るくらいならいいか…と手隙で確認した。
当選してた。
当選。

ちょっと。今かよ。ありがとうございます。
混乱しながら父のことは伏せ、当選を伝え、4月に会おうと約束をした。

悲しさの中に希望をひとつもらった。

母が喪主の挨拶なんてできない…と言うので私が立った。
その時も心のどこかにステージに立つ彼らの姿を思い浮かべた。
1人ではツラいけど、アイドルたちが支えてくれているように感じた。

夜中のお線香の番も原稿を進めながら、5時から一時間ほど寝て、喪主として弔事をこなしながら2日か3日ほど過ごした。

変な奴だと思う。
親が死んでも仕事でもない原稿を描き続けるなんて今までの自分では考えられなかったが、この原稿があることで父との別れが済んだあとの生活を考えることができたと思う。
そうでなかったら燃え尽きて消し炭となって立ち直れたかどうかわからない。

弔事が終わったその日、脱稿した。
全てが終わった安心感か、ものすごい腹痛に襲われて這うように布団に入り寝た。




イベントは葬儀の直近だったが、母が「とにかくあんたは色々がんばってくれたし、行っといで」と言ってくれた。
売り子氏にもそのように話し(心配かけるのであとで話そうと思ってたら新聞のおくやみ欄でバレたし通夜にも来てくれた)色んな意味で渾身の2冊の新刊を抱え、東京へ行った。
それぞれ100冊刷った本が80冊と50冊弱売れてこんなに嬉しいことはないなと改めて思った。
この辺りから「あなたのお陰でこのキャラの良さに目覚めました!」と言ってもらえることが増えた。

たかが同人誌ではあるが、あの時頑張って良かったんだと肯定してもらえたようなイベントだった。



それからすぐ日常が戻ってきた。
まだ心のどこかに父のことが残っていて、それでもこれからSideMの楽しいことが沢山あって、ここで頑張らないとまた後悔するなと思い直して、途中で止めてしまっていた就活を再開した。
億劫な面接申し込みもイマジナリー天道輝が「プロデューサー!一緒に頑張ろうぜ!!」って言ってくれて一歩を踏み出せた。
アイドルに会うために金が必要だと必死になれた。
先方のミスなどが重なり(そもそも応募をかけてなかったのに取り下げてなかった等)結果はあんまりよくなかったけど、それでも止まらないでいられた。

あのときアイドルマスターSideMがなかったら、果たしてどうなっていただろう。

なんだかんだどうにかなっていたとも思うけど、少なからずいい気持ちではやれてなかったと思う。


それから、SideMの曲を聴き込むうちにやりたいことをやらないと夢もなにも叶わないと思うようになり、実家に帰ったら落ち着くしかないと思っていたのにまたどうにか絵の仕事ができないかと思うようになった。
最初は漫画を描こうと思った。
漫画家になってアニメ化して声優をSideM声優にして見学で遠くから見守りたい…と変な夢を語るようになり、前より本気で描こうとした。
そのうちにプロ奢ラレヤーという存在を知り、いつの間にかイラストを使ってもらえたり界隈の人のアイコンを描かせてもらったりするようになった。

あの時アイドルマスターSideMがなかったら、なんにもせずぼんやり過ごして妥協して生きて…今みたいに面白おかしい生活はできてなかったと思う。
絵を描くことでお金をもらう方法にもたどり着けてなかったと思う。
才能がない中でもなんとかやっている方になれたのは、SideMが「諦めなければ夢は叶う」と言ってくれたから。
ツラく苦しいことがあるときも明るく照らし続けてくれていたから。

ありがとうアイドルマスターSideM。
ソーシャルゲーム版アイドルマスターSideM、長い間本当にお疲れ様でした。
SideMはこれからもわたしの人生の大切な一部であり続けることでしょう。

気に入って貰えたら嬉しいです。