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第31回 没後80周年 松田甚次郎 展をみて①


はじめに

 これは、現在8月2日から開始した、松田甚次郎展についてのメモである。
会場  山形県新庄ふるさと歴史センター 2階  歴史民俗資料館

会期  令和5年8月2日(水)~10月23日(月)
休館日:火曜日・祝日の翌日(翌日が土・日曜日・祝日の場合は開館)※臨時休館にご注意ください! 9月9日(土)~10月6日(金)/空調設備改修工事のため


新庄ふるさと歴史センター
パンフレット


松田甚次郎展しか見なかったのですが、2階の展示については撮影可とのこと。

宮沢賢治との出会い

『土に叫ぶ』では、度々訪問していたような書きぶりだが、日記の検証によればたった二度の訪問であったと考えられている。一度目は、昭和二年三月八日である。そして、二度目は同年八月八日である。

宮沢賢治氏面会とありますね

まずは最初に述べなければならないのは、宮沢賢治と松田甚次郎は、盛岡高等農林学校の先輩、後輩にあたるということだ。これは現在も、旧盛岡高等農林本館(農業教育資料館)でも両者の資料が展示されているので是非盛岡に行った際はご覧いただきたい。

羅須地人協会の活動を報じた1月31日付 「岩手日報」 の 記事を見て、盛岡高等農林学校生の #松田甚次郎 が、 #宮沢賢治 を訪ねて来た。

この日の松田の日記には、次のように記されている。

「今日の喜ビヲ吾の幸福トス
ル 宮沢君の誠心ヲ吾人ハ心 カラ取入ルノヲ得タ 実ニカクアルベキ然ルベキナルカ吾ハ従ツテ与スベキニ血ヲ以テ尽力スル 実現ニ致ルベキハ然ルベキナリお郷里の方々! 地学会、農芸会 此の中心に吾々のなすヲ見よ、現代の農村生活ヲ生カスノダ」

日記 3月8日 hamagaki 氏 賢治と詩の世界 参照

甚次郎の生い立ち

甚次郎は、 子どもの頃から特別人目を引く子ではなかった。 ただ彼の生家 松田家は、 新庄鳥越120戸の集落で一番という大地主である。 父甚五郎は鳥越信用組合を興し、 村議、 山林組合長などの諸役を努める村きっての顔役でもあった。こうした家の総領息子として、 1909(明治42)年3月3日に甚次郎は産声 を上げる。 小学校から県立村山農学校に入学・卒業後、 続いて 1926 (大正15年)年に盛岡高等農林学校別科 (現岩手大学農学部1年制)に 入学し、翌年に同学校を卒業後、帰村。 

ここからは、著書『土に叫ぶ』が詳しいが、宮沢賢治が送った言葉、一、小作人たれ、ニ、農村劇をやれ  を実行していく。

先生は「君達はどんな心構えで帰郷し、百姓をやるのか」とたずねられた。 私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になりたい」と答えたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、また優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ― 一 小作人たれ 二、農村劇をやれ」 と、力強く言われたのである。 語をついで、「日本の農村の骨子は地主でもなく、役場、農会でもない。実に小農、小作人であって将来ともこの形態は変わらない。不在地主はなくなっても、土地が国有になっても、この原理は日本の農業としては不変の農組織である。社会の文化が進んで行くに従って、小作人が段々覚醒する。そして地位も向上する。素質も洗練される。従って土地制度も、農業政策も、その中心が小作人に向かってくることが、我国の歴史と現有の社会動向からして、立証できる。そして現在の小作人は、封建時代の搾取から、そのまま伝統的な搾取が続けられ、さらに今日の資本主義的経済機構の最下層にあって、二重の搾取圧迫にあえいでいるのだ! この最下層の文化、経済生活をしのびつつ、国の大道を躬行し、食糧の産業資源を供給し、さらに兵力の充実に貢献しているではないか! なんと貴く偉大な小作農民ではないか! 日夜きうきうとして、血と汗を流して、あらゆる奉公と犠牲の限りを尽くしている。ところがこの小作人に、真の理解と誠意を持つものは、一人もないのだ。みんな卑しんで見下げて、さらに見殺そうとまでしているのだ。こんなことで日本の皇国が栄え続けて行けるか。日本の農村が真の使命に邁進して行けるか。君達だって、地主の息子然として学校で習得した事を、なかば遊びながら実行して他の範とする等は、もっての他の事だ。真人間として生きるのに農業を選ぶことはよろしいが、農民として真に生きるには、まず真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労とさらに加わる社会的経済的圧迫を体験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言おうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮沢が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮沢を信じて、実行してくれ」と、懇々と説諭して下さった。私共は先覚の師、宮沢先生をただただ信じ切った。 

『土に叫ぶ』松田甚次郎 著

甚次郎は心に言い表わしようのない、大きな衝撃を受けて帰った。 純粋な魂が同類を発見するのはそう難しいことではない、とはよく言わ れることだが、賢治と甚次郎のめぐり逢いもまた、 人の運命を決するほどの、貴重な瞬間であった。

まずは、この小作人になりたいという申し出についてだ。村中の笑い者になるだけで、 松田家の体裁にかかわると激しい反対を受けるが、 父甚五郎は熟考の末、 息子の願いを聞き入れ、 父と子の間で6 反歩の小作貸借が成立する。 こうして自宅から数百メートル離れた場所 3坪の小さな小屋を建て、 小作人生活に入った。家の者が体裁が悪くなるからと、泣かんばかりに頼んでも、甚次郎は、労働用の股引 と半てんを着て、町へも役場へも、どこへでもそのままのいで立ちで歩いた。

代表作 『土に叫ぶ』 昭和十三年 羽田書店 出版
賞状と賞品

ベストセラー『土に叫ぶ』と『宮沢賢治名作選』出版の経緯

出版元の羽田書店は衆議院議員の羽田武嗣郎(羽田孜首相の父)が始めた出版社である。 後 にベストセラーとなる甚次郎の実践記録 『土に叫ぶ』 がここから出版されることになったのは、 1937 (昭和 12年) 春、 農地調整法が衆議院に上 程されるというので、上京して甚次郎が国会議事堂内で羽田に出会ったことによる。 そのとき羽田が甚次郎のこれまでの 「十年間の生活記録をぜひ書いてくれ」と頼んだのである。その羽田のたっての頼みを受けた甚次郎は、まとめることも、書くこと が自分にははたして出来るだろうかとさんざん迷った末に、 「私のようなものが書いたのものでも皇国と農村の弥栄にいくらでも役に立つならば と最善を尽くして書くことを心に決めた」のであった。

宮澤賢治の弟子として働き、 苦渋の労働を自分の農魂錬成の糧とし、 大地をしっかりと歩み続ける甚次郎の体験記は読者の共感を呼び、 当時と しては驚異的なベストセラーとなった。 発売直後から、 甚次郎のもとに は全国から連日にわたり励しの手紙が届き、 その数は三千余にも達した。中にはサイロの作り方、ホームスパンの製法、 蜜蜂の飼育方法など の問い合わせも多く、いちいち返事を出すのに苦労するほどであった。

それだけにとどまらず、1939(昭和14)年、 甚次郎が編者となり、羽田書店から 『宮澤賢治名作選』 が出版され、 甚次郎の名前もあり、この書 も売れに売れた。 これにより、 おそらくは甚次郎自身も予想しなかったことだろうが、それまでごく限られた詩人や文壇人にしか評価を受けて いなかった恩師宮沢賢治を広く天下に紹介する役目を果たした。

終わりに 

展示を見ていて、日記や『土に叫ぶ』からの引用文は無かったが、まだまだ魅力あるパネル、展示品が並ぶ。決して新庄まできて損はさせまいという展示だと感じた。ぜひ、残りについては展示場に赴いて筆跡や展示品から松田甚次郎を感じていただけたら幸いである。もし、より詳しく知りたい方がいれば、すぐ近くに新庄市立図書館があり、郷土コーナーに松田甚次郎の一角がある。ぜひ興味のある方は足を運んでいただきたい。また、食事先には、すぐ近くに美味しいそばや、さぶんがありオススメ。ぜひ、新庄で松田甚次郎の史跡巡りと併せて松田甚次郎展、ご覧ください。

新庄ふるさと歴史センター内、展示コーナー
新庄市立図書館内、郷土コーナー
松田甚次郎 分

参考資料
新庄市歴史民俗博物館
松田甚次郎展






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