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直観物理とは?                 【直観物理と相似象 その1]                          

微視と巨察を統一的に直観した上古代人の相似の学びは、科学の進歩に役立ち、末世の宗教を理学化して、人類の福祉を増大することになります。

楢崎皐月:励ましのことば (相似象学会誌創刊号)より

 ここでは、楢崎皐月氏がカタカムナ文献からヒントを得て、<アマ>の世界から直観をもって受け取った、「カタカムナ人の直観物理」の叡智を中心に、相似象学会誌「相似象」の中で発表された内容を参考にしながら解説していきます。

カタカムナと直観物理

 上古代人の直観力は、現代人の想像も及ばないほど研ぎ澄まされたもので、宇宙の深遠や自然の背後に隠されている何物をも射貫くほどの力を持っていました。その鋭い直観をもって、天然、自然に関わる高度の物理を把握し、それに適う生活技法を取り入れた文明を築いていました。

 カタカムナとは、「形あるもの(カタ)は、形の無いもの(カム)の分身(ナ)である。」という意味ですが、もう少し詳しく説明すると、<カタ>とは片々のカタのことです。つまり「私たちの見ている宇宙は世界のスベテではなく、それは片々である」という意味なのです。このカタの世界は私たちが五感や計測器を使って客観的に見ることのできる現象界です。また<カム>とはカタチ無く、目には見えぬ」という意味なのであり、この現象界の背後にあるカムの世界を潜象界と呼びます。また、<カムナ>の<ナ>は(ダンナ)の(ナ)のごとく「代表する存在」とか、「内側に内在する支配の主」という思念を表す音です。(ナには、「ナナツ(七)」のナ、「成る」のナの意味、更に繰り返しの意味があり、方向性をも示します。)

 現代理学用語を使えば、<カタカムナ>とは、「現象(客観)世界の背後にあり、現象世界を支配する潜象の基礎物理量、及びそれに基づく物理」ということになります。

 基礎物理量とは、すべての現象事象の根源にある「始元の量」のことです。この量は計測器では測ることが出来ないために客観の対象とはなりませんが、しかし潜象世界には確かに存在している物理量です。

 ところが上古代人の第六感的身体感覚はそれを感じ得て、身近な出来事や天変地異のような重大な出来事に対して予測する機能を健全に保っていました。現代においても少数ながら、シャーマンのようにそれらを感じ取ることのできる「カン」の鋭い人が存在しています。

 上古代人的に言えば、現状の「自然科学」の「実証物理」は、客観的現象面のみを対象としていて、それは片々に過ぎないのです。現代科学は、大脳の思考力により、ものを微細に分析してから、自分の都合の良いように物事を組み立てる論争(ディベート)によって発達したために、自分の不得手なアプローチは避け、反対意見を抹殺しようというこじ付け的、闘争的な傾向が生じることがあります。また、このような方法では、細分化された枝葉末節ばかりを論ずることになり、本質を担うべき木の幹や森林の全体が見えず、総体的、統合的なものの見方が出来ません。

 例えば、生命の問題を探求しようとするときに、臓器や組織の解剖学的な考察、あるいは血液の循環や免疫機能の働きのような生理作用の考察といった、物質や細胞質の現象中心の観方のみにとどまってしまっては、生命の発生の根本を観ることはできません。あるいは、地球環境保全について会議を開いて討議するにしても、二酸化炭素増加を抑えるといった的外れな問題にすり替えられてしまい、何らの抜本的な解決を見ることが出来ません。(数百年のスコープで地球気温を見れば確かに上昇しています。しかし、地球の地質年代というさらに長いスパンで観れば、地球は長い氷河期と短い間氷期を繰り返しています。そして現在は縄文時代初期から始まった間氷期がほぼ終わりになり、これからもっと長い氷河期がやってくるのです。温暖化よりも、寒冷化に向かっているのです。それがどうして発生するのかの原因究明ができていません。)このようなカタのみに注目した観方を続けていたのでは、どのような努力をつぎ込んでも真実に行き着くことが出来ず、「ブレ」てしまう結果となってしまいます。

 一般に、思考と直感とは正反対の関係にあり、低い次元では思考が発達すれば直観は鈍るのです。しかし、真の知性とは、両者が共に成立したものなのです。上古代人の物理は、現代人の自然科学の物理とは異なり、直観力を発揮して客観的現象とその背後にある潜象をともに論じた「天然科学」ともいうべき物理であり、その内容は、カタカムナ文献として、実に理路整然とスッキリした体形で表現されました。そして、楢崎皐月氏はそれを「直感物理」と呼びました。

天然について

 宇宙の森羅万象の生じる自然界の背後にある潜象の世界を天然界と呼びます。あるいは楢崎皐月氏は無限の始元世界とも呼びました。天然界は、現象世界の背後にありながら、絶えず変遷を繰り返しながら生成を繰り返しています。天然とは、天然界を支配するコトワリである天然理に従い、現象の背後にあって、潜象を呈しています。この潜象とは、人間の五感による感知、すなわち客観はできないが、確かに存在する天然界の変化なのです。

 これに対して自然理(自然界を支配する理)は、常に天然界の干渉を受けて成り立っています。天然と自然とはダイアド(双対)の構造をしています。実は驚くなかれ! 私たちが何気なく使っている日本語では、天然界と自然界とをちゃんと区別するような構造になっていて、私たちは天才、天与、天命などとは言いますが、自然才、自然与、自然命などとは決して言わないのです。

 現代科学の立場から言うと、宇宙は無限の広がりを持ち、宇宙現象の一切が自然であるとされ、天然は神秘思想の産物であって、自然科学の発達と共に、神秘のヴェールが剥ぎ取られていくものであると考えられています。
 しかし、神とされる天然は、現象の背後にあって決して客観の対象とはなり得ないのであり、自然科学によるだけでは、天然の潜象のすべてを客観し、確認しようとすることは不可能なのです。

 ところで、20世紀以後の科学においては考え方も進み、宇宙は球状で有限である、という考えが支持されるようになって来ています。これを最初に提唱したのはアインシュタインです。
 そして、宇宙は球状の外界に対して、膨張、収縮の動きを繰り返しながら、宇宙に接する無限の外界中を螺旋的に運動しているという見解に至りました。宇宙は球状であるゆえに三次元の世界であり、時間の経過を伴ったラセン運動を考慮すれば、宇宙は時空の四次元構造をしていますが、その宇宙球に接する無限の外界は、時空の拡がりを超越した時空始元の世界だということになってきました。
 最近の様々な学者の説によれば、自然の現象界は、極大の宇宙から、極微の素粒子の世界に至るまで、外界を伴う構造、すなわち始元量を潜めた構造であり、ラセン運動を続けています。言い換えれば、宇宙大の世界と素粒子の極微世界は、構造と運動パターンが相似象である、と言われています。

 現代の理論物理学の中で、一部の潜象世界の粒子をモデルとして考え、それを現象の観測によって立証しようという動きが生じています。例えば、陽子や中性子が3個のクォークの組み合わせで構成されると仮定すると観測結果がうまく説明できるために、クォークの存在が予言されています。しかし、物質としてのクォークは未だに観測されてはいません。実際、直観物理においては、クォークに相当するものは潜象の粒子のモデルであるために、現象界で単独に抽出されたり観測されたりすることはありません。

 このような宇宙の球状感覚や、時空間の概念や固有時間、粒子性波動性の重畳理論、クォークの預言等は、いずれも卓越した科学者の「直観」の賜物であり、科学の進歩はそれに負っていると言えます。

始元量<マ><アマ>

 カタカムナでは、潜象界の始元の量を、<マ>あるいは<アマ>と呼んでいます。<マ>は一切のもののハジマリであります。そして<ア>らゆるものの中にある<マ>が<アマ>なのです。アマはすべてのモノが出現する以前の状態であり、潜象(カタチが無い)であり、無限の量です。また、万物を生み出す根源ということから、「アマ」、「アマ」、「アマ」に通じています。アマは時間空間の始元量であり、また現象界に物質、生命質を生成する潜象の始元量でもあります。数学的には<アナ>といって「ゼロ」のことであり、アマをどれだけ加えてもやはりアマとなります。またアマを微分すると単独の<アメ>となりますが、この考え方はゼロの発祥地インドにはありませんでした。

 アマは現象世界のあらゆる現象の中に潜在し、それを<アマナ>といいます。アマナが増加し、密度が大きくなってくると、その体積は逆に減少し、密度はさらに急激に増大して行き、客観外の物質であるエネルギーに変化します。また、現象界には質量を伴う陽子・中性子(ウキフヌという)が多量に生成され、原子を発生させる状態になります。原子力とは、時間・空間の質量の潜在的エネルギーで、それが小さい原子核の中にたくさん詰まっていて、その存在する形が「マ」なのです。

 アマナは無尽蔵にあるのですが、人間の五感や計測機器では捉えることが出来ないため、これを探ろうとすれば、何らかのモデルを仮定して現象界に生じる結果からそのモデルが正しいかどうかの検証を行うしかありません。

 数学的な「アナ」はゼロ、無、空、丸い輪の総称等の意味があります。また、アマの内在する円いワの意味で、<アワ>とも言います。アワは水の泡や女性の持つプラス(陽)電氣に通じています。一方、男性が持つのはマイナス(陰)電氣で<サヌキ>と言います。
(電気量の陰陽は、現代電磁気学のプラス・マイナスの電氣特性に合わせたもので、易学で言う陰陽(すなわち、サヌキ=陽、アワ=陰)とは逆になっていることに注意。)

 サヌキ、アワは現在の日本において、対の地名として残っています。
 ● 讃岐(香川県)と 阿波(徳島県)
 ● 佐貫(茨城県)と 安房(千葉県) 

 現代科学では、マイナス(陰)電氣を持つ電子がサヌキと相似です。また、半導体物理における、電子の海の中の泡であるポジティブ・ホール(正孔)は、プラス(陽)電氣を持つことと等価であり、アワに相似な現象と捉えることが出来ます。このように、上古代人には、似たものをまとめて、相似象として単純化、抽象化する能力があったのに対して、現代人は物事を分析分解して複雑にし、挙句の果てに混乱に陥っていることが多いです。(このことは、「専門バカ」という現代日本語に象徴されます。)

 アマの始元量から始まって、そのアマは様々な変遷を繰り返し、潜象のアマの組織的構成物やエネルギーを経て、現象世界の物質や生命質となって顕れますが、そのようなアマからの遷移現象を<アマウツシ>と呼んでいます。アマウツシには多種多様の姿があり、天然の種々の相(スガタ)があります。心もアマウツシの一種です。

 また、カタカムナでは、以下のような潜象、現象の表現があります。
<アメノソコタチ>  宇宙が膨張性のあることの表現
<アメノソギタチ>  宇宙が収縮性のあることの表現
<アマノヒトツネ>  3つ共に、宇宙の一切は無限のアマの始元量を
<アメノウヅメ>      同根として、螺旋運動を続ける姿が、
<アメノヒトツカタ>    いずれも相似の姿であるという内容の表現

 それ故に、現代科学は上古代の直感の後を追っているようです。 

 また、楢崎皐月氏はカタカムナ文献において、生命体についての、天然の支配する自然現象の巧妙なモデルが示されていて、それは未来の動力機関と無尽蔵のエネルギー発生源(すなわちフリーエネルギー)を表している、と言っています。
 そして、生命体に関しては、<イザナギ、イザナミ>という二神の生みませる、次の神々の名が、飛躍した考えを提示しているように思える、と述べています。

<アメクニサヅチ>、<アメクニサギリ>、<アメクニクラド>、
<オホトマトヒコヒメ>、<アワナギナミ>、<ツラナギナミ>、
<アメクニミクマリ>、<アメクニヒザモチ>、<シナツヒコククノチ>

 生物学者たちは、「生命体は弾力性に富んだ変転極まりの無い生命現象を呈し、形式論的な観方や、単純に割り切ったような考え方では、自然の実相は掴めない」と言いますが、楢崎氏もこれを肯定しています。その上でしかも、以下のように述べています。

 私は上記の神名は、人体における簡素化されたスパイラル運動の成り立ちを暗示していることに気が付き、試行錯誤によって暗示通りのモデルが感覚され知覚されたのであります。誰でも入念な観察を行い、適当な言葉もつくられていないので、これをわかりやすく説明することは至難でありますが、決してウソではありません。誰でも、入念に観察し、勘を充分に働かせて思考すれば、生体の呈するスパイラル運動の意味が理解できる筈です。

「相似象」創刊号 16ページ

 楢崎氏の意図は、天然によって宇宙のスパイラル運動を起こす、その機動力を利用して、生体構造と同じ機構で、無限のアマウツシを導入する機関を造ることにありました。楢崎氏はまた、それは無重力場でも働くことが出来るのが特徴である、とも述べています。

 更にまた、心霊現象については、以下のように語っています。

 「私の考えでは、心霊という言葉を使わないでも、心という機能は天然種に属する潜態的物性心理で扱うべき性質のものと思います。『大脳の機能(アタマ)は自然理に従い、心(ココロ)は天然理に従う』という考え方は、東洋人に共通する概念、すなわち間主観でありましょう。神代時代の人々は無限界の始元量を<アマ>と云い、<アマ>は時間空間量の始元であるとともに、物心現象量の始元量であると直観していました。そして心は<アマウツシ>すなわち始元量の遷移という潜象の一種であると観ていました。<アマウツシ>という始元量の遷移現象には、多種多様の姿があり、科学では認識できなかった種々の相(スガタ)があります。おそらく易や占いなどでいわれるものも、心霊現象という内容も、その種々相の一部に当たるものかもしれません。(中略)とにかく私たちの祖先の、上古代の人々は、直観によって明確な『天然観』を持っており、それは、後世の神秘思想とは、全く別物であったと思われます。」

「相似象」創刊号 17~18ページ

上古代人の抽象特性

 万象の複雑多岐のスガタから、共通するカタチとして描き出したものは、タマでした。上古代人たちは直観によって天然自然の関連をサトり、そのスガタを数々の「抽象物」に託して表現しています。その中には宇宙創成を表現した<ヤサカノマガタマ>という7種類の単玉、並びに宇宙に漂う生氣を表現する<イホツノミスマルノタマ>という11種類の双珠があり、その抽象特性が示されています。

ヤサカノマガタマ(7種) 「相似象」第4号より
イホツミスマルノタマ(11種) 「相似象」第4号より

 また、サトリを「円形図象」で表現した<ヤタノカガミ>すなわち<カタカムナ図象>や、<フトマニニ>と言われる<フトマニ図象>は、「タマ旋回マワリテ」並びに「循環メグル」のスガタを表しています。このように、一切がタマとして感受されたのです。

 また、「時間空間トキトコロ」にも「旋転性マワリタチ」があります。その時間的空間量を統合したものが<マ>であり、その<マ>の微分である<マリ>にも旋転性があるのです。そして、<マ>や<マリ>が球心部で重合し、球の対応面において、旋転に伴って、時間量と空間量に交換分離するスガタがあります。先に述べたように<マ>は一切の始元量であるという見方から、<マ>を通常<アマ>とよび、<マ>から微分され、微粒の思念を伴った<マリ>を、<アマ>に対して<アメ>と呼ぶのでした。

球形とは、最も安定な形である

 「球形タマ」とは、ものの「保安自衛のカタチ」です。原子、電子、細胞、種子、卵、地球、太陽等も皆「球」の相似象です。人間の身体を構成する細胞も血球も球形です。また、動物も冬眠時には背中を丸めて丸くなって身を守っています。私は以前、冬の山中で、天然記念物のヤマネが樹木に巻いてあった藁の中に入り込んで冬眠していたのを見たことがありますが、それこそ、本物の球のような姿になって寝ていたので驚いたことがあります。

冬眠中のヤマネ

 「万象のカタチを抽象してタマとした」り、「タマがマワル」のは何故かと言えば、球形が「もっとも恒久的に安全を保とうとするカタチ」であり、球形になろうとする性質は、すべてのモノがアマから受け継いでいるもので、それがすなわちアマの性質タチであり、「イノチ」のもととなるからです。生物にとっては本能となってゆき、またこのアマの性質が「神の恵み」と感じられるのです。アマはその本来性として、アマから生まれたスベテのモノを守り、アマの微粒子ココロすなわち<アマウツシ>を与え続けるからであります。

 アマ、マリというタマタチ(結球性)から移行した物性としての諸性質には、粒子性、凝集性、タバネタチ、カサナリタチ、マトマリタチ等があります。

 アマはいつも均等に存在するのではなくて、マのカタヨリがあり、そこから正反の転性マワリ循環メグリの動きが生まれて、マは結球してマリとなり、次第に重なって濃密になり、ココロとなって、生命質の細胞や物質の原子の中に入り込んでいます。ココロはアマの微粒子であり、常にアマに通っています。そして、動物・植物・鉱物・液体・気体のすべての中に存在しているのです。「ココロが通う」とは、本当にアマの微粒子ココロ(イカツ=男電氣(サヌキ)と女電氣(アワ))が通っていることを言うのです。

時間空間量の特性

 一般的に現代の自然科学では、時空間は無限量を持つとされていますが、ニュートンは球状感覚を持ち、熱や光を粒子として捉えていました。また、アインシュタインは、大多数の人々が宇宙は無限の広さを持つと思っていた時に、「宇宙は球状だ」と言い出しました。そして、望遠鏡技術の発展の結果、それは確かに検証されたのです。このように、アマウツシによって与えられる「直観」は科学に大きな貢献をしているわけですが、問題はそれを裏付ける物理(コトワリ)の内容にあります。

 例えば、時間空間トキトコロも互換重合の粒子マリ性で捉えられると言われても、空間の粒子性はまだしも、時間の粒子性についてスンナリとイメージするのはなかなか難しいことと思われます。私たちは時間とは「過去から未来に向かって連続的に直進するもの」という時計概念のみを抱き、それを固く信じて疑わないからです。

 また、光が「粒子性であると同時に波動性である」ということも、20世紀になってわかったことであります。しかし、それは現象がそうであるからそうせざるを得ないという理由に基づくだけのものであって、本当の理由は何であるかというところまで掘り下げるには、モノだけを客観視している現代物理学には限界があって、それ以上は追及することが出来ません。

 しかし、直観物理においては、このような現代物理学の未解決問題をもっと根源まで掘り下げて扱っているのです。

 直感物理では、「トキを時間空間的な波動周期性として捉えると同時に、粒子として捉え、<マ>においては時間空間が重合している」としています。

 例えば時間は「今」という「瞬間」で微分されることは分かると思いますが、その微分されたモノを時間空間の粒子として扱おうとしているとすれば、時間の微分性が理解されます。また、空間については、直感物理では空間を「マの密充てん状態」として捉え、その空間トコロを占めるモノ、すなわちそこに位置を占める存在物(物質、あるいは生命質)を、空間の存在質量として捉えているのです。

 したがって、時間が微分されて「今」になると同時に、空間も微分された重合互換状態のマが、密に充てんされている全体をアマと見たのです。時間空間トキトコロとは、観念上の一つの元ではなく、アマと自分たちの存在に刻々と関わり合う微粒子マリであるというわけです。

 このように直感物理では、「今」を、時間空間トキトコロの微分された粒子マリであるとし、それが生命や物質になって、「空間(トコロ)」と互換しているものとして捉えています。つまり、「位置」には時間的位置(時点)も、空間的位置(地点)もあり、「位置を占める」とは、時間空間を占めることになります。

 つまり、その空間(地点)を占めるモノは皆、在位置量として「時間空間トキトコロ」を持つことになり、それによって、「個々のモノと関連した時間を持つ」ことになります。このようにして、物質や生命質を構成する時間は、微分されたマリの変形したものであり、空間的な地点と同様に、時間空間トキトコロが変形して粒子に変わるものだとされます。つまり、時間空間は微分されて変形し、粒子に変わるものであるとされるのです。

 つまり、「時間空間の位置・今」を、現代物理流に「空間的位置」とか「時間的今」という概念で捉えれば少しイメージがつかめると思いますが、例えば、椅子があって、そこに人間が座っているとすれば、両者とも「同様の空間と時間の位置を占めている」ということであり、その「時間、空間の持続」つまり、時間的位置と空間的位置の特徴が「イのチ」すなわち生命なのです。

 アマ、マリ、ココロから、物質、生命質の基礎粒子(原子の構成粒子カブシヌ、ウキフヌのこと。現代物理の電子・陰子、陽子・中性子に当たる)への変遷を示しています。しかし、現代物理学で扱っている基礎粒子は素粒子のみですが、これは、直感物理から言うと構造のある複合的なモノという扱いになるのです。直感物理ではさらに根源が追及されており、生命の力に関して、あるいは始元量、電氣素量等を考慮して、現象界、潜象界を統合してより現実に即したマトマリを持った、より抽象的で簡素な体系が構築されているのです。

 抽象は、一見わかりにくいものにすることのように感じられますが、「共通の象(カタチ)を抽(ト)き出す」ことであり、それによってできるモデルは、簡素で分かり易いモノになるはずです。万物万象にはおのずから通じるコトワリがあるからこそ、抽象が成り立ち、簡素化されるわけです。これによって、例えば外見が実に様々な象(カタチ)をしているモノであっても、要するにタマ性、といったように「抽象」が可能になるのです。













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