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嵯峨野の月#112 橘秀才

第5章 凌雲10

橘秀才

この時代、当代髄一の芸術家は誰かと尋ねたら都の人々は必ず彼の名を答えたであろう。

彼は賜姓皇族という高貴な血筋に生まれながら謀反の罪に問われた祖父の代で家は没落。十八の時に父も死に、生きている間に五位を賜るかどうかという位将来は閉ざされていた。

二十二の時、己が人生を賭けて遣唐使に志願し命懸けで海を渡り唐長安で最新の書体と楽を学び日の本に持ち帰った。

筆を持たせたら彼にしか書けない字を書き楽器を持たせたら彼にしか奏でられない調べを奏で、

書の大家である柳宗玄りゅうそうげんは彼の類稀なる才能に惚れ込み

橘秀才きつのしゅうさい

という称号を贈り褒め称えた。

以降、橘逸勢は帰国後も橘秀才と呼ばれ続ける事になる。

弘仁九年(818年)晩春。

内裏の庭の白砂をくつでしゃりしゃりと踏むこの乾いた感触が心地よい。藤の花も散り梅雨が来る前の程よく乾いたこの季節が逸勢は大好きだった。

この日の逸勢は細長い布包みをまるで幼子でも抱くように大儀そうに抱えている。
それを見た宮中の役人が「お荷物は従者に持たせればよろしいでしょうに」と言うと逸勢は屹と顔を上げ、

「楽人なら何時如何なる時にも愛用の楽器は手離さぬものです」

と言い切った。相手はそ、そうですか…と首をすくめるしかない。逸勢の楽に対する執心の深さは宮中の誰もが周知の事であった。

宮中でとりわけ警備の厳しいある部屋に着いた逸勢は見張り役の武官に名と身分を告げるとそれだけで武官は
「橘秀才さまのお越しを楽しみにしておりました」と顔を上気させ、逸勢を室内に通した。

「入るぞ」

と逸勢が告げるとがさがさがさっ!と紙の束を片付ける音が戸越しに聞こえる…

「どうぞ」
と言われて戸を開けると文机を脇に押し退けていた空海が少し息を乱しながら慌てて床座して学友の来訪を迎えた。

実は空海、二月ふたつきほど前から帝の密命でここ宮中の一室に籠って何かを書いている。どうやら高野山下賜の交換条件に帝から出された私的なものらしい、が、

空海自身を極秘裏に宮中に住まわせ、彼の弟子すら近付けない徹底ぶり。

これでは帝の我儘で空海が軟禁されているようなものではないか。

と思った逸勢は是非見舞いに、と従姉妹である皇后嘉智子を通し帝にお願いして許可を取り、空海の前で早速布包みを開けて中からきんを取り出して見せた。

この時代のきん、と言うのは古代の大陸より伝わる七絃琴として知られる桐の木で作られた本体に黒い漆を塗って仕上げられた長さ三尺余り、幅五寸足らずの絃楽器を指す。

徽きと呼ばれる十三個の目印により左手の指で絃の長さを区切って音程を作り、右手の指で絃を弾く。
そうとは違って琴柱ことじや琴爪は用いず爪弾ける琴は唐では文人が嗜むべき弦楽器として普及していた。

「部屋に籠りきりで疲れているだろうお前にせめて楽のお見舞いをと思ってな」

「それは有難い事です」

逸勢は空海にあてがわれた文机に琴を乗せると孔子が作曲したと云われる曲、碣石調幽蘭第五けっせきちょうゆうらんだいごを弾き始めた。

箏ほどの華やかな高音は出ないけれど琴特有の肚に響く低い音声は室内に籠って作業を続け、血がのぼせていた頭を鎮めてくれた。

「…いやあ、逸勢どのの音は帰国なさってますます深みを増したように思われます」

「これでお前に呉れてやった玄象と合わせたら最高の音が出せたのになあ」

ともう十年以上も前の過去の失態を蒸し返されて空海は面食らってしまった。

仔細はこうである。

空海と逸勢が唐留学からの帰国後、大宰府の鴻臚館こうろかんに留め置かれていた間、持ち帰った文物の検品以外することが無く碁を打ちながら暇を潰していた。

逸勢が検品の役人に呼ばれて中座し、帰って来た時におかしい、おかしいぞと首を捻っていたので「どうしたのですか?」と尋ねると

「いや…楽の師匠から戴いた琵琶の玄象、どの荷を探しても見つからぬのだ。お前にあげたものだからお前の荷に入ってないか?」

そこまで聞いて空海は学友に対して自分が取り返しのつかぬ失態をしてしまった事に今更気付いた。

実は空海、長安での宿舎であった西安寺を引き払う時に密教関連の文物を優先する余り、

逸勢から貰った琵琶を宿舎の部屋に置き忘れてしまったのである。

「あの…その…実は」
と空海にしては珍しく言葉を詰まらせながら説明と謝罪をすると逸勢は、

「じゃあ玄象がここには無い訳だ」

と納得したようにうなずき、薄い笑いを浮かべながら怒りに任せて碁盤をひっくり返して白と黒の碁石が散る中空海の上に馬乗りになってその顔を拳で何度も殴り付けた。

いきなり起こった貴族と僧侶の暴力沙汰が信じられず広場にいた者たちは呆然としていたが、碁師の伴雄堅魚とものおかつおが二人の間に割って入り、
「確かに宝物を失念した空海が悪い。が、空海阿闍梨は国の宝、それ以上手を出すのはやめるのです!」
と逸勢に一喝したのでそこで騒ぎは収まった。

逸勢はそれから十日余り空海と口を聞かず、空海も顔に青痣を付けたまま過ごしていた。

と今は嵯峨帝の碁の侍講になっている雄堅魚が、
「いやはやあの時は楽を粗略にする者を決して許さぬ逸勢どのの並々ならぬ執心を見せつけられましたよ」
と帝への講義の折にその出来事を話してくれた。

昵懇と云っていいくらい仲の良い学友同士と思っていたが。

「あの二人も喧嘩をする事があるのか」

と嵯峨帝が白い碁石を指に挟みながら御尋ねになると雄堅魚ははい、と頷き、

「唐ではしょっちゅうでした。何かと頼りない逸勢さまを空海が叱るという感じでしたが、日を置かずすぐに仲直りするのです」

と言いながら黒い碁石を碁盤に置いた。

「その関係性、朕にとって羨ましいものであるよ…お前たちは唐で友誼という最上の宝物を得たのだ、誇ってよいのだぞ」

と嵯峨帝は次の一手の考えながら軽やかにお笑いになられた。

その玄象という琵琶、二十四年後の承和六年(839年)八月に次の遣唐使藤原貞敏によって日の本にもたらされ、正良親王こと後の仁明天皇の愛器となる。

唐帰国より十三年、三十六歳の橘逸勢は宮中では嵯峨帝の書の侍講、雅楽寮《うたまひのつかさ》で唐楽の指南役と書と楽の第一人者として多忙の日々にあった。

「橘秀才どの、我が倅に最新の書体を教えていただけませぬか?」と貴族からの依頼があれば邸に出向き、

「橘秀才どの、この譜の解釈なのですが…」と雅楽寮の新入りの少年に質問されれば「ああ、それはだな」と相手が納得するまで根気よく教えてあげた。

「周りの者はやれ橘秀才どのとはやし立ててはいるけど…まだ五位もくれない薄情なお上に対してちと尽くし過ぎやしませんかねえ」

あなたは対価に合わぬ労働をし過ぎてはいないか?

と遣唐使仲間の雄堅魚が心配して言ってくれたのがちょうど自邸で逸勢が妻子と寛いでいる時。

平安京は梅雨に入り、いつ止むかもわからぬ雨が地面や庭の草木に降り注ぐこの時期人々は極力外出を控えている。

唐から帰国後、逸勢は高階遠成の姪の浄子と結婚し四男一女に恵まれ家では進んで我が子の世話をする子煩悩な父親になっていた。

今も末娘の逸子(後の妙沖)に手習いを教え、「上手い、上手いぞ」と娘の字を誉めちぎっている。

「雄堅魚が私の体を気遣ってくれるのは解っている。でも子供の頃は病弱で橘の役立たず、と言われて育った私は今周りから必要とされているのが嬉しくてたまらないんだ」

それにねえ、と逸勢は娘を膝に抱いて含み笑いし、

「五位に上がって堅苦しい上奏文を書いて帝の前で畏まるのは私の性に合わない。
そんなのは冬嗣どのや三守どの藤原の貴族に押し付けてりゃいいし、貴族たちから講義代を貰って不自由なく妻子を養える今の生活に私は満足しているんだ」

もう昔みたいに政変だの陰謀だの命の危険に怯えなくていい今の平和な暮らしあるのは今上帝の治世のお陰だ。

と逸勢は従姉妹の夫である嵯峨帝に心底感謝しているのであった。

「それになあ雄堅魚、秋になったら空海が紀伊に行ってしまうので帝は何か盛大な催しを思い付かれたようだ」

「催しってまた宴ですか?」

「空海にばれぬように事を進めてらっしゃるようだけどね、職人たちの動きを見れば大体察しが付くさ」

「帝は一体何をなさる気なのです?教えて下さいよねえ逸勢ど、の~」

それはなあ…とにやにやしながら逸勢はしばらく黙り込んだ、が「やっぱり秘密」とその話は打ち切りにしてしまった。

やがて梅雨が終わり嵯峨帝が密かに計画なさっていた催しが発表された。

それは平安宮大内裏の門額を今活躍する能書家たちの手によって書き直させる事だった。

嵯峨帝御自ら袖をめくって
東の三門(県犬養門あがたいぬかいもん、山門、建部門たけるべもん)と西の三門(玉手門、佐伯門、伊福部門いふくべもん)
をお書きになり、

橘逸勢には北の三門
(海犬養門あまいぬかいもん猪使門いかいもん丹治比門たじひもん)

そして空海には南の三門
(壬生門みぶもん、大伴門、若犬養門わかいぬかいもん)

と大内裏の内側にあり、朝廷内での政務・重要な儀式を行う場であった朝堂院(八省院)の正門である

応天門

の額を書く名誉を与えられたのである。

足場が組まれ、大内裏の十二の門の上に後の世に

三筆

と呼ばれる嵯峨天皇、空海、橘逸勢の手で書かれた額が掛けられるのをこのような機会、百年に一度も無いぞ!と都の文人達は四方一里余り(約5.2キロ)もある大内裏の周辺を見上げて回った。

最後に応天門に額が掛けられた時、嵯峨帝はじめ揮毫した空海、逸勢、そして藤原三守や藤原冬嗣、良岑安世と今は参議に出世した嵯峨帝の親王時代からの側近たち皆胸躍らせて新しい額の文字に注目した。

…おお、なんて力強い字なのだ!応天門の天の字の両の払いがまさに天に駆け上って行きそうではないか。

しかし額の字を見た瞬間に心に生じた違和感を拭えずその正体が解らず首をひねっていた。が、

「なんで最初の『応』の起点を打ち損じるのかなあ」

と空海のとんでもない失態をのんびりとした口調で指摘したのが他でもない逸勢だった。


皆の目が応の字に集まり、確かに良く見ると「応」の最初の一字が欠けている。(つまりは応のまだれががんだれになっていた)嵯峨帝はじめその場にいた者たちが
「あ…」と声を洩らし、空海自身が「…あっ!!」と顔を真っ赤にして叫んだのはほぼ同時だった。

幸い足場が組まれたままだったので空海がそこに上り、額に点を打って完成させたので事なきを得たのだが、

「足場から降りた時の貴人の方々の気まずそうなお顔、帝のなにか言いたそうで言えないご様子。あの時ほど生きてきて恥ずかしいと思ったことは無かった…」

翌年の弘仁十年秋、高野山から都に呼び戻された空海はその時の心境を大内裏北の県犬養門の下でたまたま出会った貴族の青年に語った。

「空海阿闍梨も間違うことがあるんですねえ…」
と話を聞いた青年はふたたび海犬養門の額を見上げ、

「東西の額は精緻な字で南の字は勢いがあるけど私はやはり北の三額の文字が好きです。書いた方の伸びやかさが伝わって来る気がします」

とやはり橘秀才の字が好きだ、と宣言した。

一目字を見ただけで書いた者の本質が解るとは見所のある若者だな、

と思い空海が「どこの若様ですか?」と名を尋ねるとその青年は

小野岑守おののみねもりの倅、たかむらです」

と大きな体を縮めて恥ずかしそうに笑った。

「唐に琵琶を忘れた事といい、応天門の額のことといいよりにもよって最大の仕事で慌てて失敗をするのがわしのどうしようもない所だが、
『一つも失敗しない隙の無い人間に可愛げも面白みもないよ。
お前がたまにしくじりをすることで人間としての均衡が取れているのだ』

とその場で逸勢どのが言ってわしの心を救ってくれたのだ」

昨年宮中に籠っていた時に逸勢が自分を見舞って弾いてくれた幽蘭という曲は昔、

孔子が諸国を放浪して用いられず、魯に帰るときに、ひっそりした谷に蘭が咲いているのを見て、自らが用いられないことを蘭に託して猗蘭操という詩を作ったという伝説から生まれたと言われる。

漢詩の世界では優れた人、高潔な人格者を蘭に例える詩がよくあるが、

空海は橘逸勢という人を、

自分がそうだと自覚せずに自ら世間の評判を求めずただそこに咲いている蘭の花だと思った。
だからこそ周りの人々は都に数多いる文人の中から彼を見つけ、彼の表現するもの全てに惹き付けられたのかもしれない。


「もし私が居なくなったらこの楊梅(山桃)の木を私だと思って下さいませ」

と藤原三守の妻、橘安子は生前よくそう言っていた。

だから私は今日、嬉しいことをあなたに報告しよう。

「安子、今日この家に新しい家族が来るよ」

参議藤原三守はこの日も庭の楊梅に向かって話しかける。

典侍橘安子は二年前の冬、宮中づとめの最中に頭痛を訴えて退出し、自邸で意識を失うとそのまま卒中の発作でこの世を去った。

最愛の正妻を失った三守の嘆きは深く、表向きはそつなく政務をこなしていても周りから見ても明らかに精彩を欠いていた。

「少しは休め三守、このままお前が倒れては皆が困る」

と義兄の冬嗣に指摘されて自分が妻の居ない心の穴を仕事で埋めていた事、それが却って側室や子供たちを寂しがらせていた事に気付いた。

それから三守は時間が空いたら出来るだけ家に帰って家族と過ごすようにし、二年近く経ってようやく生来の明るさを取り戻していた。

「その家族というのはね…この木の枝を折ってとんでもない子!とあなたがしばらく怒っていた相手なんだよ」
とそこで三守は木に向かってくすくすと笑う。

でも心根が優しい若者だし私たちの娘、睦子むつこももう十四の年頃だし許してくれるよね?

程なく今夜の婚儀のため婿殿とその両親が到着し、三守自身が婿と見込んだ若者、小野篁が出会った頃一尺近く背が伸びて張りのある大きな声で「三守どの!」と屈託の無い挨拶をした。

次に楊梅の木を見た篁が言った言葉でこの縁組は間違いではない、と三守は確信した。

「見てください舅どの…雀が戻って来ている!」

後記
弘法も筆の誤り。三守の人を見る目は確かだった小野篁との縁組。































































































































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