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さわがしい4人組。

最近は、リポートっぽいというか、

自分の声が少ない投稿が続いていたので、

アートともnoteとも、無関係ではない

自分とお付き合いの長い、
お絵描きなどの表現活動について
のっぺり書いてみました

①僕が『表現』に出逢った時

僕が絵に出逢ったとハッキリ言えるのは
小学2年の終わり頃のこと。

もとから、
自分の意見を表に出すのが苦手でしたが、

こう見えて、

野球好きな父の影響で、
球場に連れていってもらったり、

休日には父と
キャッチボールをしていました。

(今でも、イチローとオリックスのファンです。)

物心ついたと同時に
少年は、プロ野球選手にも憧れていました。


しかしある日、

少年はとんでもない勘違いをして
(長くなるのでここでは割愛しますが)、


スポ小に入るのを諦めます。

僕が三人兄弟の一番上で、
人より早く、我慢を覚えたのもあったとはおもいますが、




小2にして、自分の夢を押し殺すことを
覚えます。

また、その1年後…


小学校からの帰り道、
自宅の目の前で、

自動車に弾かれてしまいました。

…目が覚めたとき

病院の真っ白な天井と
母と担任の先生の顔が

眼前に飛び込んできた

こんな漫画みたいな情景を

この身体でリアルに経験します。

自己主張すると、

なにかまた、
他人に迷惑かけてしまうのではないか…。

それ以来、
自分が思ったことを口にしたくても

学校の授業以外のコミュニケーションではできず


いつしか、教室内でも、

言葉の代わりに

体の動きやうなり声で、それを示す

(今思えばなんて恥ずかしいんでしょ)
こともありました。

そこに拍車をかけるように、


4コマ漫画と出逢います。

外に出なければ、怪我をしないですむ。
また誰かに、迷惑をかけないですむ…。


誰も傷つけたくないのなら、


もういっそのこと、
誰とも関わらなきゃいいじゃないか。

それから、じゆうちょうが、
毎日のお供になりました。

(その割には、できた作品を、担任の先生に見せにいってましたけど。)

なので僕は
小3のときに正式に

趣味のひとつに
「お絵かき」追加されました。


端から見たら、僕は
「絵が好き」なほうの人なのは、
間違いありません。

ただ、好きと言っても、
その理由はそれぞれです。

僕は、たとえばリンゴや
モデルとなった人間を、


よりリアルに、本物と見間違うほど
上手く描きたい

…というわけではありません。

理想の二次元キャラを、
この手で生み出したい

…というわけでもありません。

それらができるようになった、
「絵が上手く」なったとしても、

僕自身が、
幸せを感じないからです。

甲子園に勝ち上がった高校球児しか、
見えない世界があるように

絵が上手くなった人に、見える景色というものも、
存在すると思います。

しかし僕は、

大学の部活では部長もやってたクセに、

そうじゃない自分を自覚しながら、
活動していました。


…もし身の周りの方に、

なにかこの手のことで、
誤解を生んでいたようでしたら、ごめんなさい…。

僕は、そういう意味では
「向上心のない美術部員」なのです。

なので、美大の世界など、
もっての他だと悟ってました。

じゃあ、絵を通じて
何をしたかったか。

そのルーツは
4コマ漫画にありまして

その中の
綺麗な1枚絵ではなく

お話・ストーリーの部分に
に惹かれてました。


お話を作ってみたり、


自分が見たり体験した

人間模様のノンフィクションを追ったりして



「こんなことを感じたよ!」
ということを

僕が
言葉にできないが故に、

言葉のかわりに、じゆうちょう
刻んでいました。

押し殺していたものを、

声には出さずに、
時には文字にも起こさずに


絵がしゃべってくれるから。
漫画のキャラがシャベッテクレルカラ。

そして、誰も傷つけずにすむ…
そんな感じ。

なので今でも


筋書きの無いドラマと言われる
スポーツをじっくり見るのが好きだったり、


様々な「人」の集合体である
「地域」でおこるイベント

(に参加している人)
気になるのも、

その名残です。

あと、
具象的な作品よりも、
抽象的な作品が好きです。

②僕は4人くらいいる

でも、

キャンパスライフでの
出会いやハプニングなどを通じて、

僕はリアルのセカイで
いろんな人、
考え方に出逢えています。

インドアな僕には、いわゆる二次元の世界も、
それはそれで面白いのですが

今は三次元の世界のほうが、

(面倒くさいこともあるけれど)


その何倍も、面白く感じます。

また、短期バイトなどをきっかけに、

マニュアル的に、
初対面の人に声をかけられるようにもなりました。

僕自身も知らなかった、


二人目の自分

のようなものを

知ることができました。


自分から話しかけること

その場のリズムに合いそうな話題をチョイスすることはできるんだけど、

内向的なままである。


人と話すのが面白く感じても、


僕の根っこの性格がインドアなのは、
今も変わりません。変わりませんでした。

ポ◯モンの第2形態のように、
劇的に自分が進化したとも思っていません。

過去の自分の思考がルーツにあったからこそ

その二人目の自分も、
「生まれた」のだと思います。

最初に出てきた、脳内も行動面も口下手な僕を、

素の自分の源泉垂れ流し状態、


「表現者」モード
とするなら、

二人目の自分、カウンセラー、
「理想の自分」に近づけた自分


「聞き手」モード
と呼んでいます。

相手の言葉を想いを、ひたすら聞く。
(講義で聞く先生の話とは別です)


草野球で
父がやっていたキャッチャーのように

どんな球でも受け止める。


クセのある変化球でも、不器用な球でも、
地面にバウンドしようとも。


体に当てて止めて
こっちがボロボロになっても、心がしんどくても。


相手のメッセージ、
投げられた球を、

決して後ろに、逸らしてはいけない。

その背景には、

「聞き手」の僕の後ろで、

「表現者」の僕が、
裏で耳打ちをしています。


「自分」は、
器用に話せない自分を知っているから…


ピッチャー(相手)が、

自分の声を届けるのが苦手な人や
ちょっと自信なさげな人の場合、


タイムを取って、
こちらから声をかけにいくこともあります。


「あなたのペースでいいからね…」
と、黙々とグローブを構えているときもあります。

鳥取での出会いがきっかけで、
「生まれた」自分は

一人だけではありません。

直接人と話してはいない時でも言葉を扱う、
Facebookという、発信手段を得ました。

僕は相変わらず、
そんなに自分に自信は持てませんが、


自分がギャラリーなどで
出逢った人のことを話すときになると、


妙にウキウキして話してしまいます。

自分のことに、自信がそんなになくとも、


素敵に「いいな!」と思う作家さんなどと出逢えた事実は、

変わりようのないものです。

「あれ?

普段は話さなさそうなイメージなのに、

以外と喋るんだね!」



こう言われるのは、
だいたい自分がこのケース・モードに入ったときです。

自分では

「代弁者」モードと



呼んでいます。

Facebookで何か書いている自分は、
この時が多いです。

自分の知ってる限りの日本語で

キャッチーな言葉をどこに持ってくるか。

その順番。

文章や話し方の
間の取り方。


読者や相手に、見せる部分、。

あえて見せない
(他の部分をより引き立たせる)部分。


漫画を見ていた頃の
ストーリーを立てる感覚が、

もしかしたら、
ここで発動しちゃっているのかもしれません。

ただ、「代弁者」

スタンドプレーをして、
文章を書いたりしているわけではありません。

人から聞いたものを
メモしておく時には、

「聞き手」とタッグを組んで、
取材をします。

また、
書き起こしたり、誰かに伝えたりするときに


アシスタントとして
「表現者」がでできます。


「おいおい!それじゃ、なにも知らない、僕みたいなフツーの人に伝わんねーよ

「ホントに、それは『僕』が言いたいことなのか?」

こんな感じで、別の「表現者」の自分が
校閲しています。

こんな、

僕の中にある、
騒がしい、3人組です。

いや、
こうして、「3人」を俯瞰している、
スマホを構っている僕も

確かに存在しています。

さわがしい4人組です。

普段は、理想にしたい姿、
「聞き手」の自分や

人に分かりやすい言葉を考える
「代弁者」の自分が

前に出ています。



(なので、僕は自己アピールというものが
大変苦手です)

しかし、いくつかのタイミングのとき。

話を振られたとき、
何を言っても良い場だと、心から思えたとき、
単に疲れて、頭が回ってないとき

「表現者」が顔を出します。


ただ、
僕の想いを、


脳から出てきた順番に
源泉垂れ流しにして話すと

あまり、
人には伝わりにくい文に
なってしまいます。

「表現者」の自分を、
「代弁者」が、後ろから肩を支えて、守っています。

TwitterやInstagramを書くときには

聞き手
代弁者
表現者

入れ替わり立ち代わり
出てきます

呟いた2分後に、
別の話題を2~3個呟いたりするのは、


「3人」とも、普段気にしているトピックが
微妙に違ったり

抱いている意見が
それぞれ微妙に違ったりするからです。

僕がお世話になっている方は、
これを知ってか知らずか


「君は、いろんな人との繋がりを持ってるよね」
「いろんな人の気持ちがわかるよね」
「インドアな人の通訳ができるよね」

と、見事に言い当ててくださっています。

(宮塚春美 noise ー消えた風景のノイズを色と線で迎える試みー @ギャラリーそら)

③久々に、絵で表現してみます

幼い頃と比べて、

絵を描かなくても、

占いの本を、
クラスメイトの輪に持ち込んだりしなくても、

今は

少しは人と話せるようになったり

「絵」にエネルギーを使わずとも、

noteなどで、
こうして文章で、言葉で


自分を表現
できるようになってしまいました。

言い換えてみれば

「絵に全てを注がないとコミュニケーションできなかった」

頃に比べて、

「絵描き」としてのピークは、
もう過ぎた、


とも、言えるのかもしれません。

文章で、
日本語で、
こうして表現する機会はありましたが、

今年5月。某ギャラリーにて、
久々に、絵を発表してみます。

絵を見てもらうって、(僕にとっては)

ちょっとはずかしいけど、

何事にも代えがたい、面白い経験です。

想いを

文や言葉とは
違った形にしているぶん

正直、解りにくい世界かもしれません。


でも、描いた側には、


自分が今まで何を思って生きててきたか、
どこに手を抜いたか。

作品に、プロセスに
イヤというほど、残酷に刻まれています。



自分の絵を見られていると、



自分の裸を
見られているような気分になります。

そこに、逃げ場はありません。

よく言えば
「力試し」だし、

大袈裟に言えば
「修羅場」です。

ただ、
それを見せる・自分を思いきって開くことで、


ギャラリーや展示会場にきた人と
会ったり話したり


そんな裸の付き合いのようなものをすることで

表現のしようのない、
勇気をもらえます。


この度の僕は 、


ある人から見れば、

いつもとちょっと違うモードで、
人とお話しすることになると思います。

そこにいるのは、
「表現者」の僕が描いた絵です。

「代弁者」や
「聞き手」の僕が、
アシスタントや、ガイドなどをしていると思います。

よろしければ、この、

一見相容れなさそうで、
でもひとつになっている

共存している

「4人組」に会いに来てください。



…ふう。

紅茶を一服。

絵について、
「絵以外」で伝えるのは、
かなり久々な気がしました。

でも、たまには、


「言葉以外」で自分を表現してみるのも、

楽しいですよ!

~終~

読んでいただきありがとうございます。いただいたサポートは、鳥取のアートシーンで活動されている方々を応援する際に使わせていただきます。