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反省ばかりして生きている

子供の頃、父がよく私に言ったことばで覚えているのは、「それじゃだめだ」と、「だからお前はだめなんだ」だったように思う。潔いほどに家族をほめない人だった。まあ、昭和の男はみんなそうだという人もいるけれど、それにしても潔すぎた。
ほめないだけならまだいいが、書くのも憚られるほどのひどい言葉を酒に酔って吐き散らす人だった。心が壊れなかったのが、奇跡のように思う。

その父も、引退して年をとってからはたまに、娘を褒めることがあって、でもそれは直接本人にではなく、誰か人を介する形をとっていた。多くは、孫だ。
「お母さんは、偉かったんだよ。自分でお金を貯めてスクーターを買ったんだよ。親に物をねだったことがなかったよ」
とかね。目は私を見ていない。でも、聞こえる場所で言うのだった。
ああ、それ、偉かったと思ってたんだ、と何十年もあとになってぼんやりと知ることになったけれど、できればたまにでよいから、その時に、本人に向かってポジティブな言葉をかけてほしかったなあと思う。

そんな父に、たぶん人生で一度だけリアルタイムでほめられた、と感じたことがあった。50歳をすぎてからアメリカに短期留学したときだ。
覚えたてのパソコンから、たまにメールが送られてきて、その中に
「健康は大丈夫ですか。いづみは頑張り屋さんだから心配です」
とあった。

頑張り屋さん

なんだ、そう思っていたんだ、と新鮮だった。
よく頑張っているねとか、えらいねとか、そういう言葉ではぜんぜんなかったけれど、ネガティブな言葉ばかり過剰にかけられ続けた娘としては、それは十分な「褒め言葉」となった。


言葉は大事だ。
「無口ですから」と下を向く高倉健は、だから私はあまり好きになれない。
言わなくちゃわからない。
そして
言ってしまったことは、意外と長く尾を引いて人の心に残ることもある。



「それじゃだめだ」
「だからお前はだめなんだ」
は、私の人生の奥底の水脈のようなところで、だから、脈々といまだに流れていて、まあ、それは父のせいではないのかもしれないけれど、私のキャラクターを形成する要素のひとつになっている。

というわけで、ほんとにもう
常に反省している
という人生を歩んでいる
というわけ。


小学生の頃は、年末になると「今年、自分の何が悪かったのか」を箇条書きにして書き出し、それをどう直していくのかという作業を毎年やっていた。
ピックアップされるのは「悪かったこと」で、よくできたことについてはスルーすることになっていた。
そこに着目したら、「つけあがる」からなのだった。

まあ、昭和はそんな時代だったのかもしれない。

そんなことないよ、いづみちゃんはとってもいい子だよ
素敵だよ
よくやっているよ

という友達の声がちゃんと心に響くようになったのは、人生のずっとずっと後半戦の頃で、それで私はめちゃくちゃ救われたのだけれど

でも、反省ばかりして生きている
ことに変わりはないのだった。


反省しているからといって、私が謙虚で慎み深く、正しいことができているというわけではないように思う。周囲から見たら、勝手なことして、マイペースじゃなあと思われることも多いはずで、でも、自由気ままにやりたいことやってるねえ、と思われるようなことの背後で、意味不明の場所で毎日反省ばかりしている。

先日も、友人4人で集まって楽しく飲みながら会話をしていた中で、つい口から出たことについて、長期に渡って反省しまくった。
友人の1人がタワマンに住んでいることを忘れて、家の近くに建った巨大なタワマンをディスってしまい、それに家に戻ってから気づいたんだった。最初の夜は眠れなかった。こういう無神経なところがだめなんだ。だからお前はだめなんだ、と心の中でほっぺたを叩いた。

申し訳なさすぎて耐えられず、後日会ったときに「ごめん」と謝ったら、当の本人は
「え、そんな話したことも忘れてた」と笑っているのだった。
気を使ってそう言ってくれているのかと思ったら、本当にそうらしいのだ。


反省するのは、悪いことではないように思う。
ただ私の場合は、それが「だからお前はだめなんだ」とセットになっているから、負のエネルギーが生まれてしまうのかもしれない。
「だめだ」と思われたくないために、正しい反省と、的外れな反省をも繰り返し、結局「ああ、ほんとに私はだめだなあ」の振り出しに戻っていく。

私が反省を繰り返すのは、ただただ、自分の人生で

善き人になりたい

と思っているからだなのだけれど、
なぜなのかについては、またここに書く日があるかもしれない。


人生折り返しをすぎて、もうあまり自分のことを「だめだ」と思いたくない私は、「だからお前はだめなんだ」を反省の動機とする代わりに

それがお前の善いところだ

と声かけをすればよいのかな、と思う。
言葉は大事だ。
だから必要な言葉は、自分で自分にかければよいのかもしれない。

それが、私の善いところなんだよ、と。

そんなことに気づくのに、何十年も費やしてきたんだなあ。
考えてみれば「反省」と言う言葉は、英語ではreflectionで、そこにネガティブな意味合いはなく、ただもう一度考えてみるというニュアンスに近いわけで(フランス語でも同様)、私が反省ばかりして生きているのは「自分の言動を反芻している」と思えばよいだけのことなのかもしれないです。

あ、はんせい ではなく はんすう と置き換えてもよいのかも?>笑
今日の出来事をはんすうしよう、と。

今日はこのあたりで。

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