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02. AI(Almighty Intelligence)= 万能知能

AI(Artificial Intelligence ; 人工知能)は今日では馴染みの深い言葉になってしまった。


AIが人間の仕事を奪う。ひいてはAIが人類を滅ぼすという考えもオカルティズム的に広がっている。


最近この人類滅亡論に関して、ある方から興味深いお話を拝聴した。
概略はこんなところだ。



『通信・情報技術やAIの発展によって、人類の生活は格段に便利になった。

だが、その一方で人類の存続が脅かされている。


「あなたは親や友達が提示した選択肢と、AIが提示した選択肢のどちらを選択しますか?」


後者であった場合、それはあなた自身の選択であろうか?
そもそもそこに自由意志は存在するのか?


人類が考えることをやめ、合理化された選択をAIに全て委ねたならば、AI万能主義の時代。つまりAIが人を超える絶対主であることを人類は認め、神を信じていた時代のようにAIを神として崇め奉る前近代的な時代が到来する。いわば”AI教“が蔓延り一神教化するのだ。


そして人類の進化の歴史も大きく変わる。AIの進歩によって自然選択から人工的選択が一般的なものとなり、均一な生物しか生まれなくなり、人類は淘汰されてしまう。この時代の変遷を、我々は指をくわえて見ていて良いものなのか…』



僕は時代の変遷はある意味で宿命のようなもので、もしこのような時代が到来するのであれば、人類はこれを甘受するしかないと考えている。


しかし人類は滅びることはない。



人類とAIの決定的な違いは何だろうか。


それは、AIが膨大な情報から最適解を見出す
”科学的(統計的)世界理解”しかできない一方で、人類は”文学的世界理解”ができることだ。


”文学的世界理解”とは、経験をその具体性のまま一回性のものとして捉えることである。


先日聞いた上述の話は全世界史を通じて一回きりの経験であった。そして個別の聴者によっては、あの話の意味するものは変化するであろう。


この”文学的世界理解”はAIにはできない人類に与えられたかけがえのない能力である。


また合理性を過度に追求すれば、いずれ「私」の存在理由などなくなる。有意味なもの、役立つことだけを尊重するなら、人間は、単なる生命体にすぎない。


ならば「私」を「私」として成り立たせているのは、生存のために必要な諸条件ではなく、生命活動には必ずしも寄与しない余計事の積分なのではないか。そして、人間存在の合理性が過剰に強いられるとき、人は自分を「人」につなぎとめようとして、例えば文学を希求する。


合理性をAIに委ねたとき、
梶井基次郎のように、一顆の檸檬を「――つまりはこの重さなんだな。――」と捉えることが人類には必要なのではないか。そして人類は“より人類らしく”なるのではないか。


梶井基次郎の「檸檬」は以下より


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